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満州での被害

終戦とともに満州国は崩壊し、
息絶え絶えの日本軍民に襲い掛かったのは、
ソ連だった。


●「満州では日本軍は全ての戦線で後退し、日本人がおきざりにされた」…
これは不当な見方。当時関東軍はすでに主力を南方戦線に転用したうえ、戦線縮小のため朝鮮国境山地付近に移動中だった。そうした虚を衝いてソ連軍は、機械化部隊を先頭に満州めがけて侵入してきたのが事実である。
   《三浦朱門 
   「「歴史・公民」全教科書を検証する」》


●忘れてはならないのは、日本本土に引き揚げようとする民間の日本人避難民に対し、ソ連軍だけではなく満州人・中国人・朝鮮人らによっても言語に絶する暴行・略奪・殺戮が行われ、それが日本敗戦後の当該地域の責任ある統治機構によって黙認・助長されたことである。
当時有効性を持っていたハーグ陸戦法規は、文民保護の規定を設けていた…
 ◇占領者が公共の秩序を維持する義務(第43条)
 ◇個人の生命・私有財産の尊重(第45条)
 ◇略奪の厳禁(第47条)
           …等がそれである。

●引き揚げ者の告白(月刊誌「潮」昭和46年8月号)…

◇「2人の子供を背負い、昼間の狙い撃ちを避けて夜通し歩き続けました。年老いた人たちは、足手まといになってはと自ら濁流に身を投げ、幼い子供を絞め殺した婦人も少なくありませんでした」(5歳と3歳の子を持つ主婦)

◇置き去りにされ、狼の餌食になったと思われる子供たちもいた。栄養失調で死ぬ子供が続出した。

「これまで親しくしていた満人の友も、匪賊と化して襲ってくる」

◇「日本人は皆殺しだと宣告され、幼児までが中国語で話せと強要されたこともある」

◇「いつのまにか満人の農民に囲まれていた。度重なる略奪に身ぐるみはがされた私たちに、子供を売れと要求するのである。男の子が300円、女の子が500円だという。私は地べたにひざまずいて『助けてくれ、この子は私の命、私の命』と(中国語で)叫んだ」(俳優・芦田伸介)

◇「カボチャ1個と子供を交換した母親もいる。信じられないことだが、事実だった」(俳優・宝田明)
        《米田建三 正論 2005/11月号》


●「ソ連軍も満人や中共軍までが日本の女を要求した。集団の生命を護るために身を犠牲にした娘もあった。子供を養う為に身を売らなければならぬ母親もあった。…ある娘はこんな穢れた身を祖国にもち帰っては申し訳ないからと、両親の勧告をさえ切って、満州の土となるべく帰らなかったという」(壬生照順「真理」第11巻第5号 昭和21年12月)

●「北朝鮮に入ってきたソ連軍は…白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的に拉致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された」(若槻泰雄「韓国・朝鮮と日本人」) 満州も北鮮も情況は全く同じだったと言ってよい。

●「北満の或る開拓村では敗戦の報の伝わると共に、付近の村落から数百の暴徒が蜂起し、一村一物も残らず掠奪されし上、男女悉く丸裸にされた。…山中を行軍(負傷後、軍服を脱いで逃避してきた兵士)すると、あちこちにいたいけな日本人の子供が捨てられて居る。道には日本婦人の丸裸の死体がゴロゴロ横たわって居る。始めは一々路傍に寄せて車を曳いて進んだが、余りに数が多いので遂には止むを得ず死体の上を曳いて歩いた。樹木にくくりつけて惨殺されていた婦人も少なからずあったとのことである」(若林松太郎「世界國家」創刊号 昭和22年1月)

●そう、日本は満州の地で、アジアの共産化を身を以て喰い止めていたのである。その第一線を突破されて満州が赤化されたとき、悲劇が日本人の身に降りかかった。
         《勝岡寛次   〃   》


●ソ連軍は日本が降伏したのちも侵攻を止めず、数週間にわたって南進を続けた。中国北部でソ連が侵攻した地域は、東欧でソ連が占領した全地域よりも広い面積に及んだ。ソ連軍の支援を得た中共勢力は、8月末までにチャハル省と熱河省の大部分を占領した。

●最大の収穫は中国東北(満州)だった。東北には中国最大の埋蔵量を誇る石炭・鉄・金の鉱床があり、広大な森林があり、重工業の7割が集中していた。ソ連軍はただちに日本軍の兵器庫を共産軍に開放した。その中には東北最大の瀋陽兵器庫があり、中共の極秘文書によれば、ここだけでおよそ「10万挺の銃・何千基もの大砲類・大量の弾薬・布地・糧食」が手に入ったという。わずか数ヵ月前まで、八路軍はわずか154基の重砲しか所有していなかった。

●ソ連占領軍は工場や機械類を丸ごと「戦利品」として運び去り、生産施設を破壊していったのである。ソ連軍によって持ち去られた機械設備類は8億5,800万米ドル(現在の20億米ドル)と推定され、これによって多くの国民が生計の道を断たれた。
 《ユン・チアン ジョン・ハリディ 「マオ」》



●北朝鮮との国境の町・通化では、1946年、2千人とも3千人ともいわれる日本人が虐殺された。(通化事件) 日本人がやたらめったら機関銃で虐殺され、死体は河に捨てられて血の河になった。
    《宮崎正弘 「出身地でわかる中国人」》


●ソ連軍占領地におけるソ連兵の無法行為に対して、ソ連軍の憲兵は全く取り締まろうとしなかったし、将校も先に立って悪行を重ねた。個人としてではなく、ソ連占領軍当局も日本人会に対し現金・貴金属などの金品の供出を強要し、また日本人の会社の建物・個人の住宅を家具ごと接収した。

●占領軍はまた、必要に応じ日本人を強制労働に動員し、施設の撤去、土木工事、個人の私用にまで酷使した。施設の撤去というのは、工場の機械はもとより、事務所の机・椅子、工業原料や食糧の貯蔵品をソ連に運び込むことだ。病院では寝ている患者を床におろし、寝台から毛布まで運び去った。

●在留日本人の中でも、最も悲惨なのは満州の僻地に入植していた開拓団の人々である。若い男たちは軍隊に現地召集されて既にいなかったので、老人・女・子供たちは荷物を担いでひたすら南へと歩き続けた。ソ連軍と暴民はこれに襲いかかり、また略奪暴行、殺戮をほしいままにした。一時に200人以上が殺され、または自害した事件だけでも21開拓団もあり、殆ど全滅したものも7つを数える。

●幸いに日本居留民の多い大都市にたどりついた集団は、手荷物がないのはもちろん、文字通り一糸まとわず、やせこけた体をさらしている男、素足で麻袋に穴をあけ首と手だけを出して、新聞紙にくるんだ赤ん坊を抱きしめている婦人、それはまるで「幽鬼の行列のよう」であった。

●これら難民の収容所では、毎日のように何十人もの人が息絶え、ついには死体を片付ける体力のある者もいなくなった。そして収容所のまわりには中国人がむらがった。日本人の子供を買うためである。しかし、この親をどうして責められようか。もし子供を手放さなかったら、数日のうちにその子が飢え死にすることは明らかだったからである。

●こうして満州では20万余、北朝鮮では2万6千人が殺害・自殺・餓死・凍死・のたれ死したのである。
これは一体、誰の責任なのか。日本軍のせいにする者が多いが、日本軍は既に降伏して武装解除しているのである。この責任は占領軍たるソ連軍にある。ヘーグ条約には占領軍は「公共の秩序維持」「占領地の住民の保護」「その名誉、権利の尊重」「略奪の禁止」その他が詳細に定められている。
  《若槻泰雄 「売文業者たちの戦後責任」 
   他の著書「「在中二世」が見た日中戦争」》


●米軍が占領した内地はよかったが、ソ連が担当だった満州は悲惨だった…
彼らは争うようにして日本人を襲った/殺人・強姦・略奪・暴行/日本人の家だけを狙い小銃を突きつけてはやりたい放題/「近いうちにまた連れ戻しにきますから」と言って子供を預ける親がたくさんいた。子を殺すより預けた方がよかった。

満州では、開拓団単位で集団自決した所が数多くあった。(服毒・ピストルを互いに撃つなど)
   《半藤一利 「ソ連が満洲に侵攻した夏」》


●「葛根廟事件」=1945年8月14日午前11時過ぎ、興安から葛根廟に逃げていく非武装の婦女子・老人たち1千数百名に対して、ソ連軍の戦車隊が1時間半にわたって砲撃・銃撃を続け虐殺した。
   《土屋敬之 「ストップ偏向平和祈念館」》


●1945年8月15日、2時頃、知人が「大変だ、大変だ」というので、開拓団本部(事務所)に駆けつけると、「日本は無条件降伏で負けた」という。そのうち、外で銃声が聞こえてきた。「あれは、東新京の満鉄農場の近所で、暴動でも起きたらしい、その銃声だ」と言われた。

●開拓団は、みんな「身の回り品をまとめて、事務所に集合せよ」の連絡が入った。集まると「ここは危険だから、野宿することになった」。村の南東1キロばかり離れた大頂頭山という小高い山の麓で一夜を過ごすことになった。

●一夜明けて何もなかったので、事務所へ戻ると、何百人という原住民が集まっていた。すると、拳銃を下げた満州軍だと思うが、空へ向けて拳銃をぶっぱなし、大声を挙げたとたんに鬨の声が上がって暴動が起きた。

●真っ先に畜舎の馬を放馬して、家の内になだれ込んで、我先にと彼らは着る物、衣類が一番尊かったので、それをかき集めて運び出した。棍棒で我々のけつを殴る。たまらず、着の身着のまま家を追い出された。大頂頭山の麓に再び逃げたが、棍棒を持った原住民が追いかけてきて、上着や靴などを奪っていった。68歳の団長は体中殴られて、足腰が立たないほどだった。

●団長は死に、あとには女・子どもが残された。校長先生の奥さん、副団長の奥さんたちが話し合って、自決の道が選ばれた。「ここで私たちが中国人のおもちゃにされりゃ、日本女性の恥だで、それより、潔く、私たちの命を絶とう」と言った。そのうちに赤ん坊をはじめ小さい子どもの順に、我が子の首を絞めて殺し始めた。他の開拓団では青年男子が銃で子どもたちを殺したというが、私たちは銃などなかったため、おばさんたちのモンペの紐で首を絞めるしかなかった。

●さらに残ったおばさん同士が絞め合って、おしまいに残ってきたのが独身女性など。最後に私と友人の中川が残った。周りはとうもろこし畑だけで、首を吊るにも立ち木がなかった。眉間を殴れば死ぬと聞いていたので、小石を見つけ、互いに眉間を殴り合った。そしたら、生ぬるい血がどろどろ出て、失神してしまった。沖縄のような軍の関与はなかった。

●結局、8月16日の夜中から17日の朝方にかけて、開拓団員と家族73名が集団自決に追い込まれた。気絶した私と中川は、夜が明けてから意識を取り戻した。あたりを見回すと、子どもや婦人の死体は殆どが全裸であった。現地住民が着ているものを剥がしたらしい。
    《久保田諫 「昭和の記憶を掘り起こす」



        



●(中国の)共産党も国民党も、満州の日本人技術者を「強制留用」した。国民党だけでも11,092人に及ぶ。
      《NHKスペシャル2008/12/8》


●満州に155万人いた民間人の死亡者は、17万6千名にのぼった。

●戦後左翼思想が跋扈する中での、関東軍が日本人入植者を見捨てて真っ先に逃げたという伝承…
◇東部の正面戦線では、第124師団がソ連軍主力の猛攻に5日間耐え、牡丹江在留邦人3万人の後退を完了させてから停戦した。
◇西部の第107師団も、健闘して邦人を無事退避させた。
◇内蒙古の駐蒙軍は、邦人引き揚げまでソ連進駐の猶予を求めたが容れられず、軍の犠牲者を出しながらも応戦して、4万の張家口邦人の全員引き揚げを完了させている。

●もちろん中には、軍の停戦地域から離れた地域、あるいは連絡の途絶した地域の邦人が受けた惨禍もあり、各人の経験はその置かれた環境により千差万別である。軍が邦人の生命安全を無視した、などということは当時の日本人の心情からいってとうてい考えられない。
      《岡崎久彦 「吉田茂とその時代」》


●終戦間際に「搾取」(欧米の搾取型植民地経営)を知らないロシア人が入ってきた。彼らは「略奪」しか知らないから、孫呉の火力発電所もぶっ壊して発電機から石炭のホッパーまで盗んでいった。
あとにきた支那人も略奪しか知らないから、ロシア人の残した家のドアから水道の蛇口まで洗いざらい奪っていった。気がついたときハルビンは廃墟と化していた。地上の楽園は消滅した。

●満州の居留邦人は、ロシア人、朝鮮人の略奪・暴行の対象にされ、敦化ではロシア兵の慰み物にされた王子製紙女子社員28人が青酸カリをあおって集団自決した。
またハルビンの東方、麻山では支那人に包囲されて450人が自決、隣の方正では牡丹江から逃れてきた1万5千人のうち、飢餓と寒さで5千人が死んでいった。

●戦後、残留孤児の帰還が始まると、たとえば方正ではみんな残留孤児だと言い張って3万5千人が日本に渡った。残留孤児の中には金を取って、ただの支那人を「身内」に仕立てる不埒者もいた。
         《折節の記 正論2012/7月号》


●北満州に残された開拓民27万名の運命は、苦難というより悲劇だった。獣の如きソ連兵による虐殺、略奪、強姦は怖るべきものだった。老人、女、子供ばかりの難民の列に対し、丘の上から機銃掃射を浴びせることもあった。
絶望の中で数十人、数百人単位の集団自決が相次いだ。父親が泣きながら我が子そして妻を撃ち、最後に自らの命を断つ、というような光景が随所に見られたという。

●8月15日に日本が降伏し、三日後に大本営が全軍に武装解除の命令を出しても、ソ連軍は進撃を止めなかった。軍隊や避難民が武器を捨てた後は、ソ連兵に加え、中国人が暴民化して丸腰の開拓団を襲った。死んだ日本人から衣服を奪う、ということまでした。
       《藤原正彦 「この国のけじめ」》


●満蒙開拓団のなかで、最近まで明らかにならなかった悲劇がある。それが秋田県雄勝郷開拓団の集団自決である。「満洲開拓団雄勝郷の最後」(伊藤正編著)と題した小冊子に、その悲劇の一端が記されている。
〈八月九日、蘇聯(ソ連)の宣戦なるに及び、十七歳より五十歳までの男子根こそぎ動員となり、團内は老幼婦女子のみとなり、悲壮の決意を以てその運営に當たらねばならぬ状態となりました〉

●ソ連軍の侵攻とともに、中国人の満州反乱軍が村を襲った。開拓団には銃や手榴弾、日本刀などの武器もあったが、女子供だけでは太刀打ちできない。
〈八月十九日午後四時頃、多少小康を得たるも、手持ちの弾丸残り少なとなり、且つ疲労甚しく、このまま生きて恥を宙外に曝さんより死して護國の鬼と化さんと、老幼婦女子二百六十餘名、遥か東方を伏し拝み、互に相擁し、相勞はり、あわれ痛ましくも手榴弾により、従容悲愴の最後を遂げたのであります〉

●この集団自決のうち15歳以下の子供が、男子73人、女子66人もいる。雄勝郷開拓団の妻たちは終戦も知らされないまま、戦地に向かった夫の足手まといになるまい、と決意し、命を絶ったのだという。「死にたくない」と泣き叫ぶ子供と無理心中した。なかには逃げ出して行方不明になり、残留孤児になった子供もいる。
         《森功 SAPIO 2015/8月号》

※日本人とは、こういう人たちなのである。「沖縄集団自決は軍の命令」などというのは、まったくのねつ造話である。(管理者)



  満洲だけではなく、樺太にもソ連の無法が…

●8月15日の日本降伏後、ソ連軍は千島に上陸を開始し、16、17日に樺太の2つの町が砲爆撃を受け、千戸以上が焼失した。停戦協定のため派遣された白旗をかかえた軍使はその都度射殺され、一部は抑留された。
ヘーグ条約には特に「軍使」という章が設けられ、軍使は”不可侵権”を有すると定められているのだが、ソ連軍はそんなことには無頓着だった。

●8月22日、ソ連軍との間でどうやら停戦協定が成立した直後、降服を意味する白旗が林立する樺太庁の所在地・豊原市はソ連軍の銃爆撃を受け、たちまち4~500人が死傷した。同じ日、北海道に避難する非戦闘員を乗せた三隻の船が撃沈・撃破され、600人が行方不明となった。

●60万人の日本軍を「本国に送還する」とだまして、シベリアの奥地へ連れ去った。
◇ポツダム宣言には「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得しめらるべし」と明記してある。
◇ヘーグ陸戦条約にも、「平和克服の後は、なるべく速やかに捕虜をその本国に帰還せしむべし」と定められている。
   《若槻泰雄 「売文業者たちの戦後責任」》


●1945年8月14日、満州北東部の葛根廟では、避難中の満蒙開拓団の女性・子供ら約1200人が、戦車14両とトラック20台のソ連軍と鉢合わせした。
白旗を上げたにもかかわらず、ソ連軍は機関銃掃射を行い、さらに次々と戦車でひき殺した。死者数1千人超、200人近くは小学生だった。

●この惨事を第5練習飛行隊第1教育隊大虎山分屯隊の偵察機操縦士が上空から目撃した。
怒りに燃えた同隊の有志11人は、総司令部の武装解除命令を拒否し、ソ連軍戦車への特攻を決行した。

●敦化(現吉林省)でも悲劇が起きた。武装解除後の8月25~27日、パルプ工場に進駐したソ連軍が女性170人を独身寮に監禁し、強姦や暴行を続け、23人を自殺に追い込んだのだ。
…ソ連軍の侵攻により、軍民合わせて約24万5千人が命を落とした。
     《産経新聞取材班
      「国会議員に読ませたい敗戦秘話」》


 ※関連ページ : 満州事変の「排日活動」も参考に

【日本人の被害】
中国本土での被害/性別も不明になるほどの惨殺
満州での被害/ソ連兵の残虐さ
原爆・空襲/日本が降伏する前に投下しなければならなかった