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国旗・国歌

日の丸・君が代を毛嫌いする左翼反日勢力。
これだけでも彼らの異常さがうかがえる…


●以前フランス人記者から、「日本ではなぜ国旗・国歌が社会問題になるのか」と聞かれてハッとした。世界中の人々は議論にも値しないほど当然なのに、日本だけが議論を続けているのは恥ずかしい。靖国の議論も然り。
      《浅田次郎 諸君!2005年5月号》


フランス国歌ラ・マルセイエーズ…「やつらをやっつけて/血の海に投げ込め」(2番)
この歌詞が血腥いのは当然である。この歌は、マルセイユに殺到した反革命軍とイギリス海軍を撃退するために、市民の奮起を促す意味でかかれた。大革命を守るために銃をとることを訴えたこの歌は、そのまま共和政体をとる歴代政府のテーマソングとして受け継がれてきた。
     《福田和也 「『覚悟』のない出発」》
       (他著書「俺の大東亜代理戦争」)


●国旗や国歌と骨肉の死がたちまち結びつくくらいなら、一升びんを見るたびに顔をそむける人があってもよさそうである。玄米が配給になると、一升びんにいれて竹の棒で突ついて白米にした。食いものの恨みは忘れ、旗や歌の恨みだけおぼえているのは不自然だというより、うそである。
       《山本夏彦 「山本夏彦名言集」》
         (他著書「茶の間の正義」)


●日本の若者が海外で、他国の国旗に対して極めて無礼な態度をとっているのに出会った。彼らは国旗・国歌が敬意を捧げるべき存在であり、自国の国旗に対するのと同等の敬意を他国の国旗にも捧げなければならない、それが国際人としてのマナーである、という基本的教育を全く受けていない。

●少なくともこのマナーだけは必ず教えなければならない。そういうことを全く無視する人々がいる以上、やはり法制化はやむを得なかったといえる。

  《井沢元彦 「読売VS朝日―社説対決50年」》
        (他著書「『誤解』の日本史」)


日の丸は血にまみれているというが、どこに血にまみれない国旗があるか。

●天皇制といえば反対、国旗といえばあげないというのはパブロフの犬(条件反射)である。
      《山本夏彦 「世間知らずの高枕」》


●甲子園大会で、数千人を数える球児たちから「造反(=日の丸・君が代反対)」が出ないのは不思議の極みで、事前に念押ししているとしか思えない。

●公立校の卒業式での日の丸掲揚・君が代斉唱に抵抗しても、これまでは訓告程度ですんでいたが、昨年「今度は減給になる」という情報が流れるや、反対者が一挙に前年の十分の一程度にまで減った。
       《秦郁彦 SAPIO2005年9月28日》


●広島では学校長が作成の転校届けが、事務員によって放置。その理由が「元号を使っていたから」と。アジアの方々にご配慮の奴隷根性諸君におかれては、西暦もマズいんじゃないのか。

   《勝谷誠彦 「帰ってきたバカとの闘い」》
    (他著書「この国を滅ぼすバカとアカ」)


●国歌と国旗のボイコットなど、外国をよく知らない独善的な人の考えることだ。どの国でも自国の国旗と国歌に対する敬愛は大変なものだ。だから外国人の私たちも、それに同調するのが礼儀である。国旗や国歌に対する躾ができていない生徒など、国際化の時代に最低のマナーも知らないことになる。
       《曽野綾子 「正義は胡乱」》
    (他著書「人間にとって成熟とは何か」)

あきれた様子のイラスト



●歴史的には「日の丸」の紋章は、701年に天武天皇が最初に使い、「太平記」では後醍醐天皇の錦の御旗として登場する。1854年黒船のペリー提督に開港を迫られた江戸幕府は、島津斉彬や水戸斉昭らの献策に押され、日の丸を国章とした。

●「君が代」は、「古今和歌集」に読み人知らずで初載され、「和漢朗詠集」にものっている。そこでの”君”は主人・友人・愛人など三人称を意味し、相手の長寿を祝う賀歌だった。そのため江戸時代の隆達節・箏曲・地唄・長唄などに広く歌い継がれていき、国民感情に広く即していたことがわかる。

●明治に国家となったときから”君”は”天皇”だとする解釈に変わったが、新憲法下でも天皇は”日本国民統合の象徴”とされており、”君”イコール”国民”と解釈できるわけで、なお時宜にかなっている。

  《石井竜生 井原まなみ 「壁のない密室」》


●教師は思想・良心の自由を言う前に、国民の付託を受けて教育という崇高な使命を担っている。教育には人間教育と国民教育という2つの柱があり、教師には子どもたちに日本国民としての基礎基本を教え、日本人としての心を育む、という使命がある。

●たとえば国旗国歌に対して礼を尽くすのは、基本中の基本である。教師の勝手な信条でそれが学べないとしたら、子どもの学ぶ権利の侵害、人権侵害である。
    
《高橋史朗 週刊新潮2006年4月27日》


1999年に国旗・国歌が法定されるまで、教師や政党が「法定されていない」ことを日の丸・君が代反対の根拠にした。ところが法定されると今度は「信条の自由」で反対するものが出てきた。法定されたものを「信条の自由」で拒否する者には、公立学校の教師たる資格はない。
  《屋山太郎 「なぜ中韓になめられるのか」》
        (他著書「安倍晋三興国論」)


●式典での国旗掲揚・国歌斉唱に反対する教職員らの妨害活動は、法規制や処分の徹底とともに形を変えながら変遷してきた。かつては職員会議で校長を長時間つるし上げたり、式典当日には「Tシャツやゼッケンを着けて臨む」「暴れる」「やじる」などの妨害活動を繰り返してきた。

●こうした激しい反対闘争が沈静化した後は、国歌斉唱時に起立しないなどのサボタージュが横行。最近では生徒に式典で起立しないよう促したり、生徒の絵画や卒業作品などを国旗が掲示される壇上正面の位置に展示し、わざと国旗が見えないように画策。生徒や保護者に壇上展示を校長へ願い出るよう仕向けるなど、巧妙に処分を避けながら国旗掲揚を阻止した例もある。
        《産経新聞2006年5月29日》
 (関連書籍「国会議員に読ませたい敗戦秘話」)


●国立市立第二小学校 校長土下座要求事件(2000年3月)…
卒業式前日の3月23日、9時間にも及ぶ職員会議ののち、校長が屋上に国旗を掲揚する決断をした。
ところが当日この掲揚をめぐり、教頭・教師7人・児童約30人(5年生2人ほかは6年生)・保護者6人が屋上や校庭などで約2時間にわたって抗議。
結局、国旗は教頭の手によって降ろされ、児童は校長に土下座を迫った。

●児童は校長に対して「ほかの先生がみんな反対しているのに何で揚げたんですか」と尋ねる。
「勝手に揚げたのではなく決められているから揚げたんだよ。又揚げてほしくないという人だけでなく、揚げてほしいという人もいるんだよ。ただ、反対している人のことも考え、国歌を歌うことをやめ、国旗も式場ではなく屋上に揚げることにしたんだ」と校長が答えると

●児童は「卒業式は私たち中心のものだ。降ろしてほしい」「校長が1人で勝手に決めて国旗を揚げるのはおかしい」となお抗議する。これを応援してA教師が「子どもに相談しないで国旗を揚げたのは民主主義に反する」というと、子どもたちはさらに「基本的人権に違反する」「多数決で多いほうに決めるのが民主主義じゃないか」と叫び、異様な興奮状態に陥ったという。
《屋山太郎
「抵抗勢力は誰か―改革を阻む“亡国の徒”リスト」》



●卒業式がどういう形で行われるにせよ、子供たちに何かをさせないことが教師の役割ではないか。子供を「鉄砲弾」扱いしていることに、国立市立第二小学校の教師は気づかないのだろうか。

●「子供たちがいやだなと思うことを強要することが、『内心の自由の侵害』となる」と教師は主張する。
そもそも国旗・国歌をいやだなと思うように仕向けたのは、教師自身ではないか。これは一種のマッチポンプといえないか。
《桑原聡 「教育黒書―学校はわが子に何を教えているか」》(他著書「国家再生の哲学」)

●昭和40年代あたりまでは、卒業式ではステージ中央に大きな国旗が掲げられていた。この時期すでに日教組の組織率は高かったであろうが、まだ組合のイデオロギーよりも日本人としての健全な良識の方が優っていたのであろう。戦前の教育を受けた世代が親として世の中を支えていた時代である。
戦後教育を受けた世代が親となり始めた昭和50年代あたりから、教育が悪くなり始めた気がする。
              《木村貴志 〃 》


●何で教育基本法の中に「愛国心」というものを収めなければならなくなるかといったら、教育の現場で無理やり「君が代」を歌わせないとか、無理やり日の丸を揚げさせないとかいう現実がある。イデオロギーを押し付けて、自然に芽生えてくる「偏頗心」(身びいきの感情)的なものまで摘み取ろうとする連中がいっぱいいる
     《小林よしのり 月刊現代2006/7月号》


●そもそも学習指導要領は最高裁で法的拘束力を持つとされているため、国旗掲揚・国歌斉唱をせず不起立ならば、法律違反と言わねばならない。
        《財界にいがた 2006年9月号》


●刃物だって医者が持てばメスになるし、ならず者が持てばドスにもなる。日の丸が悪用されたからと言ってそれを悪と決めつけるのはおかしい。
     《高橋史朗 週刊新潮2006年10月5日》


デモクラシーは多数者支配だから、声の大きな少数派の横暴は民主性ではない。民主的教育というのは、1つの学校の中にある教師の多数派・多数意思による支配ではなくて、国民全体が求めるような内容の教育を推進することが民主的教育である。(例:国旗・国家は国民の8割が求めている)
《小川義男 「新しい歴史教科書を「つくる会」が問う日本のビジョン」》


●そもそも卒業式や入学式で、国旗・国歌に敬意を払わない教員たちの尊大な態度は何なのか。来賓や父母に対して失礼だし、それはイデオロギー以前の礼儀作法の問題である。まるでならず者の集団としか言いようがない。子供たちは教師のそうした姿勢を見ているわけだから、教師が何か規律なりルールをともなった行事や儀式を学校でやろうとしても、素直に聞くわけがないではないか。「学級崩壊」など必然的な現象だろう。

●アメリカではそれこそ幼稚園児の頃から、「私はアメリカ国旗に忠誠を誓います」と毎朝胸に手を当てて暗唱させる。国歌が演奏されれば立ち上がって脱帽させる。これが世界の常識。    
       《八木秀次 「国を売る人びと」》






●待ちに待った子供の晴れの入学式(卒業式)で国歌斉唱の段になり、みなが起立し厳かに国歌を歌おうとしているときに、ジャージ姿やセーター姿、日の丸にバッテンをしたTシャツにジーパン、サンダル履きの教師たちが着席したまま立とうともせず、来賓や保護者はその奇異な姿に驚き、子供たちも困惑して国歌斉唱どころではなくなっている…。

●もし私が保護者としてその式典に参加していたとすれば、子供たちの晴れ舞台を台無しにした身勝手で無作法な教師たちに怒り心頭に発し、反対に慰謝料を請求する裁判を起こそうと思うだろう。

そこまでして自分の信念を通したいのなら、教壇を去ってからにすればよいのであって、子供たちを巻き添えにして人生の大切な節目の式典を台無しにし、学校をイデオロギー闘争の舞台にするような教師たちは、教育者として失格である。

●土屋敬之・東京都議会議員によれば、「国旗を掲揚しろといえば、早朝学校の屋上に掲揚したり、三脚に立てて舞台の幕の陰に置く。卒業式に斜線を入れた国旗を胸に付けて出席する。…国歌のメロディーを流すレコーダーがなぜか故障する。あるいはほとんど聞き取れない音量でメロディーが流れる…」という状況だったという。

●「学校の裁量」「教育の自主性」を主張できるのは、常識的な教育ができる学校や教師だけであり、悪意に満ちた非常識な行動をとる教師が存在し、式典の雰囲気をぶち壊しにしている現実がある以上、詳細な取り決めをしなければ教育が正常に行われず、子供たちとその保護者が犠牲になるのである。

天動説がその教師の思想の中核をなすとしても、公教育に携わるものである以上個人的な思想に反しても天動説ではなく地球は回ると教えなければならない。その限りにおいて教師の思想は制限を受けるのである。 
       《稲田朋美 正論2006/12月号》


「日の丸の赤は血の色、白は骨の色」
           
 …日教組の解釈。

ヨーロッパにも多くの社会党・共産党があるが、自国の国旗や国歌を認めないというような政党・組合は存在しない。
   《屋山太郎 「日本の教育ここが問題だ!」》


●日本人がかくも日の丸・君が代を蔑ろにできるのも、それを許すおおらかな”国家”があるからだ。

      《石井英夫 「コラムの愉しさ」》
       (他著書「いとしきニッポン」)


●国旗国歌を国が強要するべきでない、学生の自主性を尊重しなければいけないという…
けれど、小中学生など十代の未成年の「自主性」は、どのようにして身についたものか?そもそも「自主」とは広辞苑に「他人の保護または干渉を受けず、独立して行うこと」とあるように、親の保護・干渉を受けてこれから成長していく小学生に自主性が育っている筈がないのだ。チビどもが自主性を掲げるとしたら、それは親か教師の誘導干渉を受けることによって作られていったものだろう。

●国立市の小学校で、生徒が「ぼくらの心を傷つけた。謝れ!」と校長に向かっていったという。
しかもその子の後ろには担任、親などがいて、一緒に校長を難詰したのか、見ていただけなのかは定かではないけれども、(多分、口々に文句をいったにちがいない)とにかく子供に向かって「そんないい方をするものではない」というような注意をする者は1人もいなかったということだけは確かである。

国旗掲揚をやめさせることと、校長先生に非礼を働くことと、いったいどちらが人間として大切なことか、それを判断する力もない教師や親が大きな顔をしている国立という町は…。

●校長は仕方なく「君たちの気持ちを考えずに傷つけてすまなかった」と謝ったそうである。それで一行は漸く引き揚げたのだが、校長室を出る間際にそのガキが、「校長ヤメロ」と捨台詞を吐いたという。こういうガキがどんな大人になっていくのか、それを心配しない親や教師がいるのが私はふしぎでたまらない。

       《佐藤愛子 「日本人の一大事」》


●文科省は03年度から、「公立小中高校の卒業、入学式での国歌斉唱率と国旗掲揚率の調査を中止した。「国旗も国歌もほぼ100%。学校での国旗・国歌の指導は定着した」(文科省幹部)と判断したからだという。大分県の国歌斉唱率も、99年度から毎年、100%と報告されている。

●だが、大分県の教育関係者らの集まりである民間教育臨調が県内の小中学校の約2割、95校を対象に昨年実施した保護者アンケート調査によると、児童生徒が国歌をきちんと歌った学校は26%にすぎない。半数近くの学校は、会場にテープが流れるだけで、生徒は誰も斉唱しなかったという。

●教員はさらにひどい。「大部分が斉唱」したのは8%だけ。逆に「校長ら管理職以外は誰も斉唱しない」ケースが66%だ。校長すら斉唱しない学校も複数あった。

●大分県教組大分支部の平和教育小委員会は02年、小1から中3まで各学年で国旗国歌をどう教えるかを示した「日の丸・君が代学習系統表」を作成、現場の教員に配布した。その内容とは…

◇小1:「ああうつくしい」と歌われている「ひのまる」を悲しい思いで見ている人たちがいることを知る。
◇小2:「君が代」が「国歌」として使われるようになったが、この歌で悲しい思いをする人もいることを知る。

◇小5:戦時中、戦争を推し進める手段の一つとして、小学校でも「日の丸」教育が行われ、日本中で戦意を高揚させていたことを知る。

◇小6:99年8月、(国旗及び国歌に関する法律が)「数の力」によって成立し、法制化された経緯を知り、問題点を考える。

◇中1:「日の丸」「君が代」が思想統制のために使われたことを知る。

◇中3:国民主権と天皇制の矛盾、現在の国旗・国歌のあり方について考える。

学習指導要領は、「我が国の国旗と国歌の意義を理解させ、これを尊重する態度を育てるとともに、諸外国の国旗と国歌も同様に尊重する態度を育てるよう配慮する(小6)」と規定している。
      
《川瀬弘至 産経新聞2007/11/14》


●従来の学習指導要領には、「君が代を指導する」と書かれていた。だから保護者の方は当然、授業で君が代が歌われていると思っている。しかし実際には教員が「君が代は日本の国歌です」と言うだけで、全く歌わないケースが相当ある。きちんとした指導を求めると、「学習指導要領には歌わせるとまで書いていない」と屁理屈をこねる。
そのため新しい学習指導要領で「君が代を歌えるように指導する」と書き改めたが、今度は「そこまで書く必要はない」との批判の大合唱が起こる。 
        《安倍晋三 正論2009/2月号》

●君が代は主権在民の憲法原理を否定するものである、というのが日教組の考え方なのである。以前は拉致問題についても、排外主義につながるなどとして教えることに反対だった。
          《山谷えり子 〃 》






【2020年1月4日更新】

●彼(王貞治氏)はことあるごとに、「僕は普通の日本人よりも日本人らしい」と発言しています。君が代をトランペットで演奏すると、「さざれ石の」のところは息継ぎをせず、クレッシェントでだんだん大きくなっていく。王さんは、その部分を聞くとゾクゾクするとおっしゃっていました。
       《川村二郎 WiLL2018年4月号》

王貞治の写真

…立派な人は例外なく愛国者である。(管理者)


※関連ページ
日教組」も参考に。