賢者の説得力ホーム自虐史観マルクス史観

 

マルクス主義史観

自虐史観の出発点は、かつては光り輝いていた
マルクス・レーニン主義から見た史観
だといわれている。


●経済学は戦後、日本の大学で主流となっていたのは殆どマルクス系経済学だった。それに対して普通の経済学である近代経済学の講座は圧倒的に少なかった。しかし最近はようやく変わってきた。マルクス経済学の看板を出しても学生は誰も来ないから、変えざるを得なくなった。

●しかし歴史学の方はまだ変わっていない。やっているのが殆どマルクス式史学で、権力者(=天皇)は民衆を抑圧する悪いやつで、民衆が正義であると割り切っている。つまり歴史をそのまま見るよりも、自分のイデオロギーで見てしまう。
 
 《井沢元彦 「世界の「宗教と戦争」講座」》


●マルキストたちが今までずっと言いまくってきたことで、今後も通用する言葉は唯1つ、「日本断罪史観」。これだけしかない。(溺れる者は……的)
       《小室直樹 「日本国民に告ぐ」》


●ソ連の崩壊後明るみに出始めた新事実により、第二次大戦観自体も修正を余儀なくされつつあるにもかかわらず、はるか半世紀以上も昔の視点で思考を停止させ、世界の変化に背を向ける。
      《葛西敬之 産経新聞2006/7/14》


●産業革命をなしとげたイギリスが経済の先進国、市民革命をなしとげたフランスが政治の先進国、そしてドイツと日本は救い難い後進国であって、それゆえに戦争を誘発した、という「物語」が私の若い頃には流布していた。もちろん、ソ連と中国がさらに先を行く「超近代」の社会主義革命を果たしつつある、というもう一つの“おまけ”がこの話にはくっついていたのである。
実は「講座派マルクス主義」のこのお伽噺が今でも中学・高校の歴史教科書を左右している。
        《西尾幹二 「真贋の洞察」》


●共産党系の学者や言論人・歴史研究家がなぜ問題なのかというと、マルクス史学というのはマルキシズムが正しいことを証明するための歴史学である。であるから、それは本当の意味の歴史学とはいえない。歴史学はジャーナリズムとよく似ている部分があって、真実は何か、事実は何かというこことを明らかにするという機能がある。

●ところが共産党系の歴史学は、イデオロギー優先・第一となり、自分たちのイデオロギーに都合のいいように事実を曲げることになる。これが最大の問題であり、朝日の体質そのものである。その結果、「朝鮮戦争は韓国が仕掛けた」ということになる。
     《井沢元彦 「朝日新聞の大研究」》


●僕なんか20~30年、この問題ばかりずっと著作のテーマとして調査してきた。はっきり言うと、学者さんがイデオロギー的であり続けてきた。本当にイデオロギーの、そんな研究論文ばっかりだった。ホントにそういうものばっかりで、調査や取材による事実がない。そういうのがいかにひどかったかをちゃんと認識しないと、戦争責任なんていう問題は見えてこない。
    《猪瀬直樹
     「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」》


●マルクス主義者は、人間世界を搾取する者(権力者・悪)と搾取される者(民衆・善)とに粗っぽく分け、両者の闘争の中で善が必ず勝つというような、水戸黄門も顔負けの勧善懲悪の紙芝居をまず作り、その話に合う資料だけを選んで貼り付け、「実証」したと称している。
    
  《加地伸行 産経新聞2011/2/11》


●思想が先走る歴史を書く人は、「歴史は政治に奉仕すべきである」という論理を奉じている人が多い。近現代史を中心とする戦後の歴史学界では、この”原理”の範囲内で書いている人が多かったのではないだろうか。
         《秦郁彦 「現代史の虚実」》


マルクス・レーニン主義は、歴史観でも階級闘争史観となり、常に「支配-被支配」の関係で考える。歴史教育が自虐的なのも背景にはそれがあって、近代において日本が「支配する者」で、アジアの人々が「支配される者」として理解されるからである。
        《八木秀次 正論2009/8月号》


●経済学者のフリードリヒ・ハイエクが「社会主義者からわれわれが学ぶことは何もないと思っていたが、たった一つあった。それは彼らが、繰り返し語ることだ」と述べている。国内の左翼も、あるいは中国・韓国も、うんざりするくらいのしつこさがある。嘘も100回いえば本当だと思う人も出てきてしまう。
    《三橋貴明 Voice2009/10月号》


●私たちはそれまで社会主義は正しいと思っていた。例えば朝鮮戦争が勃発したときは中学生だったが、若い人気のある先生が、これはアメリカの侵略だと言う。ただそう決めつけるだけでなく、まことしやかに、開戦当時からの事実を全部積み重ねて、アメリカが侵略したとしか考えられないというようなことを言うわけである。ものすごく丁寧に詳しく実証するので、中学生の頭ではとても批判的には聞けない。なるほど、そうだと思ってしまった。
    《林道義 「間違えるな日本人!」
      他の著書「フェミニズムの害毒」》


歪んだ眼鏡をかければ、景色は歪んで見える。真っ当な景色を見たことのある人間は、景色が歪んで見えるのは眼鏡のせいだと気づいて外そうとする。だが、歪んだ景色しか知らず、自然とは歪んでいるものだと思い込んでいる人間は、眼鏡のせいだとは思わず、眼鏡を外そうとさえ考えない。 
      《響堂新 「ダーウィンの時計」》


●網野善彦などは「日本史を書くに当たってマルクスを再読してみた」と、『中世再考』(講談社)の巻頭に堂々と書いている。そういうヘンな先生を見分けるのは案外に簡単だ。明治維新を語らせると「上からの革命」という。モスクワから昔そういう指令があって、学会でそう定義しているからだ。
しかし明治維新はまさに革命だった。中心となったのは伊藤博文ら足軽小者たちで、彼らは政権につくとすぐに主人だった武士への報復を始める。
       《高山正之 週刊新潮2006/9/21》


●いまの歴史の教科書では、英雄は否定されている。すべて史的法則というやつで骨格づけられ、史実は単にその肉付けとして語られているにすぎず、むろん史談はない。
    《司馬遼太郎
      大阪新聞のコラム 昭和29/6/26》

【8月4日更新】

●なぜ、現代の人権意識が過去に投影されるのだろうか…
山崎正和が復讐史観と呼ぶものに行き当たる。その典型であるマルクス主義史観は、歴史を常に少数者が多数者を抑圧してきたものと見る。これは不正義であって、許されないと彼らは考える。正義は回復されなければならない。プロレタリアートは解放されなければならず、ブルジョワジーは打倒されなければならない。

●ここに、現在の価値観が過去に投影されているのだ。過去を現在の視点から断罪する歴史学は、マルクス主義において大きな発展をとげたのである。こういう歴史学は今日、益々隆盛を極めている。

歴史は概して、力のある少数者が動かしてきた。戦争とか平和とか、人類に大きな影響を及ぼす事件は、最終的には少数の関係者の決定や不決定で起こることが多い。経済発展においても、技術革新を主導するのは少数者である。それゆえ正統な政治史研究は、こうした少数のリーダーの認識・判断・意思決定に焦点を当ててきた。
ところが、民衆を主人公にした史観では、民衆は善良な被害者として扱われることが多い。それによって権力者の姿がぼやけてしまう。権力者は一様に悪い人間になってくる。
      《北岡伸一 中央公論2007/9月号》


 ※関連ページ : 「共産主義の脅威」も参考に

【自虐史観】
歴史とは/自虐史観の問題点
戦争とは/そう単純ではない事象
日本の自虐史観/世界の非常識
マルクス主義史観/イデオロギーに合わせたご都合主義
東京裁判史観/不当な裁判から導き出された嘘
歴史認識における隣国とのズレ/共通認識など絶対に無理
歴史教科書/世界で珍しい日本の教科書
日本悪玉論のパターン/こうして日本は悪者にされる