賢者の説得力ホーム南京大虐殺多くの疑問点

 

大虐殺の
多くの疑問点

南京大虐殺については、
数々の疑問が提示されている。
それらを挙げてみよう。


●蒋介石は、「南京空襲で民家を誤爆された」「毒ガスを使用された」(実は催涙ガスだった)といった類の日本の行為を、細かくあげつらって国連に報告していたのに、肝心の「南京大虐殺」を提訴した記録はない。

●当時の南京は国際都市だったから、各国のジャーナリストたちが大勢いた。それなのに、当時日本に対して反日的な国々からも、正式な抗議は無かった。  

《谷沢永一 渡部昇一 「日本に「戦争責任」なし」他の著書「禁忌破りの近現代史」》


●南京大虐殺について毛沢東は、長い人生の中で一度も言及しなかった。当時もその後も。
   《ユン・チアン ジョン・ハリディ
                 「マオ」》


●「レイプ2万から8万」という、ソ連兵のベルリン攻略の後は大変な”ベビーブーム”だったと伝えられるが、南京戦後、同市内に日中混血児があふれたなどと誰が事実を記したか。

●仮に「南京大虐殺」をある特定の殺人事件としてみよう。
すると、一体死体は幾つあるのか、被害者は誰か、目撃者はあったのか、犯人の動機は何か…等々の基本的な疑問について、当然のことながら適正な刑事訴訟の手続を通じて厳密に立証されなければならない道理となるであろう。

●なるほど告発する側では、一応は死体の数も特定され、目撃者の証言、また犯人の動機らしいものもあると言い張っている。だが実はそれは、およそ文明国の法廷において証拠能力も証明力も全く認められ得ない、お粗末極まりない類のものばかりだったのである。そこで我々は、「大虐殺がなかった」ことを論証するのが目的なのではなく、「大虐殺があった」との立証が全然なされていないという事実を明示する。

《竹本忠雄 大原康男 「再審「南京大虐殺」 ―世界に訴える日本の冤罪」》


●「南京虐殺」を証明し得る公式記録、即ち歴史学でいう一等・二等・三等史料がひとつもない。(「南京大虐殺徹底検証」東中野修道) 証拠として提示されているものは、全て…

 ◇「四等史料」
  (史料作成者が明らかでない)と
 ◇「五等史料」
  (いかなる基準で作成されたのかわからない)

…であり、それらを歴史記述の根拠とすることは事実無根のプロパガンダ(宣伝)である。歴史における正当性を評価するのは、「史料批判」である。つまり歴史資料の信憑性を徹底的に審理しなければならない。
    《小林よしのり 「『個と公』論」
            他の著書「戦争論」》


●南京事件という各種残虐行為は、戦闘間の戦場行動に伴う事件であって、警備間の平常状態で発生したものではない。裁判での証言内容は、正当な戦闘行為なりや、不法殺害なりや、屍体にしても中国兵か、便衣兵か、常民か、あるいは誰が、いつ、中国兵によるのか、日本軍によるのか、故意か、不可避か…などその真相判定に必要な条件を具備しなければならない。
このような戦闘との関係が不明瞭であることは、戦闘間の証拠としては致命的欠陥である。
        《畝本正己 「史実の歪曲」》


日本軍は南京占領後に自治委員会を作って占領を止め、戦況が落ち着くにつれて食糧の配給も始めていった。また住民登録も行って秩序回復に努めている。そういう所で民間人を対象にして何週間もの虐殺が続くとは考えられない。
        《北村稔 諸君!2002/1月号》


●中国兵は、安全区域内で撹乱工作員となって強姦や略奪を繰り返し、それを日本兵の仕業に見せかけていた…という記事が当時の「ニューヨーク・タイムズ」や「チャイナプレス」に載っている。
     《南京事件調査研究会
       「南京大虐殺否定論13のウソ」》


●「大虐殺」で一番困るのは、死体の異臭と伝染病である。モンゴル軍も都市を丸ごと滅ぼした後は、そこを退去せざるをえなかった。

●南京に入城した時、総司令官・松井大将は外国人記者を集めて記者会見に応じたが、大虐殺など話題にもならなかった。
      《井沢元彦 「日本史集中講義」》


南京は世田谷区くらいの広さしかなく、そこで30万人もを殺したら死臭で住めないし、道も歩けない。しかし、人口は増加した。どういうことか?

●南京城の中の安全地区に南京の市民の全てが集められた。南京城が陥落しそうな時に、一般市民がわざわざ安全地区の外に出ていくはずはないので、陥落した時には市民は全てこの地区内にいたと考えていい。
その安全地区の中で大虐殺が行われなければ、虐殺はなかったということ(その記録はない)。
南京市民が全て安全地区に集められた事を否定する人はいない。それなのに「大虐殺はあった」とするのは矛盾である。(ニューヨーク・タイムズの記者ですら「日本は安全区をかなりかわいがった」と書いている)

●当時の軍政部長(国防相)兼軍事委員会委員長・何応欽将軍は、1938年春に開催された臨時全国代表者大会(国会)で行った軍事報告は、南京失陥の模様も伝えているが、他の部分は詳細な統計等が付記され報告されているにもかかわらず、日本軍による虐殺行為などは全く報告されていない。
  《渡部昇一 小室直樹 「封印の昭和史」
      他の著書「禁忌破りの近現代史」》


南京大虐殺で、規律もなにもない民衆30万人を殺したのが事実なら、戦争の常識として少なくとも負傷者百万人が出るはず。以後60数年間、手をもがれ足を失った者が、いまだに30万人は生きているのが常識である。
           
《諸君!2003/5月号》


●南京で戦闘能力のない中国人に何万発も銃弾を浴びせるなど、とうてい考えられない。当時日本は貧乏だったから弾だって貴重だった。石油をかけて焼いたというのも同じ。石油はものすごい貴重品で「石油の一滴は血の一滴」と言われていた。
     《小室直樹 「自ら国を潰すのか」》

●シナでは日本軍が勝つと現地の人は喜んでいた。日本軍がいるとかえって治安がよくて安全だということで、南京でもどこでも日本人が入城すると、たちまち人口が増えている。

●毎日新聞の報道で、南京が落ちる前に船に乗った脱出したドイツ人の日記に、「南京の揚子江海岸には死骸が山のようにあった」とあるが、この時日本軍はまだ南京に入っていない。この日記が本当ならば、南京虐殺をしたのは日本軍ではないことになるが…。
            《渡部昇一  〃  》
 


●陥落から3週間たった1938年1月4日のニューヨーク・タイムズに、1月3日上海発として「元支那軍将校が避難民の中に…大佐一味が白状。南京の犯罪を日本軍のせいに」という記事が出ている。

●市民が日本軍に撃たれていたのであれば、ラーベ(国際委員会の委員長)は日本大使館に抗議したはずである。ところがラーベたちは最後まで抗議せず、それどころか国際委員会の1号文書は、日本軍が安全地帯を攻撃しなかったことに感謝の意すら表明していた。


●中国軍が日本軍の行動を妨害しようとして、清野戦術や略奪(中国軍の常習)をやった。日本軍はそんなことは絶対しない。
   《朝日新聞東京裁判記者団 「東京裁判」》


●日本軍に南京を占領・支配する目的はあっても、市民を大量虐殺する理由はどこにもない。街が機能しなくなる程の大人数を殺して無人の廃墟にしたのでは、その都市を占領する意味がまるでない。
     《井沢元彦 SAPIO2004/11/24号》


●日本刀で農民を斬ったと証言した者もいたが、一兵の身分でそんなものを持っているはずがない。

●第二次大戦を描いた出色の作品「裸者と死者」の著者ノーマン・メイラーは、ベストセラーになっている理由を書いている。「アメリカ人にはヒロシマに関して深い罪の意識がある。だから日本人が1937年に南京で中国人にひどいことをしたと耳にすると、ほっと安堵するのだ。それにしてもこれまで南京虐殺なんて聞いたこともなかった。少なくともこの50年間は。それがいま突然に話題になった」
      《尾川正二 「戦争虚構と真実」》


●20万人以上の虐殺なら、日本軍は南京市民を1人残らず虐殺したことになってしまう。にも拘わらず南京の人口は、陥落後7週間後の昭和13年1月末段階で25万人とかえって5万人も増加しており、その後も人口は増え続け、同年8月には31万人、同年末には44万人と激増している。
阿鼻叫喚の地獄だったはずの南京に、どうしてかくも短期間に以前に倍する市民が殺到するようになったのか。南京が治安の確保された安全地帯だったからに他ならない。
《勝岡寛次
 「韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する」》


【10月18日 更新分】

  「南京大虐殺」があったとされる現場の写真

アサヒグラフ写真
 南京市内で日本軍兵士とオモチャで遊ぶ子供たち
  (『アサヒグラフ』 1937年12月20日撮影
      WiLL2007年12月号増刊より)




     戦場跡で遊ぶ中国の子供たち
       (同 12月20日撮影)




日本軍将校からキャラメルを貰って
よろこんでいる中国の子供たち
  (同 11月6日撮影)
 



陸軍の士官が先生になって、中国の
子供にカタカナを教えている
  (同 1938年1月20日)


※中国の子供たちのこの自然な笑顔を、どう捉えたらいいのか。これが「大虐殺」があった現場だろうか?(管理者)




●1945年11月、南京地方裁判所は、南京市・国民党・民間の組織を総動員し、南京陥落時の日本軍の蛮行調査を始める。組織にしたがって調査対象を分ける、きめ細かい調査だった。すると…

「敵側の偽瞞妨害など激烈にして民心銷沈し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際に於いても、冬の蝉の如く口を噤みて語らざる者、或いは事実を否認する者、或いはまた自己の体面を憚りて告知せざる者、他処に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者などあり」(南京地方裁判所付検察官の戦争犯罪の調書より)

…だった。日本軍の暴行を訴える市民は殆どいなかったのである。それどころか、市民から事件を否定された。理由として南京地方裁判所は、日本軍の激しい妨害をあげている。

●平成6年、私はかつての満洲国を旅した。(旅行者の企画した旅) 瀋陽で私たちの一行が日本人だと知って、1人の老人が話しかけてきた。満州時代に覚えたという日本語を使って当時のことやその頃の日本人を話題にし、満洲時代を懐かしがっていた。一段落したとき、70歳になろうかというその老人に私は「南京事件を知っていますか」と訊ねた。すると老人はきょとんとして、私を見つめ、首をかしげ、そして「わからないなあ」と答えた。戦前をよく知っている老人が南京事件を知らないという。   

《阿羅健一 「再検証 南京で本当は何が起こったのか」他の著書「謎解き「南京事件」」》
 


●大阪朝日新聞上海支局員・山本治氏は、南京での虐殺について「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことをいったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」と証言している。

●この証言は特派員に限らない。従軍画家・外交官・軍人・カメラマン等の視点から、実際の南京の様相を目の当たりにした回想は、どれもこれもこのようであった。処刑もあり死体もあったが、虐殺に相当することは見たことも聞いたこともないという点で、ほぼ全ての証言が一致している。「戦争ですから、殺す殺されるのは当然です」「戦場を知らない人が、それを虐殺と言っているだけです」。

《阿羅健一 「「南京事件」日本人48人の証言」の書評》


●南京陥落と同時に300名もの日本の報道関係者が、南京城内に入って取材活動に従事したが、彼らの中に「大虐殺」の現場や虐殺死体を目撃した者が全くいない。それどころか、噂さえ聞いたことがないと口々に証言している。
      《中村粲 「大東亜戦争への道」》


林芙美子・大宅壮一・石川達三といった優れた文化人が、南京陥落直後に従軍報道班員として現地を見ているけど、虐殺があったなんて一行も記していない。死体は見たけれど、大虐殺の跡などは無かったと述懐している。(石川は率直な物言いをする人、大宅は体制に属するような人ではない) 当時の日本軍の装備にしても、重機関銃なんて数十丁ぐらいしかなかった。
     《石原慎太郎 諸君!2004/10月号》


●私は日本軍の南京攻略を外国人ジャーナリストとして最初に報道した、ニューヨーク・タイムズの記者ティルマン・ダーディンにインタビューしたことがある。1989年だった。

●彼は戦争当時、国民党側にいて日本軍が南京城目指して進撃してくるのをつぶさに観察していた。そのダーディンは、南京入城前には日本軍による通常の戦闘行為以外の虐殺などは一切なかったとして、こう証言した…「日本軍は上海周辺など他の戦闘では、その種の虐殺などまるでしていなかったからです。上海付近では日本軍の戦いを何度も見たけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった」(「文芸春秋」1989年10月号より)
      《古森義久 諸君!2005/10月号》
 


●ニューヨーク・タイムズ、ティルマン・ダーディンへのインタビュー…「日本軍はその種の虐殺などは、まるでしていなかった」・「南京の市民や周辺の住民は、中国軍に全てを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が南京を制圧した時には一種の安堵感を覚えていた人も多かった。日本軍の占領を、あきらめにせよ歓迎しようとする市民たちもいた。それまでの2~30年間も中国の軍閥に支配され搾取され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。日本軍でさえまたやがて去っていく。戦闘を終了させたことだけでも、日本軍を歓迎しても良いではないか…そんな受け止め方が多かった」
      《古森義久 諸君!2004/10月号》


●「首都陥落を前にして、支那軍は7日も南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼き払わんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。…焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、よろめきながら城内指して逃げ込んでくる」(ニューヨーク特電12月7日)

●「中国軍の堅壁清野戦術により、南京郊外の農村はほとんど焼き払われた。中立国軍事専門家の目には、この焼き払いは軍事的には日本軍の阻止に殆ど役だたず、ただ農民たちに計り知れない惨禍をもたらすジンギスカン以来の組織的破壊と映った」(ニューヨーク特電12月8日、朝日10日夕刊)    

《西岡香織 「報道戦線から見た「日中戦争」」》


中国国民党は、南京陥落前後から約300回もの記者会見を行っているが、その中で1度も「南京虐殺」があったとは言っていない。
      《戸井田とおる 正論2007/9月号》







●稲垣清さんは1937年夏、獣医官として召集。上海派遣軍大16師団で食料輸送を担当する輜重兵第16連隊に配属され、南京には12月16日から翌年1月30日まで滞在した。自ら食料を運んだ経験から、「食料は十分でしたから、農家から略奪、暴行という記述を戦後みるたび違和感を覚えました」と話す。

●高い壁に囲まれた南京に入ったときは、「焼けた家もあるにはあったが、みじめな状態ではなかった。城内では、市民はみんな難民区へ入っていて、入城式でも市民の姿は見かけませんでした」

●多数の犠牲者を出したとされる”掃討作戦”も、稲垣さんは「当時、全く知りませんでした」と語る。当時、馬の伝染病が流行していて検疫や予防接種に奔走した。滞在した1ヵ月半、銃声は一度も聞かなかった。

●入城後、10日もしないうちに中国人は安全区から出るようになり、城内にも市が立った。その映像もある。「商魂たくましいというか、われわれを撮影しては、それを記念写真として売ろうとする中国人もいました」
→このころの写真や合成写真が、後に「残虐行為を働く日本兵」として広まっていく。

●稲垣氏…「死体をどうやって運搬したのか非常に疑問です。当時、トラックは貴重でした。中国軍が荷車で何十万という死体を運んだなど、考えにくいことです」

●虚構が独り歩きした背景については、「南京郊外の紫金山での戦闘では日本兵949人が戦死した。中国側も多くが戦死したことでしょう。そうした城外の戦闘が誇張されているのでは。多数の死体を見たと証言する日本人は城外の陸軍戦車隊や揚子江の海軍兵です」と語る。
           《産経新聞2007/12/17》


●南京総攻撃では近郊の軍事施設に対する空爆はあったが、一般市民が居住する城壁内の南京市街へは空爆しなかった。皇軍は制空権を握っていたから、郊外の軍事施設への空爆は当然の事。一般市民を含めた南京大虐殺の意図が有れば、危険な肉迫攻撃などしないで、市街空爆を決行しただろう。爆撃一個戦隊が空襲しても城壁内の市街は火の海と化し、多くの無辜の民が殺戮されたはず。 
        《読者投稿 正論2012/9月号》


●戦時中は中国大陸の約8割の都市を、日本が8年にわたって占領した。この8年の間、南京以外の場所では虐殺問題など起こっていない。これは事実である。従って「南京虐殺はあった」と主張する人は、なぜ南京だけで虐殺が起こったのかをデータで示さねばならない。北京だって武漢三鎮だって保定だって虐殺は起きていない。北京などは「日本が統治していたときが一番よかった」と言っている。
《渡部昇一 「僕らが考える『日本問題』」他の著書「マーフィーの成功法則 CDブック」》

●ヒトラーがユダヤ人を虐殺したのは、アウシュビッツだけではない。あらゆるところで虐殺した。
ところが日本の場合は、中国の中で南京だけで虐殺が起こったことになっている。
         《竹村健一  〃  》


●ホロコーストでは映像も遺品も人骨も山ほどある。南京で30万人虐殺したというなら、その骨や遺品を並べたら説得力が出るだろう。項羽と劉邦は垓下で戦い、敗れた項羽は足手まといの愛人虞を殺して逃げる。伝説と思っていたら、戦場から項羽の鍍金された青銅剣が見つかった。2千年前のものでも出てくるなら数十年前の事件だ。豪華な記念館を建てるより、そこらを掘ればいい。
       《高山正之 週刊新潮2012/3/22》



●ポーランド南部にあるナチス・ドイツの負の遺産、アウシュビッツ強制収容所へ行った。延々と広がる湿地帯には無残な方法で殺戮が繰り返された「確か」な痕跡があった。ガス室、そして蓋が開いて山積された大量のガス缶まで…。
中国が主張する「南京大虐殺」。私は80年代より何度か訪れているが、南京にはアウシュビッツのような「確か」な痕跡など何もない。“現代版ホロコースト”は中国共産党によって、チベットや内モンゴル、ウイグル自治区を主舞台に現在進行形なのだ。民間活動家や宗教関連への拷問・虐待もやまない。
       《河添恵子 産経新聞2012/5/17》


●南京事件の際、朝日は八十余名という世界最多の記者が現地にいた。にもかかわらず、当時、南京大虐殺を一行も記事にしていないのは不可解だと首を傾げるのは、南京問題に詳しいジャーナリストの水間政憲氏だ。「大虐殺派は、報道規制と反論するでしょう。しかし、後に自民党幹事長という要職に就く橋本登美三郎さんは、当時、朝日の上海支局次長で、取材班のトップとして南京城に入った。その彼が阿羅健一さんのインタビューに“虐殺なんでなかった”旨、答え、報道規制についても、“見聞したことは自由に報道できた”と語っています」
           《週刊新潮2014/3/20》


●第二次大戦にドイツが敗れた直後の2ヵ月間で、約10万人の女性がロシア兵に強姦された。1万人強が妊娠し、その90%は医師が中絶したが、千人強は出産したという。だが、南京でそのような“不幸な赤ちゃん”が産まれたという記録はどこにもない。
      《東中野修道 産経新聞2010/2/20》



●日本軍は日清戦争と義和団事件による北京出兵で、「外部に被害を与えない歴史上初の軍隊」として世界各国の賞賛を受けた。50年後にはより秩序整然として水準の高いこうした軍隊が、昔でさえしなかった野蛮な行為をしでかしたという話は信じ難い。
        《金完燮 諸君! 2003/7月号》



●ナチスの例を見ても分かる通り、大量虐殺というものは死体の処理が非常に大きな問題になる。死体の機械的あるいは化学的処理方法を準備していないと、大量虐殺なんてできない。

●また、ずっと戦闘してきた軍隊には大量虐殺はできない。「殺人特殊部隊」とでもいったような別の組織を設置しておかないと無理である。ナチス・ドイツの実例を挙げるまでもなく、「殺人のための殺人」が行われない限り、無抵抗の人間の千単位の虐殺だって不可能である。もし日本軍が大量虐殺をしたというなら、特殊部隊や死体処理のための軍命令がなければならない。計画への命令がないままそんなことをするはずはないからである。

●ナチス・ドイツの場合はそうした文書が全部残っている。それのみならず、殺害したユダヤ人の記録も全部残っている。ところが日本軍の場合は、その類の文書は何もない。 
      《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封」》


●常識的に考えて、当時帝国陸軍が使用していた旧式の三八式歩兵銃で、わずか6週間で30万人もの人間を殺すなど不可能。人間を集めてそこに大砲を打ち込んだとしても、難しい話だ。 
      《石原慎太郎 文芸春秋2005/6月号》


●東京裁判では、12名からなるある団体が、毎日2,600人の遺体を処理したということが事実として認定されている。ブルドーザーもない時代にそんなことができるかどうか。
       《北岡伸一 中央公論2005/6月号》


●報道班員としてやってきた作家の石川達三は、その後に執筆した「武漢作戦」でその時の南京の風景をベースにしたこんな下りもある…

 野口伍長が一等兵に声をかける。
 「ちんばをひいとるな。全快したのか」
 「もう二、三日すれば全快します」
 「今までどこの病院にいたのだ」
 「南京にいました」
 「南京は賑やかになっとるか」 
 「はあ、もうカフェでも何でもあります。
       ネオンサインがついております」
          《高山正之 「歪曲報道」》


●昭和12年12月20日付東京朝日は、「平和甦る南京」と題した写真特集を載せて、占領後の南京がいかに平和を回復しているかをキャンペーンしてさえいるのである…

◇占領4日後の南京風景で、写真のキャプションは「皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民たち」

◇「皇軍に保護される避難民の群」「和やかな床屋さん風景」(戸外での中国人散髪屋の風景)

◇22日付…「治療を受けている支那負傷兵」(治療を施しているのは無論日本軍) 「皇軍将兵の情に食欲を満たす投降兵」 

◇25日付…「戦火収まれば壊れた馬車も子供達の楽しい遊び場だ」 

◇30日付…「サアおっぱいが足らなきゃミルクをお上がり=ヒゲの隊長温情」 「坊や、トラホームを癒さなきゃお正月は来ないよ=軍衛生班大童の活動」
…など全部で17葉の写真を掲げている。
   《片岡正巳 「朝日新聞の「戦後」責任」》

※朝日新聞よ、これらがすべて「虚報」であるのなら、訂正・謝罪せよ。(管理者)



●日本軍に従軍して南京に入った元毎日新聞カメラマンの佐藤振寿氏(93)。12月14日に撮影したのが、この中国軍師団司令部衛門だ。「この門の中で、後ろ手で縛られた100人ほどの中国兵たちが次々に殺されていた」。 そう佐藤氏は証言した。
→同じ日の街頭には日本兵相手の露店ができていて、その写真もたくさん撮った。無差別に市民を殺戮した「大虐殺」については、佐藤氏は疑問を持つとしている。
         《サンデー毎日2006/12/17》


●10年前、私は「アジアの映像に見る戦後50年」というテーマで、フジテレビのドキュメンタリー番組を作っていた。南京にも訪れ、数日間取材した。
当時は中国側がその頃のフジテレビを産経グループとして警戒し、江蘇省党委員会は私の入国ビザをなかなか出そうとしなかった。何とか入国できたものの、南京市民に対する私たちのインタビューは拒否されていた。

●日曜の早朝、随行していた「監視役」が寝坊して遅れたとき、私たちは南京の「自由市場」に出掛け、百数十人に「南京大虐殺って知っていますか」と突撃インタビューを試みたのである。
→結果は、当事者である南京市民ですら知っていたのは約6割だった。中には「蒋介石がやったんだろう」という人もいて、殆どがあやふやな知識だった。
          《水島総 正論2007/9月号》



●いくらたくさんの死体が並ぶ写真であっても、それが日本兵に虐殺された民間人の死体であるという証拠とは言い切れないのである。そもそも日本と中国は戦争をしていたわけで、たくさんの死体があっても不思議ではない。 
     《井沢元彦 「逆説のアジア史紀行」》



●河村たかし名古屋市長は、南京で終戦を迎えた父親が南京の人々から温かいもてなしを受け、お礼に桜の木をプレゼントしたことなどを話し、その背景について「南京事件はなかったのではないか」と述べた。
           《産経新聞 2012/2/24》



【南京大虐殺】
死者数の信憑性/なぜ虐殺後に人口が増えているのか
虚言/プロパガンダにはめられた日本
多くの疑問点/当時は誰も知らなかった「大虐殺」
合法的な殺人/あったとすればこのパターン