賢者の説得力ホーム南京大虐殺虚言

 

南京大虐殺の虚言

南京大虐殺では
牧師、大学教授、朝日新聞の記者などの
証言・手記が残っている。
彼らの言っていることは信頼できるのか…


●自身の残虐行為を告白した元中国戦犯の告白記、と話題になった曽根一夫の「私記南京虐殺」(正続)。
一時は「類書にない特色を持つ」と評価する南京問題専門家もいたが、後に曽根は兵士として南京戦に参加していなかったことまで明らかになった。偶然私の知り合った曽根の親類も、「あの嘘つきが困ったものを書いてくれた」と言っていた。
       《渡部昇一 産経新聞2006/9/6》


●「ザ・レイプ・オブ・南京」に引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって殺人と強姦を行ったと述べている。(「アサヒ芸能」昭和46年1/28号) しかし彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進しており、この人物が10日間も南京に残留できるはずがない。彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定している。

●兵士として従軍した東史郎は、南京戦当時から「日記」をつけており、その中には日本軍が数々の残虐行為を南京で行ったことが記録されていると主張している。
その「日記」の中に、南京中心部で当時の上官が中国人を郵便袋に入れ、これにガソリンをかけて火をつけ、さらに手榴弾をくくりつけて爆発させて、その中国人を殺したという記述がある。

●これに対して、この元上官から名誉毀損で告訴された。この裁判は「東裁判」と呼ばれマスコミにも注目されたが、東京地裁・高裁ともに訴えた元上官が勝訴している。
これに対して東は最高裁に上告したが、00年1/21最高裁は1・2審判決を支持し上告を棄却した。

●この裁判を通して、東が記述した残虐行為は物理的に不可能であり、実際にはあり得ないと判定された。
また東京高裁は、東の「日記」の提出された部分についても、「全てが昭和15年から19年にかけて書かれたわけではなく、内容によってはかなり後年(終戦後)加筆修正された部分もあるのではないかとの疑問も生ずる余地がある」と判定した。そうした検討の結果、高裁は「いずれにしても、昭和13年3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定、この判定を最高裁も支持した。

《竹本忠雄 大原康男 「再審「南京大虐殺」 ―世界に訴える日本の冤罪」》


●アイリス・チャン死亡後のロンドン「エコノミスト」誌(04年11/27号)…
「彼女の『レイプ・オブ・南京』は政治的論争に傾きすぎ、伝聞による誤謬が多く、しかも彼女は誤り箇所の訂正を拒否した。記憶が確かでもない中国人の証言をもとに目撃談を書いたのは賢明な方法ではなかった。まして当時南京にいた外人の日記を多用したが、かれらも外人居留地の安全地帯にいて”伝聞”を聞いただけであり、数の確認をしたわけではなかった。だから日本におけるアイリスの支援者でさえ(翻訳本が出版中止になっても)彼女に助け船を出せなかった」

●米国もアイリス・チャンの陰謀に加担したが、その動機が改めてわかった。TIME(04年11/22号)が次のように書いたからである…「アイリス・チャンが残した業績は日本軍がいかに残虐な行為を南京でなしたかを歴史的資料を探し出し、その数は広島・長崎の原爆の犠牲者よりもおそらく多いとした点だ。アイリス・チャンの作品は大歓迎、喝采を受けた」 …米国のホンネがのぞいた。
    《宮崎正弘 「瀕死の中国」
     他の著書「オレ様国家・中国の常識」》


●『レイプ・オブ・南京』の日本語版の版権を取得し出版の準備を進めてきた柏書房は、出版を不可能にした根本原因について「偏見と認識に依拠する原著とその著者の基本的姿勢そのものにある」と発表している。

●12月13日開城と同時に日本兵が城内になだれこみ、ところかまわず一般市民の殺害を始めた…とするチャンの記述は、荒唐無稽と言うより他ない。   

《藤岡信勝 東中野修道 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究 ―中国における「情報戦」の手口と戦略」》


●重要なことは、蒋介石も毛沢東も誰も「南京大虐殺」を言った人はいないという事実。
「南京大虐殺」が最初出てきたのは東京裁判。それが忘れられた頃に騒ぎ始めたのは朝日の本多勝一で、それに乗ったのが当時の社会党の田辺誠と言われている。   
    《渡部昇一 「こんな日本に誰がした」》


●朝日新聞の本多勝一記者の著書「中国の旅」まで「南京大虐殺」は戦後全く相手にされなかったのは、陥落後の南京の実情を熟知した記者が多数メディアの中堅として残っていたからにほかならない。朝日にしても南京に記者たちを90人以上派遣していた。こうした生き証人たちは歳月の流れとともに徐々に減り、昭和46年当時、南京の実情に通じた記者は少なくなっていたのである。

●日本の南京攻略を誇大に歪めて吹聴した人物として、米国人宣教師フィッチがいる。フィッチは東京裁判に出廷こそしなかったが、書面で「南京虐殺」を告発している。彼は明確に日本に対して敵意を抱いていた反日家だった。

●宣教師の目は決して純真無垢でも善良公平でもない。宣教師は宣教師の利害や打算・計算のもとに行動しているのだ。20世紀初めアメリカから宣教師が5千人近く中国に渡った。最も米国のキリスト教会が資金を費やして力を尽くしていたのは中国での布教であり、中国人の信者獲得だったのだ。米国から宣教師に送金された資金はケタ違いに多かった。

●「南京事件」について報じたのは、ダーディン(ニューヨーク・タイムズ)とステール(シカゴ・デイリーニュース)という2人の特派員である…

◇ステールは、台児荘の局地戦で日本が戦略的に一時撤退しただけで、世界中に「中国軍大勝利」と打電する。実際には百人単位の死者なのに、「日本兵が2万人死んだ」などという間違ったニュースを流すなど、露骨に中国へ肩入れした報道が相次いだ。

◇ダーディンは、昭和13年6月、後退を続ける国民党軍が日本軍の進軍を阻むために黄河を決壊させ、中国人も多数溺れ死ぬといった被害を、「日本軍が黄河を決壊させた」とあべこべに報じている。
…特派員といっても、公正中立とはとてもいえない虚報が多数流されているのだ。

        《阿羅健一 正論2008/1月号》
 


●5年ほど前、「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士百二人の証言」という本が出版された。匿名の元兵士が語る検証不能のトンデモ本で、日本兵の蛮行がこれでもかこれでもかと出てくる。

●これに対し、第33連隊の市川治平氏(92)は、「編者が机上で作り上げた小説だ」と喝破する…
「102人の元兵士のうち59人が歩兵33連隊所属とされていますが、虚構と断言できます。我々は郷土部隊として出征し、連帯感があるので、誰かがインタビューを受ければ相互に連絡しあいます。しかるに誰一人として、インタビューを受けたことを知りません。そもそも三重県在住の参戦者は調査が行われたとされる平成12年当時、30人足らずしか存命しておらず、59人から聞けるわけがありません。証言の内容も軍隊経験者としての常識がなく、事実関係も異なっています」
        《冨澤繁信 正論2008/3月号》


●敗戦の年の12月、GHQの命令で南京事件に触れた「太平洋戦争史」を報じなければならなかった。東京裁判が始まり、南京事件が審理された。裁判の批判は禁止されていたから、事件を肯定的に書かねばならなかった。
→しかし東京裁判が終わると、そのような責務からは解放された。

●陥落後の南京を知っている記者は、どの新聞社にもいた。事実を曲げてまでGHQに迎合する記事を書く記者はいなかった。もし東京裁判のいう南京事件を信じる若手の記者がいたとしても、南京を歩き回った先輩記者が一笑に付したであろう。
…こうして南京事件は新聞から消えることになる。昭和40年代に入っても報道されることはなかった。

●昭和40年代に入ると、南京を知っている記者が定年退職を迎えだす。昭和40年半ばを過ぎると、南京を歩き回った記者たちは新聞社に殆どいなくなる。
そうなった時、突然、南京事件が浮上する。昭和46年11月の朝日、本多勝一記者による連載「中国の旅」の中で取り上げられた。新聞から消えて23年ぶりのことだった。

「中国の旅」で南京事件が報じられると、それはかつて南京を歩き回った朝日の記者を驚かせ、古巣に抗議する記者が現れた。当時の南京を知る人たちも驚かせ、抗議や申し入れが朝日に相次いだ。

南京事件は中華人民共和国にとって全く関心がなく、知識がなく、史料もなかった。発行部数一位の朝日に南京事件が記述され、単行本「中国の旅」が大ベストセラーになったと知ったからであろう。中国から南京事件を言い出すようになる。

《阿羅健一 「再検証 南京で本当は何が起こったのか」他の著書「謎解き「南京事件」」》
 


●ドイツ人ラーベは、自国の外交官に宛て、南京で2万人が強姦された、と書いた。全く根拠のない数字だったが、後に東京裁判の法廷に提出され、あろうことかその文書が採用され、爾来、南京では2万人の強姦があったことになった。
十数年前、本多勝一は「朝日ジャーナル」にこう書いた。「ナチ=ドイツは天皇制軍国主義の日本とたいへん『よい関係』にあった」。南京攻防戦のころ、日本とドイツは防共協定を結んでいて、そういった友好国のドイツが記述しているから、南京事件は本当だというのである。

●たしかに日本とドイツの関係は悪くなかった。しかし、中国とドイツの関係も悪くなかった。中国にとってドイツはアメリカに次ぐ貿易国であり、悪くなかったというより極めてよい関係にあった。日本との貿易高は中国と比較にならない。
そのためドイツ外務省も、ドイツ国防軍も、ドイツ財界も、圧倒的に親中だった。ドイツから見て、日本との関係と中国との関係を比べれば、中国との方がはるかによかったのである。
        《阿羅健一 正論2009/2月号》
 


●東京裁判における最重要証人たるマギー牧師(安全区の委員で、南京占領後も市内を自由に歩けた立場)の証言は、南京における膨大な殺人・強盗・強姦・暴行・累々たる屍…について見てきたようなものだった。2日間にわたり法廷で詳細な証言をした。

●しかし、マギーはブルックス弁護人から「あなたは具体的に虐殺された一般市民を何人見たのか」の問いに、「見たのは1人である」と答えた。その1人とは、日本兵が警備しているところを1人のシナ人が通りかかって誰何され、途端に逃げ出して撃たれた、というものだった。歩哨が誰何して逃亡した人を射殺するのは殺人ではない。これは全く合法な戦闘行為。

●強姦らしいものを1件見たとも証言した。それは現場を見たのではなく、マギーが通りかかると1人の日本兵が走り出していき、そのあとを見ると女がいたから、あれは強姦されたに違いないというものだった。日本兵がアイスボックスを民家から持ち出すのを1件見たとも証言している。
…マギーが自分の目で見たものは、たったこれだけなのである。このどこをどうこねくり回せば、大虐殺という言葉が出てくるのだろうか。 

●戦時プロパガンダというのは、事実か嘘かは問題ではない。国際世論を味方につけ、自国民の戦意を高揚させ、敵の意欲を喪失させればいいのである。
  《渡部昇一 「渡部昇一の時流を読む知恵」》
 






●東京裁判で証拠として採用された証言の1つに、日本軍の追跡をかろうじて逃れて洞窟に隠れ、そこから日本軍が57,418人の中国人を虐殺するのを見た、というものがある。そんな目撃が可能か。
      《北岡伸一 中央公論2005/6月号》


●南京事件を世界で最初に知らしめた英国紙「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員だったティンパーリーは、中立的立場の欧米人ジャーナリストを装いながら、中国国民党中央宣伝部顧問であった。そしてその出版「外国人の見た日本軍の暴行―実録南京大虐殺」にあたって、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行われていた。これは、ゾルゲがドイツ人ジャーナリストとして実はソ連のスパイだったことと同じ立場である。
…このような政治的背景を持っている人物が書いた本を、果たして歴史的価値のあるものかどうか。

●南京大虐殺に関して第三者による重要な資料と思われていた金陵大学教授のルイス・スマイス博士の「スマイス報告・南京地区における戦争被害」もまた、中国・国民党の戦時外交の宣伝戦略のために、資金的援助を受けて執筆されている。

●国民党の戦時対外宣伝の基本方針は、日本軍の残虐性をことさら宣伝し、アメリカの干渉を誘発しようとするものだった。個々の戦闘では日本に勝てないけれども、首都を重慶へと移動して一歩一歩と後退し、やがて起こるであろう国際情勢の変化を待つという持久戦の計画を蒋介石は持っていた。そして、その成果は真珠湾となって現れる。
        《北村稔 諸君!2002/1月号》


●南京大虐殺記念館の歴史捏造…
「えッ?南京ですか?大虐殺の記念館にウチの酒瓶が展示されている?あれは平成に入ってから発売した銘柄なんですけど…」 困惑しきりだったのは、日本酒「大吟醸 又兵衛」を販売する福島・いわき市の酒蔵「四家酒造店」の担当者だ。 
コトの発端は「南京大虐殺記念館に、どう見ても出土品とは思えない新しい日本の酒瓶が展示されている」という中国人の見学者からの情報だった。さっそく本誌記者は南京に飛んだ。

●順路に従って見学していくと、人骨が展示されているコーナーがあった。これは、日本軍によって酷使され亡くなった中国人の遺体が埋められた穴(万人坑)から発掘されたという。その人骨のすぐ脇のガラスケースの中に日本酒瓶が飾られていた。“これが日本軍の残虐行為の証拠!”という趣なのだ。
横に並べられたビール瓶は相当に古そうではあるが、日本酒の方はというと明らかに最近のものだ。隣で見学していた中国人の女性に聞いて見たが、「どう見ても新しいですよね」と首をかしげていた。

●説明文には、〈1983年、江東門の「万人坑」の中から掘り出された日本軍のビール瓶〉、〈瓶の下部には英語で「Dainippon Brewery」とある〉などと記されている。記念館の学芸員に尋ねた。
---人骨と一緒に掘り出されたものですか?
 「あ、この瓶ですね。これは出土品ではなく、比較のため展示しています。この2本は日本の同じ酒蔵メーカーが作ったものです」
---えっ?「Dainippon Brewery=大日本麦酒」は、現在のアサヒビールとサッポロビールの前身ですよ。四家酒造店は無関係です。
 「よく見てください。どちらも瓶底に同じ星印が刻印してありますから。同じ会社に決まってるじゃないですか」

●そういわれたので展示してある酒瓶をじっと観察してみたが、底の星印は見えなかった。ちなみに四家酒造店によれば、「又兵衛の瓶底に星印はありません」とのこと。
…そもそも万人坑自体、日本軍の残虐行為とは何ら関係なく、中国人の共同墓地の可能性が高いもの。一事が万事。記念館の展示物全体が怪しく見えてしまうのは本誌記者だけだろうか。
       《週刊ポスト 2012年10月5日号》


●文革で何万人殺されたかを言わず、天安門事件でさえ死者は寸鉄を帯びぬ学生・市民より、解放軍兵士の方が多かったと強弁する中国政府。そんなアヤフヤな数字感覚で、よくまあ1939年の南京で「虐殺30万人」だと言えるなあ。
    《徳岡孝夫 「「民主主義」を疑え!」》

【10月24日更新】

●ユネスコの南京記憶遺産に登録された、中国政府が提出した「南京大虐殺に関する資料」11点は、すべて論破できる。
例えば、当時南京にいたマギー牧師が撮影した「マギーフィルム」というのがあるが、それは南京城内の死体の様子だけを映したもので、その死体がどういう原因で誰に(日本軍なのか中国軍なのか)殺害されたものか、などということは判明しない。この程度のものを「記憶遺産」と言われてはたまらない。

●それよりも、当時日本の映画会社・東宝が作った記録映画「南京」の方が、南京市内をくまなく撮影しており、信頼性が高い。この映画は第一級の資料である。
第一級資料というのは、史学でいう「その時、その場で、誰が、どんな状況で」といったものが判明しているものを言う。証拠資料というのはこういうモノを指すのである。

●あと、「南京軍事法廷が調査した犯罪の証拠」も記憶遺産として登録されている。これは南京でも行われた軍事裁判の資料だが、これも証拠にならない。
なぜかというと、当時、米軍と中国軍が共同でどのような日本軍による残虐行為があったかを、南京市民に聴き取り調査をしたものである。ところがその調査では、市民は「冬のセミの如く語らず」と表現しているように、誰も何も語らなかった。そんな話、聞いたことないという感じだったわけである。それで困った調査側は、市民に策を講じて(カネ等を渡したのか?)証言を引き出し、突然「50万人」という数字を導き出した。しかし、50万人というのはあまりに多いということで、20万人に落ち着いたという。

●また、戦死者の遺体を掘り起こし、それを写真に撮って虐殺の証拠としている調査結果もある。もちろん戦争なので、戦死体があるのは当たり前のことで、「虐殺」の証拠にはならない。
こんなインチキ資料のオンパレード…。
 《松尾一郎 続きはチャンネル桜2015/10/12で》



●「中国の旅」(南京大虐殺を書いた本)は、文革時代の71年、朝日新聞記者・本多勝一が国交のなかった中国に特別に入国を許され、中共が用意した人たちに会い「毛沢東主席のおかげで私たちは幸せです」と嘘を語る証言者たちの言葉を、そのまま朝日に連載し本にしたものである。
        《投稿 SAPIO 2006/6/28

 ※関連ページ : 「プロパガンダとは」も参考に

【南京大虐殺】
死者数の信憑性/なぜ虐殺後に人口が増えているのか
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