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ハル・ノート

日本は戦争回避のために行っていた
日米交渉の途中で突然、
米国務長官コーデル・ハルから
突きつけられた文書
「ハル・ノート」(日米協定基礎概要案)
これは重大な意味をもっていた。



〈注〉このページでは「日本軍の中国からの撤退」という言葉が出てくるが、日本は中国を侵略するために軍隊を派遣していたわけではない。

●当時の中国は、経済的・資源的に未開発の国で、欧米各国等、世界の先進国はどこもその権益を求め、中国に進出していた。

●そして当時、各国は
合法的(国家間の約束)権益を守るために軍隊を常駐させていた。なぜなら、当時の中国は不安定な国で、いつ自国の権益が中国国内の盗賊集団に奪われるかわからない情勢だったために、それを守るための自衛の措置だった。

●現実に、中国国内の暴徒は外国人を襲撃し、それに対して欧米諸国は応戦していたのである。

●世にいう「日中戦争」もその類で、特に中国人は日本人を「欧米の猿マネをしている生意気なアジア人」として目の仇にしていたために、「戦争」という規模にまで発展してしまった。

●日本はあくまでも
合法的に中国で経済活動をしていたのである。その前提を踏まえた上でご覧ください。(管理者)
詳しくは「日中戦争」のページでご確認ください。




●日本軍の中国からの撤退については、地域・時期・規模などの条件をどうするかについて、それ以前8ヵ月間も交渉が続いていた。その過去の交渉を全て無視して、突然、即時かつ無条件の撤退を要求したのが、ハルノートだった。

●東郷外相の手記「時代の一面」…
「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんとしたものである」。

《櫻井よしこ「GHQ作成の情報操作書『眞相箱』の呪縛を解く 戦後日本人の歴史観はこうして歪められた 」》


てめえたちはアジアに散々進出しておきながら、日本にだけ満州をはじめとしたアジアからの全面撤退を要求するというハルノート。日本に対する経済封鎖とともに、あれは完全なる宣戦布告である。
     《西部邁 チャンネル桜2016/8/13



真珠湾は、ハルノートが事実上の対日宣戦布告である。日米交渉によってそれまで積み上げてきたものを、一挙に崩すものだった。
        《谷沢永一 諸君!2002/1月号》


●11月26日、ルーズベルトとハルは「日本に奇襲攻撃をやらせた方が、アメリカ世論を燃え上がらせるのに都合がよいではないか」という意見で同調した。結局、「暫定協定案」を捨てて、「平和解決要綱」(ハルノート)を日本側に手渡した。その内容…

◇仏印・中国からの全面撤退
◇汪兆銘の国民政府(中華民国臨時政府)の全否認
◇三国同盟からの離脱 等

●ハルノートに対して、回避派の東郷外相でさえも「長年における日本の犠牲を全然無視し、極東における大国の地位を捨てよ、と。これは国家的な自殺に等しい。最早や立ち上がる外ない」。

●日本側は、ハルノートが最後通牒だと確認し、12月1日御前会議にて誰からの異論もなく、天皇も異議を唱えなかった(聖断を下した)。
この時天皇が戦争を抑えたら、内乱になり、皇室の一大危機になっていただろう。それはよいとしても、結局は戦争になっていただろう。(天皇回顧)
       《田原総一朗 「日本の戦争」》
 


●「ハルノート」は、要するに明治以降の日本の大陸における一切の権益を全部放棄して、4つの島に引っ込めということだった。
もしもこんな言い分が通るとすれば、アメリカもハワイやカリフォルニア・ニューメキシコ・テキサスなどを返して、東部13州に戻りなさいということになる。

●これは当時の日本の国家の解体を意味する。外交交渉を続けていたのに、いきなり国家を解体せよと言われて「はい、そうします」と返事する国があるとは思えない。
  《谷沢永一 「日本に『戦争責任』なし」》
 (他著書「歴史が遺してくれた 日本人の誇り」)


●アメリカ歴史学会会長、チャールズ・ビアード博士は、著書『ルーズベルトの責任』でルーズベルトには日米開戦の責任があると明確にした。
たとえば、1941年11月26日にハル国務長官が日本に首肯した10項目の要求、通称「ハルノート」についてこう書いた。
「1900年以来、アメリカのとったいかなる対日外交手段に比べても先例をみない程強硬な要求であり、どんなに極端な帝国主義者であろうと、こうした方針を日本との外交政策に採用しなかった」

●ビアードは野村吉三郎駐米大使や来栖三郎特使が日米戦争回避の道を探り、暫定措置を決めて、そこから本交渉に入ろうと懇願しても、ハルは相手にしなかったと、公表された政府資料、報道などを入念に分析して、詳述している。

●東京裁判でただ一人、戦犯とされた日本人全員の無罪を主張したインドのラダ・ビノード・パール博士は、ハルノートを「外交上の暴挙」と喝破した。それまでの8か月にわたる交渉の中で一度も話し合われたこともない過激な条項が、理解し難い形で日本に突きつけられていたからだ。

●ハーバート・フーバー大統領の『裏切られた自由』は、ビアードとは異なる情報源によるものだが、開戦の責任はルーズベルトらにあると、同じ結論に達している。同書には生々しい会話が頻繁に登場する。

●たとえばハルノートを日本に手交する前日、11月25日に、ルーズベルトはハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官らを招集した。その会議でルーズベルは「問題は、いかにして彼ら(日本)を、最初の一発を撃つ立場に追い込むかである。それによって我々が重大な危険に晒されることがあってはならないが」と語っていた。

●11月28日の作戦会議では、日本に突き付けた10項目の条件についてハル自身がこう述べていた。
「日本との間で合意に達する可能性は現実的に見ればゼロである」。日本が絶対にのめない条件を突きつけたのだ。
   《櫻井よしこ 週刊新潮2018年1月18日》



●日本はアメリカに大統領との会談を強く申し入れた。その時、ABCD包囲網さえ解いてくれれば、中国からの撤兵さえ考慮に入れていた。(これはちゃんと記録に残されている)

●ところがルーズベルトは話し合いの場に出てこず、ハルが代わりに出てきた。そしてのらりくらりとするばかり。その後、ハルノートを突きつける。
→日本にとっては寝耳に水、予想もしていなかった。座して死を待つか、一戦を挑むか。二者択一だった。
           《中條高徳 出典不明》
(他著書「おじいちゃん戦争のことを教えて 孫娘からの質問状」)


●日本は、ハルノートを公表し、真珠湾を奇襲せず堂々と宣戦布告をすればよかった。
そうすればアメリカの国内世論を味方にすることができ、いかにルーズベルトといえどももたなかっただろう。アメリカを動かす大きな力は世論である。アメリカの世論こそ独裁者である。
   《岡崎久彦
    「日本の正論―21世紀日本人への伝言」》


●ハルはチャーチルや蒋介石に、国務省案の1つを日本に突きつけますよといって見せた経緯がある。この案は日本に対して弱腰だと、特に蒋介石が猛反発したため、日本への要求を強くしたのがハルノートといわれている。 
       《保阪正康 「昭和史の論点」》

●ハルノートでルーズベルトの背後にいたのがチャーチルと蒋介石。この2人にとってアメリカが「乙案」(日本の最終案「仏印からの日本軍の撤兵を約束するかわりに、米国は日本に石油を供給する」)で日本と妥協したら困る。特に蒋介石は。
           《半藤一利 〃 》


●ハルノートでの「支那における重慶政権以外の一切の政権の否認」の中には、汪の南京国民政府のほかに満洲国政府も含むと考えられた。
         《瀬島龍三 「日本の証言」》
         (他著書「大東亜戦争の実相」)


●ハルノートでアメリカが満州を中国から除外していたことは考えにくい。第一それなら挑発としての意味がなくなってしまう。
     《中西輝政 「二十世紀日本の戦争」》
(他著書「なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか」)


ハルノートは外交史上稀に見る挑発で、東條内閣の全閣僚が「自存自衛のため」と開戦を同意した。ちなみに自衛のための先制攻撃を加えることは、国際法上許される。
       《平川祐弘 諸君!2006/8月号》


●もし戦前の米国が、中南米政府の否認、フィリピンからの全面的無条件撤兵、米英関係の白紙還元を要求されたとするならば、米国内世論の白熱化を招くのは必至であり、その意味でハルノートは限りなく挑発的であった。
        《深田祐介 「黎明の世紀」》
  (他著書「翼の時代 フカダ青年の戦後と恋」)


●東京裁判での開戦の最後通牒の問題について、ブレークニー弁護人はこう切り込んだ。
「12月7日の日本の通牒(ハルノート)は、宣戦布告でもなければ最後通牒でもないと言うが、ルーズベルト大統領は『これは戦争を意味する』とは言わなかったか」。

●そしてアメリカ国務省から来た証人、つまりアメリカの立場を代表する人物であるバランタインから「そういうことを聞いたことがある」という証言を引き出す。バランタインは弁護人の追及がうまかったためしばしば答えに詰まり、結局、自分個人の意見という形で逃げてしまう。もちろん、個人の意見では証言としての力がなくなってしまうことは言うまでもない。

  《渡部昇一 「『東京裁判』を裁判する」》
      (他著書「決定版人物日本史」)
 


                        



●「ハルノートの過酷な要求が戦争を誘発した」という外国人の主張

◇英 オリバー・リトルトン通産相…「米国が戦争に追い込まれたというのは、歴史を歪曲するも甚だしい。米国があまりひどく日本を挑発したので、日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ」

◇駐日英国大使・クレーギー…「日本の国民感情を無視するの甚だしきもので、交渉決裂も止むを得ない」

◇米歴史学者・ビアード…「国務省高官は、一人残らずこの覚書を作成しつつある時に、日本は決してこれを受諾しないであろうということを知っていたに違いない」

◇「ルーズベルトもハルも日本はこれを受諾するであろうとか、この文書の対日交付が戦争への序曲にはなるまいと考えるほど、日本の事情に疎かったとは到底考えられない」(同)

「ハルノートは日本の乙案を全面的に拒否したが、乙案は戦争回避に役立ったかもしれない」(同)
      《中村粲 「大東亜戦争への道 」》



●ハルノートは、東京裁判で日本側弁護人ブレークにーが「こんな最後通牒を出されたらモナコやルクセンブルグでも武器をとって立つ」と言ったほどの高圧的かつ屈辱的なものであった。
     《藤原正彦 文芸春秋2010年7月号》


●アメリカとしては、交渉を続けていれば、開戦時期を望み通りに設定できるというメリットもあった。当初アメリカは一時的に譲歩案を日本側に出し、日本に望みを持たせながら戦争準備のための時間を稼いだ。そして最後に、日本が飲めるはずのない条件を並べた「ハル・ノート」を最後通牒として突きつけて、「最初の一発」を日本に撃たせることに成功したのである。

●「ハル・ノート」が開戦を意図したものであることは、「ハル・ノート」を日本側に提示した翌日の11月27日、ワシントンの参謀本部がフィリピン駐在アメリカ極東軍の司令官だったマッカーサー(開戦前は中将)に、「開戦近し。警戒せよ」と打電していることからも明らかである。
       《中西輝政 正論2011/12月号》


●昭和の戦争について批判的な司馬遼太郎ですら、『坂の上の雲』の中で、ロシアは日本に対して白人同士ではあり得ないサディスティックな折衝をやっており、同じように「ハルノート」もサディスティックな要求で、白人同士の国ではあり得なかっただろうと書いている。
        《新保祐司 正論2010/10月号》

●半藤一利さんは、「ハルノート」を呑んだらよかったと言っている。
そもそも昭和16年の4月ごろからずっと日米交渉をやっているわけである。日本としては何とか妥協点を見出してそこで手を打ちたいと考えていた。ところがアメリカにはその気が全然なかった。「ハルノート」というのは昭和16年の11月下旬に急に出てくる。

●「ハルノート」は何ら妥協点を含まない、要するに原則論なのである。アメリカは初めからこの原則論で一歩も退かないわけである。
つまり、4月からずっとやってきた交渉というのは、アメリカにとって日米開戦の準備のための時間稼ぎ以外の何でもないわけだ。戦争は避けられたという人もいるが、つまりあの時の交渉が下手だったという含みで言っているのだと思うが、下手も何もアメリカは最初から交渉する気なんてないのだから、どうしようもない。

●あれを呑めば日本はいわゆる「現在の戦後」と同じようになっていた。
でも、だから戦禍がない分その方がよかったじゃないかという言い方をする人がいるが、そこまで奴隷的な根性でいいのかということになる。そういう民族は二度と自立できなくなるだろう。
           《桶谷秀昭 〃 》


●ハルノートをとりあえず受諾して、おもむろに世界情勢の転換を待つのも悪くはなかったと思うが、強気の軍部や興奮した世論が受け入れる見込みは薄く、責任ある政府当局としても石油を断たれたまま座視するわけにはいかなかったろう。
        《秦郁彦 「現代史の争点」》
  (他著書「慰安婦問題の決算 現代史の深淵」)






●日本がハルノートを受け入れれば、一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。
しかし、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二・第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。
     《田母神俊雄 「自らの身は顧みず」》


日本が戦争を回避するために
懸命に譲歩を重ねた様子は
「日米交渉」を参照ください。
 


【日米開戦】
日本の大義/戦後もアジアで継続された東亜の解放
日本軍の仏印進駐/あくまでも自衛措置
対日経済制裁/それはすでに戦争行為だった
日米交渉/戦争回避を望む日本と開戦を目論むアメリカ
ハルノート/交渉をぶち壊した最後通告
真珠湾攻撃/騙まし討ちというプロパガンダ