満州での排日活動侵略されたとされる側の中国は、
まったくの善意の被害者だったのか。 満州事変の勃発前、満州に移住してきた日本人 はどんな仕打ちを受けていたのか… |
●事変直前の様子について、満鉄社員で「満州青年連盟」の理事をしていた山口重次氏はこう書いている…「奉天では日本人がうっかり城内にいくと、巡警、野次馬でふくろだたきに会う。小学児童の通学には、領事館警察隊が護衛していったが、それでも投石された」(「消えた帝国 満州7」毎日新聞社) 《渡部昇一 「中国・韓国人に教えてあげたい本当の近現代史」》 ●もともと満州を中国は誰が来ようと大して気にもしていなかった。ところがここが経済発展しだしたのを見て、いきなり「満州は中国の一部だ。返せ!」と言い出した。ちゃんと合法的に条約を結んでいるのに「条約なんて即刻廃棄だ。いやなら武力に訴えるぞ」と言って、それを「革命外交」と呼んだ。そのために、莫大な投資をし、こつこつ発展させてきた土地が強奪されそうになり、そこにいる日本人の身も危険にさらされた。それで、その地域を切り離して満州国を独立させるしかなくなった。 ●確かに満州は、条約上は一応「中華民国」の一部ということにはなっていたけど、満州の権益は条約では日本のものだった。中国の方が先に条約破棄を宣言したのだ。日本は世界一条約を律儀に守る国で、もっぱら条約破られっぱなしだった。(ソ連にも) 《小林よしのり 「『個と公』論」 他の著書「戦争論」》 ●張学良の日本への圧迫・弾圧は、筆舌に尽くし難かった。 ①暴行・器物・施設の破壊など、1年間で30万件を超えた。 ②日本人経営の店舗・企業に対して、税関で支払った税金とは別に、営業税などを課した。 ③満鉄は、アメリカが資本の援助のもと、学良が日清条約に違反して建設した並行鉄道によって貨客を奪われ、収入が1/3になり経営危機に陥った。 《福田和也 「地ひらく(上)」》 ●張作霖の息子の張学良は、父の政策を受け継いだ。 ◇胡芦島と営口に大連港に対抗する港を作り、全満の貨物を吸収した。 ◇日本の経済活動を満鉄付属地だけに限定させるため、沿線の付属地には境界線と監視所を置いて、出入りする商品には重税を課したので、この中では日本人は商売ができなくなった。 ◇日本人の土地貸借権を認めず、日本人と契約した者は死刑にするとの「懲弁国賊令」を作った。 ●学良時代、日本人の小学生は日本兵の護衛付きで通学し、軍隊のない地方では休校・廃校になった。こうして満州にいる日本人・朝鮮人の130万人は百万人に減った。関東軍の演習も禁止された。 ●包囲された満鉄は自滅の道を辿った。社員1,500人を解雇し、社員の俸給を半分に削ったりして、やっと存在を保てるという状態だった。 《榛葉英治 「満州国崩壊の日」》 ●【日中間協定の侵害リスト】 ①商業及び農業の目的のために土地を借りる権利を日本人に与えた、南満州と東内モンゴルに関する1915年条約の拒否
②日本人の経営する鉱山産出の石炭に対してかかる輸出税を、10%→40%へ勝手につり上げた。 ③満鉄平行線の建設(北京条約違反) ④満州の中国の鉄道で輸送される日本製品への差別(九ヵ国条約違反) ⑤大連港返還要求(条約無視) ⑥日本の警備兵が鉄道沿線から撤退することを要求(協定無視) ⑦鉄道建設に必要な土地を満鉄に売却するのを拒否(協定違反) ⑧関税局によるタバコへの差別的な高輸入税の割り当て( 〃 ) ⑨満鉄沿線区域内での不法な税金の取り立て( 〃 ) ⑩朝鮮人への迫害/日系資本の鉄道の売上金の着服
等…これらによって満州事変は起こった。 ●中国の反日運動は満州事変後に生じたのではなく、それ以前の日本の政策が全く融和的だった10年以上の間に、すでに進行していた。 《K・カール・カワカミ 「シナ大陸の真相 1931‐1938」》 ●1929年と30年の鉄道付属施設の損失… 鉄道運行妨害:171件 鉄道運行中の強盗:189件 鉄道施設の略奪:92件 電線の略奪:26件 ●1927年~31年、国民党政府は相変わらず反日運動を推進していた… ◎日本からの借金を返す義務はないと公言。 ◎学校の教科書に反日プロパガンダを刷り込み、「大嫌いな日本人」という歌まで作り授業で毎日歌わせた。 ◎31年と32年の国際会議で、「中国人は昔も今も全ての国と誠心誠意お付き合いをしてきたのであります。しかるに敵は、言われなき罪をかぶせ弱みに付け込んでいるのでございます」と訴えた。 ●日本には反日プロパガンダの証拠がある。これは英米人の手で翻訳され、中国各地の領事館に保存されている。 【張学良の満州の反日運動歌】 お前を叩きのめしてやる 残忍な支配権を踏み倒してやる 銀行はぶっ潰す 鉄砲を投げ捨ててやる 一致団結(以下同趣旨) 打倒だ、打倒だ 大砲は破壊してやる 借金は踏み倒す お前の経済力はすでに地に落ちた ●張作霖は慎重だった。日本に好意を持っていたわけではないが、かといって公然と敵対行為に出ることはなかった。日本人を脅かすこともあったが、政情定まらぬ国では普通にありえる程度のことで、日本が行動するほどのことではなかった。 ●ところが無能な学良が跡を継いでからは事態は一変した。蒋と同盟を結び中国の地に乗り出し政治に手を出した。北京を乗っ取り取れるだけの税を取った。反日プロパガンダ組織を造り盛んに活動を開始した。満州全土で日本人襲撃事件が多発。新政策の一環として日本に次々と要求(旅順・大連返還、条約無視等)し税金を取り立てようとした。(中国と関わりを持ったことで排外政策に同調した) 《ラルフ・タウンゼント 「暗黒大陸中国の真実」》 ●言うまでもなく満州における日本の諸権利は、当時の国際法原則に依拠した正当かつ合法的な権利であり、その地位は中南部における英米その他の立場と全く同様のものであった。 ●1920年代を通じて進出日本企業や在留日本人が受けた「排日の受難」は、現在の比ではなかった。その中を日本政府、とくに幣原外交の「日中友好」のスローガンの下でひたすら耐え忍び続けた国民世論と軍部の自制心にこそ今日、驚嘆すべきもの、との評価がなされるべきであろう。 従って、それがいずれ「暴発」することは必然であった。国益や国民感情からいって余りに不自然な政策が、結局いかに大きな犠牲を払うことになるか、という観点こそが最も重要な「歴史の教訓」とされなければならない。 《中西輝政 「諸君!2006/2月号》 ●普通ならば政府は… ①公使を引き揚げ、抗議の意思を世界に向けて示す。
②そして日本の正当な権利がこれほど侵されていて、こんなことが続いたら自衛の権利を発動しなければならないと、盛んに広報活動をすべきだった。 …ところが当時は「幣原外交」だった。「日支友好が第一」と唱え、何をされてもじっとしていた。
《中西輝政 歴史街道2006/4月号》 ●1931年5月に南京で開催された国民会議でも、「打倒日本帝国主義」のスローガンの下、旅順大連の回収・満鉄回収が叫ばれた。ここに至って中国側は、何が何でも短期間中に日本の合法的権益を回収するとの強硬姿勢をとったのである。 …中国に「善意」を示し続けてきた幣原外交を見て、中国側が日本を侮った結果でもある。 《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」他の著書「中国人が死んでも認めない捏造だらけの中国史」》 ●中国通の米国務長官のホーンベックは張学良の行動について、抗日の主張は隠れ蓑で、実際は東北軍あるいは彼個人の利益を求める古い軍閥のやり方に過ぎないとし、ジョンソン大統領も麻薬を常習する匪賊の子が、シカゴのギャングのような誘拐を行い、金で解決したというような解釈をしている。 《臼井勝美 「張学良の昭和史最後の証言」》 |
※関連ページ : 現在の中国の「ルール違反」も参考に。中国は今も昔も変わっていない。 |
【満州事変】 ★満州と日本人/日本人の満州移住は全て合法 ★満州の状態/中国人さえ立ち入らなかった無主の地 ★張作霖暗殺/その原因と真犯人はソ連という説 ★満州での排日活動/現在の中国と同様の狼藉 ★満州事変勃発/それは戦争の原因ではなく結果だった ★満州国建国/皇帝も民衆も望んだ建国 ★リットン調査団/日本を弁護していた報告書 ★満州の日本統治時代/世界が評価した近代化 ★華北分離/中国からの煽動 |