原爆・空襲
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●広島への原爆投下が「早く戦争を終わらせるため」ならば、なぜ長崎にも投下したのか。それも広島にはウラニウム、長崎にはプルトニウムという別の種類を……実験に他ならない。 《渡部昇一 「封印の昭和史」 他の著書「禁忌破りの近現代史」》 ●原爆の目標が日本の軍事都市だったように語られているが、原爆は広島の軍事施設し投下してはいない。爆心地は市街の病院である。 ●パル判事…「いったいあの場合、アメリカは原爆を投下すべき何の理由があったであろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができていた。ヒロシマに原子爆弾が投下される2ヵ月前から、ソビエトを通じて降伏の交渉を進める用意をしていたのである」 《櫻井よしこ 「GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた」》 ●講和に向けて日本が動き出してることは、アメリカ側は電報傍受でつかんでいた。よってアメリカは降伏される前に焦って原爆を使ったのだ。 《福田和也 「二十世紀日本の戦争」》 ●単に降伏させるためだけなら、原爆は無人島で投下してみせて脅すという手もあったし、大都市に投下する必要もなかった。 《金完燮 「親日派のための弁明」》 ●ポツダム会議の議事録を調べると、アメリカは日本が降伏する前になんとか原爆を使いたいと急いでいた。 それはソ連を牽制するため。ポーランド・チェコ・ハンガリーといった東欧の国が、ナチから解放されたと思ったら、そのままソ連の衛星国にさせられていた。これらのトンデモない事が少しずつ明らかになってきて、トルーマンは是非ともソ連を脅しておく必要があった。 ●広島などへは、わざと一度素通りをして空襲警報を解除させてから、軍需工場などなにもない住宅密集地に原爆を落とした。一種の生体実験。実際占領直後から、アメリカは大人数の調査団を広島入りさせている。 《福田和也 「この国の仇」》 ●アメリカ側がどういう基準で原爆攻撃都市を選んだかを示す「目標検討委員会」の議事録… ◇1945年5月10~11日の会議で、了解事項になったのは以下の3点。 (A)直径3マイル(約4.8キロ)以上の 大都市の重要目標。 (B)爆風で効果的に破壊できること。 (C)8月までに攻撃されずにいる可能性が 高いこと。 ◇5月28日の会議では京都・広島・新潟が候補に挙げられ、次の留意点が示された。 (a)(この委員会では)目標を設定せず、 (テニアン)基地で気象条件を考えて 決定する。 (b)精密照準の目標として工業地域は無視 する。この三都市では市周辺に広がって いるからである。 (c)完全破壊を目指し、都市を中心に落とす。 ●原爆投下の最優先の理由に、軍需工場の存在を挙げるのは明らかに間違っている。広島が候補地となった最大の理由は、その「処女性」にある。これまでに空襲を経験していないということである。 《八木秀次 中央公論 2005/12月号》 ●戦時中、広島市民は「日本全国が空襲で焼け野原になっているのに、なぜ広島だけ無傷なんだろう」と不思議がっていた。広島市民は通常の空襲経験がないから、すぐに特殊な兵器だと気付いた人はあまりいなかった。 《秦郁彦 文芸春秋2006/9月号》 ●「天皇の地位保全」の条件さえ出せば、原爆を投下せずとも日本は降伏すると、米国務次官グルー(親日家)は何度も主張した。しかしトルーマンは、ポツダム宣言の草案から「天皇の地位保全」を認める条項をあえて削除した。 《小林よしのり わしズムVOL16》 ●トルーマンと国務長官バーンズの2人は、日本向けの宣言の中に最初はあった「現在の皇室のもとにおける立憲君主制は排除するものではない」といった条項を削ってしまった。ポツダムに向かう船中で。 ●この時点では、すでに日本は様々なルートで終戦工作を展開していた。その中で日本側が最も懸念していたことが、「天皇の地位保全」であることを彼らは知っていた。その天皇条項を削れば日本は対ソ交渉に望みをかけ、その宣言を「黙殺」すると見込んでのことだった。 2種類の原爆をそれぞれ別の都市に投下し、世界公開を済ませた後、トルーマンとバーンズは自分たちが削ったその条項を復活させた。 《鳥居民 諸君!2007/1月号》 ●戦争を終わらせるために原爆を必要としなかったことは、米国大統領にはわかっていた… ◇高空からの何度もの戦略爆撃効果の視察で、日本がすでに連合艦隊を失っていることは写真によって知っていた。 ◇主な兵器工場が破壊され、兵器を生産する力を失っていることも知っていた。 ◇大統領直属の統合参謀本部長リーハイ元帥(当時は大将)は、原爆不要の判断を示した。 …にもかかわらずトルーマン大統領は、原爆を日本に落とした。 《鶴見俊輔 文芸春秋特別版2006/8月臨時増刊号》 ●1945年9月2日の降伏調印式の模様をつぶさに取材したセオドア・ホワイト(ピューリッツァー賞を受けた現代史の”語り部”としても高名なジャーナリスト)はこう記録している。「あのころの私は、日本人を殺戮することが恥ずかしい行為とは思わなかった」、「彼らは祖国アメリカに先に爆弾を投下したのだ。復讐とは、実りのない満足の姿である」(「歴史の探究」より) 《石井英夫 「コラムの愉しさ」 他の著書「コラムばか一代」》 ●ドイツ人はキリスト教徒で、それもプロテスタント系であったのだろう。連合国のソ連を除いた主要国であるアメリカ・イギリスと、その点で共通していた。日本人の場合、連合国の人々からすればあくまで異教徒であり、野蛮人でしかなかったのではないだろうか。 《高橋彦博 「民衆の側の戦争責任」 他の著書「戦間期日本の社会研究センタ-」》 ●政府はポツダム宣言を新聞に発表する際、これを「黙殺」する立場を表明した。それを外国の新聞が、「reject」(拒絶する)と報道したのである。 ●原爆投下もソ連の参戦も、日本がポツダム宣言を「黙殺」した結果として決断されたのではない。それらはポツダム宣言以前から米ソによって決定されていた、既定路線の実行にすぎないのである。 《松本健一 産経新聞2007/8/14》 ●東京大空襲がどれだけひどかったか。 アメリカ軍は日本人、それも軍人ではなく女子供を含む民間人をできるだけたくさん殺すために、東京の下町で木造の民家密集地である墨田区や浅草を狙った。どうやったら日本人を効果的に殺せるかを考え、日本家屋の作れる日系人の職人たちをハワイから大量に呼び寄せてアメリカの砂漠に日本の木造家屋を作り、焼夷爆弾を使って焼きつくす「予行演習」までしていたのである。 ●昭和20年3月9日深夜、325機のB29は上空1千メートルの低空で飛んできた。空襲警報が鳴り、住民は防空壕に逃げ込んだのだが、B29は何もせずに房総半島を抜けていったので、日付が変わった頃、警報が解除された。住民がやれやれと家に戻ってきたところへ、Uターンして来たB29が爆弾を投下して大量虐殺に及んだのである。 ●それによって東京は大火災になったが、これも我々が普段想像する火事とは規模が違う。何十万戸の家が一斉に燃え,、それで起こった火災旋風で、秒速百メートルの火の風が人々を襲った。火を免れた人も酸素を奪われて死んだ。アメリカ軍は一夜にして12万人という人間を殺したのである。町を焼き払った煙は1万5千メートルの成層圏にまで達したのだから、その凄まじさがわかる。 《百田尚樹 WiLL2014/1月号》 |
【日本人の被害】 ★中国本土での被害/性別も不明になるほどの惨殺 ★満州での被害/ソ連兵の残虐さ ★原爆・空襲/日本が降伏する前に投下しなければならなかった |