賢者の説得力ホームその他の問題百人斬り競争

 

百人斬り競争

南京攻略戦の時、日本軍将校2人が日本刀で、
中国人を百人斬る競争をしたという。




「百人斬り競争」の2人の少尉は、それぞれ歩兵砲小隊長と大隊副官の役職についており、戦場で自ら日本刀を振るうはずはなく、また日本刀で続けて何人も斬れるわけはない。さらに一方の少尉はこの競争が行われたとされる時期に負傷で入院していた。
この「武勇伝」は、紙面に花を添えるために捏造されたものだった。ところがこの2少尉は終戦後にこの新聞記事を根拠として中国に連行され、南京軍事法廷で死刑判決を受け銃殺刑に処せられた。

●実は、毎日新聞が1989年に発行した「昭和史全記録」にも、「この記事の百人斬りは事実無根だった」と記されている。しかし2人の遺族が、毎日・朝日・本多に対し名誉毀損の訴訟を起こした第一審判決(2005年8月23日)では、「虚偽、誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの…創作とまで認めることは困難である」として請求を全て棄却した。 
       《原田実 新潮45 2006/4月号》


●いわゆる「百人斬り訴訟」で、問題となった新聞記事の写真を撮影し、記事はでたらめだったと証言した元東京日日新聞カメラマンの佐藤振壽氏が9月4日、亡くなった。(享年95)
向井少尉と野田少尉の遺族が朝日新聞・毎日新聞などを訴えた訴訟で、佐藤氏は一審の04年7月、原告側証人として出廷した。その証言内容は、今年の2月、本誌記者が改めて取材に伺った際も変わっていなかった。

●「敵と300メートルの距離があっても鉄砲一発で殺せる戦場で、チャンバラなんてありえない。あれは与太話を面白おかしく書いただけ。あの写真が中国で飾られているのは忸怩たる思い。たった1回、シャッターを押したんだ。記者に”将校が2人、煙草を切らして困っているからあげてくれ”といわれて会い、その時に撮ったものが、ああいう記事に使われたんだ」

●「あんな写真を撮らなければよかったと、何度もおっしゃっていました」とは、向井少尉の次女、千恵子さん。          
         《週刊新潮2008/9/18》


●向井敏明、野田毅の二人の少尉は、南京の収容所の獄中から、「百人斬り」の記事を書いた毎日新聞の浅海一男記者に真実を語ってと手紙をしたためた。浅海は記事で、二人に無錫や丹陽など4ヶ所で会って、その都度、関の孫六で30人斬った50人斬った、最後に紫金山で会ったときはとうとう100人を超えちゃったと二人で大笑いしたと書いている。

●しかし二人はこの記者に無錫で一度会っただけだ。向井はその後、負傷して病院に送られ紫金山にも行っていない。浅海自身も従軍記録によると激戦地の紫金山には行っていない。

要は、浅海のでっち上げ記事だった。状況証拠もある。彼はAP特派員との架空会見など他にも嘘を書いていた。嘘の常習記者だった。そんな男が真実を語るとも思えない。案の定、返信は「記事にした事実は二人から聞いた」と真実の一片も語ってはいなかった。
かくて二人は浅海の記事を唯一の証拠に、その1ヶ月後に処刑された。

●一方の浅海は新聞社で将来設計を考え、これからは「左」に活路があると読み、新聞労組幹部になった。支那に左の政権ができると、毛沢東賛美に走った。
中共の対日新聞工作は60年代、廖承志を中心に活発化し、やがて日中記者交換が実現した。浅海は新聞労組委員長として北京に招かれ、廖に会い、廖もあの「百人斬り」の浅海本人と知る。「残虐・日本」はまだ使いでがあると北京は読んでいた。カギとなる浅海を放置しておく手はない。
廖は浅海の退職と同時に彼を北京に招いて職を与え、娘の真理を北京大学に入れた。
やがて本多勝一の「中国の旅」が朝日で始まり、浅海の「百人斬り」がもっとどぎつく再録された。

●山本七平がその嘘を糺し本多と論争になる。浅海も北京から戻ってきて他人事のように「(処刑される)二人が最後に日中友好を叫びました。その精神が大事です」とか、「日本軍は毒ガスの赤筒で敵兵をいぶり出して掃討した」とか。敵兵はトーチカに鎖で繋がれていた。いぶり出てはこれない。それに赤筒は催涙弾で毒ガスではない。
…浅海は世話になっている北京政府の思惑通りに、日本を残虐な侵略国家として死ぬまで語り続けた。

●二人の少尉の遺族が、浅海の嘘に関わった毎日新聞などを6年前に訴えた。
しかし地裁も高裁も米国製の歴史観を覆す度胸はなく、遺族の訴えを退けた。最高裁はもっと臆病に門を閉ざして国民を裏切った。

●判決のあと北京の国営友誼商店を訪ねた。旅行客が必ず連れて行かれる土産屋で、その1階左奥に浅海の娘・真理が北京政府からもらった店がある。廖承志の額の下で彼女は、「父は苦しんだ」という。自分の嘘で二人も殺したら誰だって苦しむ。でも、その嘘のおかげで親子二代がこうして安穏と暮らしてきたことは語らない。 
       《高山正之 週刊新潮2009/9/3》


●「百人斬り」が戦意高揚の作り話だったことは、昭和48年、鈴木明が「『南京大虐殺』のまぼろし」の中で明らかにした。このとき、殆どの評論家や歴史研究家は鈴木明のルポルタージュを認めた。戦後の論争で左右が一致した珍しい例である…

◇当時、左翼の旗手であった小田実は、「百人斬りというような事件は、真実は、それ自体はたしかになかったものにちがいない。鈴木は、それが捏造された記事だということをあかして行く」と認めた。

◇「中国の旅」を書いた本多勝一も、毎日新聞の記事が捏造だとわかったのだろう。百人斬り競争を捕虜のすえもの斬りに変えてしまう。

◇平成15年、「中国の旅」を刊行し続ける本多に対して、遺族が出版差し止めなどを求めて訴えた。訴えられた本多側の集会で、本多の弁護人がこう話した。
「あの記事(毎日新聞)は、戦闘行為ですべて斬った、と言ってるわけですね」
「誰も、この点については、本多さんを含め、われわれも、そんなことは信用していない」

●ところが東京地裁での判決は、「(毎日新聞の)記事が虚偽であることが明らかになったとまで認めることはできないというべきである」。
東京高裁は、「『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であるとみとめることはできないというべきである」と判定した。
…原告も被告も、日本刀で百人斬ることはできない、記事は信用できない、と口をそろえているのに、裁判官が「そうまではいえない」という。法曹界まで中国に気を配りはじめているのである。
       《阿羅健一 正論2010/4月号》


         



●カナダ・トロントのヨーク大学で日本の歴史研究の泰斗である、ボブ・ワカバヤシという日系アメリカ人の学者(左寄り)が「百人斬り報道は捏造である」という論文を、アメリカのアジア研究の権威ある学術誌に発表している。その主とした点は…

①当初の報道では「百人斬り」の対象はあくまで中国側の将兵だったが、後の本多勝一氏らの報道ではいつのまにか一般住民となっている。

②当初の記事の筆者の浅海記者らは、2人の将兵が実際に中国人を殺すところを目撃していないと証言。

③当時の日本軍は日本刀で敵を殺すことは一般的ではなく、また将校の日本刀は百人も斬れるほど頑強ではなかった。 
       《古森義久 諸君! 2005/10月号》



●2人は南京に引かれる前、アメリカ人検事の尋問を受け、無罪放免とされている。伝聞には証拠能力はない。英米法の常識だ。検事は「アメリカでも新聞記事で迷惑している人間がたくさんいるよ」と握手を求めた。
ところが南京では、およそ裁判ともいえぬ裁判で、向井少尉は「シナ人、手品上手アル」と、半ば笑いながら裁判に対処した。

●ところが昭和46年、今度は朝日新聞の記者・本多勝一が「中国の旅」を連載し、この「百人斬り」を中国の拡声器よろしく紙面に復活させた。ために向井、野田の家族は白い目で見られ、結婚や就職もままならぬなど何かと理不尽な辛酸を嘗める。

●平成15年、思い立った家族は、朝日新聞、本多勝一、毎日新聞の三者を相手取って訴訟を起こす。彼女らが勝訴すれば、日本の裁判所が南京虐殺の虚妄を世界に向けて発信することになる絶好の機会だった。

●ところが、一、二審とも裁判官は何に怯えてか、訴訟指揮の名のもと、原告側が15人の証人を申請したうち1人を除いて一切シャットアウトした。
およそ裁判の名に値しないメチャクチャな裁判で、三審とも原告側の敗訴とした。

のちに浅海は毎日の労組委員長になって訪中し、さらには一家で北京に移り住み、北京放送で日本向けの原稿を書く仕事に就いている。
本多の「中国の旅」はベストセラーとなり、都内に家作を数件持ち、軽井沢に豪邸を設け、左団扇の生活と聞く。

     《九段靖之介 WiLL2015/4月号》


●私にとって印象深いのは、本多勝一氏と山本七平氏の「百人斬り論争」です。72年に『諸君!』誌上で半年ほど続き、あとはそれぞれの著書で持論を展開する形となりました。南京入りに際しての野田少尉と向井少尉の「百人斬り」を、本多氏は事実だと、山本氏は戦意高揚のためのフィクションだと主張しました。

●私が感心したのは、山本七平氏が『私の中の日本軍』(文芸春秋 1975年)で披露した卓論です。野田少尉は大隊副官でしたが、向井少尉の職務は新聞ではボカされていました。山本氏はそれが歩兵砲の小隊長であったことをつきとめます。だとすれば、2人は指揮系統も職務もまったく違います。

●日本軍は厳格な縦社会であり、軍人とは、直属の上官の命令以外、絶対に聞いてはならない存在です。実戦の最中に向井少尉が砲側を離れ、小隊長の職務を投げ出して、横の関係でしかない野田少尉と私的な百人斬り競争をすることなどありえない---山本氏はそう結論づけたのです。戦場経験のある山本氏ならではの、説得力のある議論に私は感心し、論争は山本氏の完勝だと思いました。
   《渡部昇一 「朝日新聞と私の40年戦争」》



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