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バターン死の行進

第二次大戦中、日本軍は
アメリカ軍・フィリピン軍の捕虜を
収容所までの約80キロを歩かせた。
その際、多数の捕虜が死亡したとされる。
これには日本政府が公式に謝罪しているが…


●「バターン半島死の行進」での司令官・本間雅晴中将は、マニラ裁判で死刑になっている。でもこの行進はトラックがなかったからで、日本兵だって歩いていた。決して捕虜を殺すために歩かせたわけではない。
ここで重要なのは、フィリピン戦でマッカーサー軍は本間軍に破れており、マッカーサーは命からがらオーストラリアに逃げている。これは「復讐」である。
     《渡部昇一 「自ら国を潰すのか」》


●自分たちでさえろくに食べられないでいた日本軍に、いきなりその統制下に入った8万の捕虜に十分な食糧を与えられる余裕があるはずはないし、ましてこれだけの人数を運ぶトラックやガソリンも持っていなかった。食うや食わずでひたすら歩くのが日本軍の常であったため、これを虐待だとは思わなかった。
       《若槻泰雄 「日本の戦争責任」》


●敵の大将マッカーサーはさっさと逃げ出し、残った7万将兵も殆ど消耗なしで手を上げた。そんな大人数を運ぶトラックなんて持ち合わせがあるでなし。で、彼らを歩かせた。1泊2日で80キロの行程だ。西村知美だって日テレの「24時間100キロマラソン」を走っている。大の米兵がそうしんどがる距離ではないと思う。

●笹幸恵女史が「バターン死の行進」を歩いてみた。「風邪気味でも歩けた」と文芸春秋で書いている。
バターンでは休息もなかった、休めば日本兵が銃把で殴りつけた、彼らは疲労で倒れた捕虜を容赦なく殺した、という。日本軍はそんな振る舞いはしないし、だいたい80キロを徹夜で歩いたわけでもない。一泊している。そんなゆるい死の行進があるだろうか。

●そう呼べるのは、例えばチェロキー・インディアン1万5千人をジョージアからオクラホマまで2千キロを歩かせたケースくらいではなかろうか。冬をまたぐ半年の過酷な旅で、死者は8千人を数えた。米国ではこれを「Trail of Tears」(涙の旅路)と呼ぶ。 
       《高山正之 週刊新潮2008/7/3》


●『大東亞戦争 陸軍報道班手記-バタアンコレヒドール攻略戦』(→焚書)の中で、「バタアン半島總攻撃従軍記」と題する長い文章を書いているのは作家の火野葦平である。彼はその中で敵の食糧不足を指摘している。これはいったいどういうことなのか…

●日本軍はバターン半島を北の方から南に向かって攻めていく。大量の敵がバターン半島の尖端にあるコレヒドール島の方へ逃げていき、そこにたてこもったからである。アメリカ軍とフィリピン軍は雪隠詰めのような格好でコレヒドールに追い込まれてしまう。その数は両軍合わせて8万3千。そこに、なんと2万6千もの難民、民間のフィリピン人も逃げ込んだ。だからたちまち食糧問題が深刻になってしまったのである。

●米国の「オレンジ計画」(対日戦争計画=管理者注)では、もし日本と戦争になったら、フィリピンは必ず日本軍の攻撃を受けるに違いない。そのときは首都マニラを捨てて、バターン半島に立てこもって迎え撃つ、コレヒドールの要塞は難攻不落だ。それがこの計画の考え方だった。

●昭和16年12月8日、ハワイが日本軍の攻撃を受ける。そのニュースをマニラで耳にしたマッカーサーは、「どうせアメリカの大勝利に決まっている。ジャップはさんざんな目に遭っているはずだ」といって知らん顔をしていたという。副官がしきりに、フィリピンからB17の編隊を飛ばして台湾を攻撃するように具申するが、マッカーサーはそうしない。そのうち、台湾を飛び立った日本軍の大編隊がやってきて、米軍の飛行機はみな叩き潰され、飛行場も使いものにならなくなってしまった。

●マッカーサーは「オレンジ計画」通りに行動する、と宣言している。つまり、主力部隊をバターン半島に撤退させ、難攻不落のコレヒドールに立てこもる。当然、食糧が大きな問題になるはずだが、どうも米軍にはその用意がなかったようである。
…「死の行進」の前提になった飢えは、米軍の戦略の間違いにあるのではないのか。

●そうした流れの中で、日本軍は4月9日にバターン半島を完全攻略、米極東軍司令官ウェーンライト中将は無条件降伏を申し出てくる。マッカーサーは戦局不利と見た3月中旬、コレヒドールから魚雷艇を利用してミンダナオ島へ逃げてしまった。さらにそこから飛行機でオーストラリアへ逃走している。“I shall return”という有名な言葉を残しているが、ともかくも将軍が真っ先に逃げ出してしまったのである。フィリピンのケソン大統領も一緒に逃げている。

●そのあといわゆる「バターン死の行進」になる。半島の南端にあるマリベレスから後方のサンフェルナンドまでの112キロを米比軍の捕虜に歩かせたら、2千人以上の死者が出たという出来事である。

●しかし考えてみるに、前年12月のマニラ陥落から4月11日の降伏までの間に、長い期間がある。この間、米比軍は食糧不足にあえいでいたのだから、わずか100キロ余り行進させられただけで倒れてしまったのは、基本的にはコレヒドールの要塞に立てこもるという「オレンジ計画」にのっとった作戦の失敗、というべきではないだろうか。アメリカ軍が食糧不足で体力を失っていたのだから。

●また、飢えとマラリアで苦しんでいる傷病兵を歩かせたために2千3百余人の兵が死んだ、ということになっているが、その最大の原因は、日本軍・米比軍ともに死闘を演じて体力を消耗しきっていた直後のためだと思う。
   《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封(2)」》


    



●第14軍参謀長・和知鷹二中将は戦後次のように述懐している。
水筒一つの捕虜に比べ、護送役の日本兵は背嚢を背負い銃をかついで一緒に歩いた。できればトラックで輸送すべきであったろう。しかし次期作戦のコレヒドール島後略準備にもトラックは事欠く実情だったのである。決して彼らを虐待したのではない。もしこれを死の行進とするならば、同じく死の行進をした護送役の日本兵にその苦労の思い出話を聞くがいい》 (産経新聞 平成9年4月6日付)

●地元フィリピン人から聞かされた話によると、日本軍は「バターン死の行進」の終着点といわれるサンフェルナンドからカパスまで捕虜を汽車で護送しており、捕虜達を虐待するために故意に歩かせたのではなかったというのだ。
  《井上和彦
   「日本が戦ってくれて感謝しています」》


●「バターン死の行進」…米側は「日本軍は歩けない者を殴り殺した」「差し入れする原住民を射殺した」と罪状を述べるが、日本側の記録は違う。「炊き出しして捕虜に食わせた」「米兵が煙草をくれた」と、増田弘『マッカーサー』にある。
      《高山正之 週刊新潮2009/10/15》


●アメリカは、インディアンを強制移住させたときも、徒歩行進させて万単位の死者を出しているにもかかわらず、それは“トレイル・オブ・ティアーズ”だという。「涙の旅路」だと。

●第二次大戦で自分たちが日本軍に敗れてバターン半島を捕虜として歩かされたら、それは“デス・マーチ”だという。あちらは「涙の旅路」で、こちらは「死の行進」だとは、逆じゃないかと言いたい。インディアンを、女子供まで含めてジョージアからアリゾナまで雪の降る冬をまたいで、千何百キロ歩かせた。こっちはその何十分の一なのに。
  《高山正之 「日本はどれほどいい国か」》

 
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