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南京大虐殺の
数の信憑性

日本軍は民間人を30万人も
虐殺したとされているが、
果たして原爆も使わずに
そんな数の殺人が可能なのか。


●日本人が本当の市民を殺した信用できる数字はどこか…それは安全区にある。ここにしか市民がいないはずだから、ここで何人殺されたかを見ればいいわけである。

●これに対しては、反日で凝り固まった白人が現地にはたくさんいた。彼らが日本の公使館に文句を言っている。それらの数字を全部合わせても、占領後3ヵ月間で47人ぐらいである。とばっちりで殺された人もいると思うが、本当に確実に殺されたという証言は、東京裁判の証言でも1人なのだ。なぜこんな確実な数字が世の中に知られないのか。

《渡部昇一 「新しい歴史教科書を「つくる会」が問う日本のビジョン」》


●金陵大学教授ルイス・S・C・スミス…「南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時の人口は20万から25万であった」

●たとえ70万人いたとしても、70万人の内30万人も殺されるということは、家族・友人・知人等何らかの関係がある人が必ず殺されているということになる。こうした事態になれば、いくら日本が隠そうとしても隠しきれるものではない。
     《井沢元彦 「逆説のアジア史紀行」》
       (他著書「『誤解』の日本史」)


●中国人の学者が書いた資料を見ると、最初は犠牲者の数は300万だった。しかし、いくらなんでも300万じゃ多すぎるだろうということで、30万になったという。実際にそういう話が出てくる。

●実際には日本軍が3日前にビラを撒いて、戦争するから市民は避難しなさいと通達していたから、ずいぶん多くの人が日本軍が来る前に逃げていた。(当時の南京の人口は90万、うち逃げたのが70万、日本軍が入城した時の人口は20万だった)

《金文学 「逆検定中国歴史教科書 中国人に教えてあげたい本当の中国史」》
 


●南京事件のおりに、欧米の宣教師が現地に居て苦労した揚げ句、安全区をつくり、10万人の無辜の市民を守ったことを誇らしげに記した手紙が、エール大学の神学校に残されているといわれる。それが事実なら、大虐殺などなかったということになる。
         《松原仁 正論2007/3月号》


●南京の埋葬体は次の8種類がある。
①南京陥落前、中国軍と銃殺された暴徒の死体
②   〃  南京の駅に放置された大量の戦士兵
③戦闘中に戦士した兵士
④中国軍の督戦隊に撃たれて死んだ兵士
⑤野戦病院に運び込まれたが死んだ兵士
⑥城壁から城外に出ようとして転落死した兵士
⑦悒江門を通って城外に出ようとして圧死した兵士
⑧安全地帯で摘発された揚子江岸で処刑された兵士
…要するに、虐殺体すべてを日本軍による市民虐殺とはならない。
      《東中野修道 諸君!2002年4月号》


●南京の人口を検証するに当たっては、次の3点に留意する必要がある…

①1937年11月16日、蒋介石は南京放棄を決定、「3日以内に政府機関は撤退準備を完了せよ」と命じた。このため8月から脱出を始めていた富裕階級に続いて、政府関係者も南京から脱出し、残ったのは中国軍兵士と貧民だけであった。

②12月7日、中国軍は南京城外の半径16キロ以内の数百の村落・建物を焼き払った。(清野作戦)
近郊の住民は中国軍によって住居を焼き払われ、住む所がなくなった。

③12月8日、唐司令長官が城内の全ての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告、市民は身の安全を求めて「難民区」に殺到した。よって城内も安全区の外は無人地帯となった。
安全区委員会も12月17日の文書で「13日に貴軍(日本軍)が入場した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記している。

●では、安全区の人口はどのくらいだったのか…
安全区委員会委員長ジョン・ラーベは、南京戦が始まった12月10日付日記に「20万」と記している。その後、日本軍による市内制圧・占領と続くが、委員会の認識は12月17日付文書以降一貫して「20万人」であった。
こと人口に対する限り、委員会の認識は確かだった。何故なら難民たちの食糧問題に頭を悩ました委員会にとって、安全区の人口を正確に把握することはどうしても必要だったからだ。

●南京には中国軍兵士も存在した。その数について東京裁判の判決文には「中国軍はこの市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した」とある。
…以上から判断すると、戦闘開始時の南京城内の人口総数は、最大でも「25万人」ということになる。

●その後、南京の人口はどうなったか…
安全区委員会の文書には、1938年1月に入ってからの安全区の人口を「25万人」と記している。5万人増えた計算となる。この増加分は、城内に潜んでいた中国軍将兵とその家族、及び一般市民を兵民分離工作の際に「敵意なし」として登録した分であろう。

その後も人口は増えていく。2月上旬に安全区が解散された後、スマイス教授は多数の中国人を動員して人口調査を行い、3月下旬の南京の人口を「25万ないし27万」と推定している。同じく3月28日に発足した南京維新政府南京市政公署が登録した住民の数は「27万7千人」だった。

●大量殺害施設として名高いアウシュヴィッツでさえ、殺害数は一日平均710人であった。一日平均3万8千人も殺害するためには、アウシュヴィッツ並みの施設が53個所も必要となる。いったい誰があの密閉された城壁空間とその近郊でそんなものを見たのか。

《竹本忠雄 大原康男
「再審「南京大虐殺」―世界に訴える日本の冤罪」》
         (他著書「大和心の鏡像」)


15万7千以上の死体を埋葬したとあるが、これだけ厖大な死体を運搬し埋葬するには、途方もなく多数の人手を必要とするはずである。しかもそれは力仕事であるから、屈強な男でなければならない。中国人の男が「鬼の如く」殺された南京において、このような男たちはどこに残っていたのであろうか。
       《中村粲 「大東亜戦争への道 」》 


●「集団殺害19万人、個別殺害15万人」という数字は、確かに極東軍事裁判で調査資料として提出された数字である。だがその数字は、検察側の主張の一部として出てきただけで、弁護側からの反論により判決では退けられたものだ。

●検察側が立証材料として提出したこの数字は、当時の中華民国南京地方裁判所付属の検察官が、南京事件から8年後に作った報告書内の数字でしかない。つまり、法廷で34万人という数字が認定されたわけでは決してない。
    
 《井沢元彦 「逆説のアジア史紀行」》 


●今現在、南京議論では少なくとも日本側では無辜の市民を30万人以上殺したと主張する人はいなくなった。次の問題としては、捕虜の処刑をどう見るか。これはこれからの専門家の議論による。
        《北村稔 諸君!2002/1月号》


●「数の問題ではない」というが、それでは日本人が殺された「通州事件」・「通化事件」も同列に扱え。「数が違う」などと言うな。

      《小林よしのり 「『個と公』論」》


虐殺派は、ラーベが南京を離れた2月2日以降や、彼の目が届かなかったはずの近郊農村での虐殺があるはずと、枠の拡大をはかっている。 (笠原十九司らは)以前から南京戦以前へさかのぼるべしとの主張もあることだし、こうした主張を用いれば必要な数に達するまで期間と地域を拡張できるというものだ。
米南京領事館のアリソン書記官が「事態は目立って改善され、日本兵は優雅になった」と書いていたのが2月1日だから、期間を2月22日以降まで引き延ばす必要はないだろう。

●ラーベは南京陥落時の住民人口を、20~25万人(南京市内全部か難民区だけか明確でない)と繰り返している。これに対し笠原十九司著は、根拠なしに40~50万人と推測している。人口以上に虐殺するのは物理的に不可能だから、住民人口と守兵の数をカサ上げし、戦死者を切り下げている。笠原の計算によると、日本軍とほぼ同数の15万も死守を命じられた守兵がいて、戦死したのが1万人にもならず大多数が逃げるか投降したことになる。中国軍の名誉に関わるのではないか。

●中国側は笠原たち(虐殺派)に対して、「30万人虐殺は南京城内だけの数字である。地域や時期を勝手に広げてもらっては困る」と言っている。(南京大虐殺60年国際シンポジウムにて)
         《秦郁彦 「現代史の争点」》
  (他著書「慰安婦問題の決算 現代史の深淵」)






●数は多ければ悪い、少なければよいというものではないが、正確な事実が歴史とならねばならぬ。
        《尾川正二 「戦争虚構と真実」》


広島原爆の数字は、被害にあった家を一軒一軒、亡くなった方を一人一人積み上げ、それでも不明だった人が約1万人いたというものである。南京大虐殺と対比するとは、あきれてものが言えない。
      《櫻井よしこ 文芸春秋2005/8月号》


●「犠牲者が3千人であろうと30万人であろうと、虐殺であることには違いがない」と開き直るが、数千のレベルなら国際法違反の「便衣兵」を処刑したのが大多数で、あとは日本兵の個人的暴行殺人ということになるが、30万となると軍が命令して組織的に行った無差別殺戮、ホロコーストになる。
         《稲垣武 正論2006/3月号》


●最も実証的な資料として知られる旧陸軍士官学校OBの親睦団体である偕行社が発行した「南京戦史」によると、
 ◇通常の戦闘による中国軍の死者3万人
 ◇日本軍に処断された捕虜などの総数1万6千人
 ◇一般市民の死者1万5千余人…とされる。

●処断は、敗残兵に対する攻撃、市民の中に紛れ込んだ中国兵の掃討、捕虜暴動の鎮圧などを指している。一般市民の死者は、当時の南京市の社会学者スマイス博士の調査結果に基づいたものだ。
         《石川水穂 正論2007/3月号》


●05年のスマトラ沖大地震の犠牲者数は、死者・行方不明者合わせて30万人以上に達している。
報道の過程で私たちは遺体の映像をさんざん見てきた。

●率直に感じたのは、遺体というものはなかなか処理に困るものだということだ。実際に埋葬が間に合わず、うずたかく積まれたり、大きな穴を掘って投げ入れたりするという様子も流れていた。
20万、30万というのは何千キロにも及ぶ沿岸を持つ被災地全体のことであり、一つ一つの地域ではそのオーダーは二桁も違うだろう。それですら遺体の処理にはあれほどに困難を極めたのである。

●南京市の城壁は総延長34キロ。数キロ四方の街の中にスマトラ沖地震で生じた遺体全てを入れるとどうなるか。それこそ枡に遺体を盛ったような状態であり、それが事実であれば前代未聞の光景として、その様子はもっと世上に流布したことだろう。
      《勝谷誠彦 「ニュースバカ一代」》
    (他著書「この国を滅ぼすバカとアカ」)


●アイリス・チャンは「推定2~8万人が日本兵によって強姦された」と言っている。
あったのであれば、人口25万人の安全地帯の中での出来事ということになる。当時の日本兵の数は約5~6万人。その内の一部が城内に入り掃蕩をしていた。(2つの連隊程度)他の兵士は城外に露営していた。それでも個々の悪行は起こった。

●1938年2月9日「シカゴ・ディリーニューズ」…10名以上の日本軍将兵が、軍紀紊乱の廉で「重罰」に処せられた。

●国際委員会の公式記録「南京安全地帯の記録」…日本軍に通報された強姦7件、現場に死体のあった殺人3件。   
…こう見てくると、10件内外の悪行はあったのである。

《藤岡信勝 東中野修道 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究 中国における「情報戦」の手口と戦略」》


●日本側の史料・証言などで立証できる千人以上の集団殺害…

①第9師団歩兵第7連隊による、安全区掃討作戦において摘出した便衣兵6,670人の殺害

②第16師団歩兵第33連隊の、太平門・下関・獅子山付近で捕らえた捕虜3,096人の殺害

③第16師団歩兵第30旅団が、南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の殺害

④第114師団歩兵第66連隊第一大隊が、雨花門外で捕らえた捕虜1,657人の殺害

…これらから推定すると、殺害された捕虜・便衣兵の数は2万人近くになる。
         《原剛 諸君! 2003/7月号》

※あくまでもこれは合法的な、つまり中国側の不法戦闘員の処刑ということで、一般市民を虐殺したわけではない。日本兵だって中国軍に殺害されているのだ。(管理者)






【南京大虐殺】
死者数の信憑性/なぜ虐殺後に人口が増えているのか
虚言/プロパガンダにはめられた日本
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合法的な殺人/あったとすればこのパターン