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外国人の日本人評

日本人は戦争好きで非道な民族だ、
と中国・韓国人は言う。
では、その他の国の人はどう感じているのか。


●大正末期から昭和の初めにかけて、駐日フランス大使を務めたポール・クローデル(詩人)が、1943年秋、パリの夜会で述べた日本評…「彼らは貧しい。しかし高貴である」これは幕末から明治にかけて日本を訪れた欧米人は、こぞってこのような感想を抱いている。
         《八木秀次 正論2005/4月号》


●吉田松陰の渡航事件について、ペリーの「日本遠征記」には次のように書かれている。

「この二人(松蔭とその弟子・金子重輔)の事件は、われわれを非常に感激させた。教育のある日本人ふたりが生命をかえりみず、国の法律を破ってまでも、その知識を広くしようとするはげしい心を示したからである。日本人はまことに学問好きな研究心のつよい国民である。(中略)
この計画ほど日本人がいかにあたらしいことを好む心が強いかをあらわにしたものはない。日本人のこの心は、厳しい法律と監視(幕府の)のためにおさえられているが、日本の将来に実に想像のできない世界をひらくものではなかろうか」
       《司馬遼太郎 「竜馬がゆく」》


●「リップンチェンシン」(日本精神)…台湾語として定着している。勤勉、向上心、正直、仕事を大切にする、約束を守る、時間を守る、フェアであること等々、戦前の日本人が台湾に持ち込んだ諸々の徳目であり、それを良きものとして受容し、大切にしてきた台湾人の思いである。

●対する「中国式」とは何か。自分だけが得をすればいいという物事の考え方。お上を絶対に信じない、秩序を絶対に信じない、「上に政策あれば下に対策あり」という中国人の思考様式である。
日本精神が日々薄れ、代わって”中国式”に染まりつつある台湾社会である。
         《金美齢 正論2008/7月号》


●フランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスなどのヨーロッパの宣教師は、当時の日本社会の実情を記した手紙・報告書を故国に書き送った。その中で彼らは「日本人はヨーロッパの最先進国の人々ですら足元にも及ばぬほどの、高い文化とモラルを持っている」と絶賛している。

●さらに時代が下って、幕末の頃に日本を訪れた西洋の外交官や商人たち、オールコックやヒュースケンやアーネスト・サトウやシュリーマンなども、「日本は他にアジア諸国とはまったく異なる」と、その歴然たる差違をはっきりと認めている。

●シュリーマンは帰国後、日本見聞録を著した。彼は日本の前に立ち寄った中国と比較して、次のようなエピソードを紹介している。
彼が中国で最も不快に感じたのは、平気で嘘をつきお金をごまかす一般庶民の姿だった。乗り物に乗っても、最初に提示した料金とは全然違う高額の料金をあとでふっかけられたりして、閉口することがしばしばだった。

●その彼が日本で渡し舟に乗ったときのことである。あとで料金を支払う段になって、中国で味わった不快な先入観が頭をよぎった。どうせ法外な料金をふっかけられるに決まっているだろうから、それならば最初から高い金を渡しておこうと思い、規定の数倍の料金を渡した。すると船頭が不思議な顔をして、「これは規定の料金とは違いますよ」と言って、余分の金を突き返してきたのである。
    《福井雄三 「司馬遼太郎と東京裁判」》
(他著書「世界最強だった日本陸軍 スターリンを震え上がらせた軍隊」)


●フランシスコ・ザビエルは日本の民度の高さに驚き、「とても気品があって、驚くほど理性的、慎み深く、また才能があり、知識が旺盛で、道理に従い、その他さまざまな優れた素質を持つ」。

●また「大部分の人は読み書きができる」と、本国のスペイン人、あるいはインド人や中国人よりも程度が高いことに驚いている。

  《黄文雄 「世界が仰天する中国人の野蛮」》
  (他著書「なぜ中韓は反日を国是とするのか」)


●安政6年(1859年)に日本に来たイギリス公使サー・ラザフォード・オールコックの記述を読み、一体なぜ彼が、少々不思議と思える予言をしたのか、解きにくい謎のように感じた。

「物質文明について言えば、日本が、東方諸国民の第一位にあることは疑う余地がない。もし彼らに応用化学の知識において欠けるところがなく、機械工業が進歩するならば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるであろう。従って日本の統治者が政策として、交通および貿易を自由にし、日本をしてバーミンガム、シュツフェルド、マンチェスターなどと競争する自由を得せしむるならば、われらの蒸気機関や、すべての機械の驚くべき応用的知識は共に輸入せられて、彼らはたちまちのうちに、その手に成れる鉄器類をもってシュツフェルドと競い、その絹を以てリヨンと競争するに至ることは、疑う余地がない」

●彼が来た安政6年とは、日本がまだ開国したばかりで近代産業は皆無に等しく、しかも井伊大老の暗殺があって世情は騒然としており、到底、落ち着いて近代化に着手するような雰囲気ではなかったと思われる。

●日本人に非情に厳しい評価を下しているオールコックも、「日本の文明にはまた道徳的および知的分子なきにあらず。しかもその量はアジアの他の国々よりはるかに多し」としている。この「知的分子=知的好奇心の旺盛さ」は多くの人が指摘しているが、さらにオールコックは、法や社会的ルールを非常に重んじ、それが重荷となって自殺する者が多いこと、そして「国益的愛国心」が異常なほど強いことを指摘している。

    《山本七平 「『常識』の落とし穴」》
 (他著書「日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条」)


●フランシスコ・ザビエル(東洋文庫『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』より)…
◇「日本人はたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です」
◇「今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは異教徒のあいだでは見つけられないでしょう」

●エンゲルト・ケンペル(ドイツ人・1651年生まれ。シーボルトよりも130年前の3百年前に来日し、徳川綱吉の前でダンスや恋の歌を披露した博物学者。ロシアやアジア各地を歴訪した「バロック時代最大の旅行家」。欧州第一主義を排した筆致、精密で客観的な彼の主著「日本誌」や「廻国奇観」はゲーテやカント、ボルテールなど欧州最高の知性に影響を与えたとされる)…
◇「日本人は武を尚(とうと)び、とかく事を企て、興奮し易く、栄耀栄華を夢み、名誉欲が強く、極端から極端に走る傾向がある」
◇「手先が器用で頭の働きがよい点で、日本人は他の諸国民より優れている」
◇「世界中のいかなる国民でも、礼儀という点で日本人にまさるものはない

●1859年、宣教師として来日した米国人医師ジェームス・へボン…
「日本人は実に驚くべき国民です。西洋の知識と学問に対する好奇心は同じ状態にある他国民の到底及ぶところではありません」
            《産経新聞2009/9/23》
  (関連書籍「国会議員に読ませたい敗戦秘話」)


●どこがどう違うのか。ロサンゼルス・タイムズ東京特派員サム・ジェムスンが阪神大震災の現場で「ここが違う」と指摘した。通信は途絶し、警察機能も失われた混乱の中で「山口組が彼らのアジトの前で炊き出しをして被災民に配っていた」と。
     《高山正之 週刊新潮2010/12/31,1/7》


●10年近く日本代表を観てきたが、2月の4試合でのチームのパフォーマンスは、私が記憶している限り、最も醜いものだった。「世界で一番優しい日本人サポーターがブーイングを始めた。何かが、間違っているのだ」 私の同僚も最近のコラムでそう書いていた。(サッカーに代表について)
       《ガス・フィールディング
             Number2010/3/18》


●1858年に通商条約締結を求めてやってきたイギリスの使節のエルギン伯爵一行(横山俊夫「礼儀作法学校としての日本」、川勝平太編著『「鎖国」を開く』同文館出版 2000年所収による)…

「彼らの嬉しげな、それでいて丁寧で恭しさをたたえた表情や物腰。われわれが英国で莫大な富をつぎ込んでようやく身につけるような上品さや垢抜けた態度に、南の国の豊かさが重ねあわされている-私は、かつて心にいだいたあらゆる期待を完全に上回るなにかを、ついに発見したと感じた」

●彼らは、日本では群衆に穏やかな秩序があるということに驚いた。
「なんという群衆!彼らはわれわれの通行にあわせ、いっせいに走りつづける。だがその一面の頭の上なら歩くこともできようか」と同行の海軍大佐は書いている。強権にひしがれているような「不機嫌や怒りの表情は、ひとつも見当たら」ず、その秩序は自発的に見えたという。

●脇筋から本通りへと彼らがなだれ込まないように縄が張られており、まれにははみ出し者が役人から扇で頭を叩かれてもいた。しかし、縄ひと筋、扇一本で行儀よくしている群衆などあるだろうか。このような感想を洩らしている。

●当時のヨーロッパでは、礼儀正しさやマナーのよさは支配層がほぼ独占する資質であり、中国でも礼は士大夫のもので庶民には下らずということであった。それなのに日本では庶民が礼儀正しい…。これは彼らにとっては大きな驚きであった。

●現在でも日本人は、どんな大きな集会でも乱れることはない。満員電車に文句ひとついうことなく乗り、乗り降りの際にも大きな混乱はない。渋滞する交差点でも秩序正しく自動車が動く。日本の国民性はその意味では幕末の頃から何も変わっていない。

●1690年に長崎出島のオランダ商館の医師として訪れたドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルも「この帝国全体を一箇の礼儀作法学校と呼ぶも可ならん」と述べているという。(前掲 横山論文)

●日本人の「礼儀正しきこと」は、「世界のもっとも礼法整いたる国民に期待しうるものにもまさ」り、しかもそれが「いと賤しき田夫から、やんごとなき貴人、領主にいたるまで」見られると指摘している。
        《八木秀次 「日本の個性」》
         (他著書「国家再生の哲学」)


●ハリスの通訳として活躍したヒュースケンはこう記す。
「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」

●多くの欧米人がいろいろ観察をしているが、ほぼ全てに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。だからこそアメリカ人のモースは、「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったのだ。欧米では、裕福とは幸福を意味し、貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など絶望的な境遇を意味するのだが、この国では全くそうでないことに驚いたのである。

●イギリス人の詩人エドウィン・アーノルドなどは、明治22年に東京で開かれたある講演で、日本についてこうまで言っている。

「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。…その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い位置に置くものである」
       《藤原正彦 文芸春秋2010/7月号》


         



●5月9日の夜、ホーチミン市の日本総領事公邸で行われた日本商工会のレセプションに招かれた。ベトナムに進出している日本企業の支店長などが30人近く出席していた。

●一人の銀行マンが「問題点はいろいろあるのでしょうが、東日本大震災が起きて、意外かもしれませんが、ベトナムをはじめ諸外国の日本に対する評判はよいのですよ」と話した。

●すると、商社マンの一人も「家を失い、肉親を亡くし、プライバシーのないひどい避難生活を強いられながら、東北のどの避難所でも暴動や混乱は起っていない。テレビなどの取材にも、落ち着いて、やさしく受け答えしています。このことに、外国人の人々は強く感心し、感動さえしているのです」と強調した。

●もちろん、この夜集まったのは、多くの国を飛び回り、普段からさまざまな人々と接している人たちだ。彼らが会ったどの国の人でも、異口同音に「日本人は素晴らしい」「日本人は偉大だ」とたたえてくれ、日本の評価が高まっているのだという。

●建設会社の支社長はこう話した。「東京でも地震で交通網がまひし、多くの地域で停電も起きたのに、何の混乱も暴動も起きず、誰もが何時間もかけて歩いて家に帰りました。あるいは間引き運転中も駅できちんと列をなして待っていた。どれも上からの命令ではなく、自主的に行った。このような国は世界で他になく、すごい国だと褒められました」。そして出席者たちは「改めて誇りを感じた」と口をそろえた。

●外国に住むと愛国心が高まり、日本のよさ、魅力に気づくという。私を含めて日本人は、どうも日本を強くけなし、悲観的になることがレベルの高い人間だと思い誤っているところがある。
     《田原総一朗 週刊朝日2011/5/27》


●「世界最良の観光客」という調査で、日本人は2007年から3年連続でトップとなった。世界最大のオンライン旅行業者エクスペディアが世界の4千軒以上のホテルに聞いた結果という。
日本人は行儀のよさ、礼儀正しさ、部屋を清潔に使う、騒がない、などをはじめ総合で断トツの1位である。ずっと離れてイギリス、ドイツ、カナダなどが続く。最下位には中国、インド、フランス、イタリアなどが並ぶ。アメリカ人は行儀や礼儀は最低クラスだが、チップをはずむので総合では中位となっている。
       《藤原正彦 週刊新潮2012/6/7》


●アメリカ人でも中国人でもブラジル人でも、現代の日本に来て一様に驚くことが一つある。人気のない国道に自動販売機が置かれていることだ。

《井沢元彦 「逆説の日本史17(江戸成熟編)アイヌ民族と幕府崩壊の謎」》


●3年ほど前、有楽町の外国人記者クラブが出している「ナンバーワン・シンブン」に、こんな短い記事が載っていた。

●ある外国人記者が有楽町のいつもの店で食事をした。勘定をして出ようとしたところ、店員から1枚の紙を渡された。
「××さん、先日おいでになったとき、お釣りの十円玉がテーブルに置き忘れてありました」 

●そう書いて、十円玉がセロテープで紙に貼ってあった。外国人記者は、〈世界のどこにお釣りの十円が戻ってくる国があるだろうか〉と書いて、その短い記事を結んでいた。
           《週刊文春2012/10/11》 


●今季ガンバ大阪に加入した呉宰碩(オジェソク)も言う。
「来日前は日本には本音と建前があり、韓国人には冷たいという先入観があった。だけど、みんな親切で優しい。先日もスーパーで財布を落としたのですが、翌日には出てきて驚いた。しかも、クレジットカードや現金もそのまま。韓国では絶対にありえないことですよ」。 
           《Number2013/6/13》


●トーマス・グラバー…
「幕末に長州、薩摩、肥後、肥前、宇和島の各藩とは何十万、何百万両の取引をしたが、賄賂は一銭も使わなかった。これは、賄賂をふところに入れるような武士は一、二の例外を除いて一人もおらず、みな高潔かつ清廉であったためで、賄賂をしたくともできなかった。このことはぜひ特筆大書して後世に伝えていただきたい」
        《関厚夫 産経新聞2013/7/4》







●安政の大地震はM8.4だった。大津波で3万人が死んだ。しかし「日本人は落胆もせず、雄々しく仕事に取り掛かっていた」と『ペリル提督日本遠征記』にある。

●横浜の大火に遭ったエドワード・モースは「老いも若きもまるで祭礼でもあるかのように微笑すら湛えて復興に歩みだしていた」と、すべてを受け入れる日本人の姿を表している。
        《折節の記 正論2013/4月号》


●明治初期のことである。大森貝塚の発見で知られるアメリカ人の動物学者エドワード・モースが、瀬戸内海地方を旅したある日、広島の旅館に財布と懐中時計を預け、そこからしばらくの間、遠出をしようとした。

●そのとき旅館の女中が「お預かりします」と言ってしたことは、時計と財布をお盆に載せてモースの泊まった部屋の畳の上に置いただけであった。もちろん部屋はふすまで仕切られているにすぎず、鍵や閂などが掛けられてはいない。

●モースはとんでもないことだと思って宿の主人を呼んだが、主人は平然と「ここに置いておけば安全です」と答えた。自分の旅行中にこの部屋を使う客は何人もいるわけだし、女中たちも終始出入りする。モースが不安をぬぐえるわけもなかった。

●しかしモースは、ここで思い切って「日本社会の実験」をしてみようとのつもりになったようで、そのまま遠出したのである。一週間後、旅館に戻ったモースは部屋のふすまを開けて心から驚き感じ入ったのである。そのときのことをモースは次のように記している。
「帰ってみると、時計はいうにおよばず、小銭の1セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上に載っていた」

●モースによれば、当時の欧米のホテルでは盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だったそうである。モースはこの日記の文章に続けて「日本人は生得正直である」と書きとめている。(エドワード・モース「日本その日その日」平凡社より) 
     《呉善花 「虚言と虚飾の国・韓国」》



●スウェーデンの植物学者カール・ツュンベリは、1775年、出島にきて江戸出府に加わり日本人を観察、記録した。
「彼らは第一級民族。勤勉で賢明で礼儀正しく勇敢」と評価し「支那朝鮮では女は奴隷なのに、この国では女が男と同席し、表も自由に歩く」ことや「清潔好きで週に一度どころか毎日風呂に入る」ことに驚きの目を見張った。
        《折節の記 正論2013/7月号》


●私は外国人だったから、前から分かっていましたよ。日本がどれだけ素晴らしい国か、いままで散々言ってきました。日本のみなさんには「今頃分かったの?」と言いたいくらいです(笑)。戦争のことももちろんですが、「日本はいい国だ」と次の世代にも伝えていかなければなりません。
         《金美齢 WiLL2014/1月号》


●日本との絆が深いものになった背景には、別の理由もいくつかある。
まずは社会が安全なこと。家族は何の不安も抱かずに日常生活を送れたし、その結果、仕事に集中することができた。日本の人たちの労働意欲の高さや真面目さには、非常に感心させられたよ。誰もが一生懸命に努力することを厭わないだけでなく、地道な苦労を重ねていけば、いつか必ず目標を達成できるだろうとも信じている。しかも仕事の進め方は、きわめて合理的でモダンだった。

●またグランパスにかかわるすべての人たちは常に僕をリスペクトし、仕事を評価してくれた。だからこそ僕は、この国に長く留まりたいと願うようになったんだ。

●日本はモダンでありながら、伝統が息づいている貴重な国の一つだと思う。
僕は日本で暮らすことによって、ひとりの人間として成熟することができた。いかに影響を受けたかは、ヨーロッパに戻ると特に実感するよ。むこうの人間は、道を歩いていたり車を運転したりしていても、それほどルールを守ったりしない。でも気がつけば、僕はヨーロッパでも、日本人と同じように信号をきちんと守っていたりする。(笑)
       《ドラガン・ストイコビッチ
             Number2013/12/26》


●00年代に入って、日本の家電メーカーは韓国や台湾の勢いに苦戦を強いられているが、品質と信頼のジャパンブランドはまだ健在だ。
中小企業の海外進出を支援するコンサルタントの山本利彦氏は「『これは日本製か』『そうだ』というやりとりだけで、商談が成立したことがあります」と信頼性の高さを実感する。今年3月に開催された工業製品の展示会でも、人を集めたのは日本企業のブースだった。

●なぜ日本製品への信頼が厚いのか。山本氏のその問いに、ある展示会参加者はこう答えた。「日本人は、ウソをつかないからね、ウソをつかない日本人がつくるものには、間違いがない、と」 山本氏は、「英語ではインテグリティが高いというんです。誠実とでも訳せばいいでしょうか」と語る。
         《週刊ポスト 2014/5/30》


●スウェーデンの植物学者ツュンベリは、奴隷を酷使するオランダ人を日本人が心から侮辱していたと、驚きをもって記している。副島種臣は、ペルーの奴隷船を拿捕し、国際裁判も辞さなかった。

 《高山正之 「アメリカはどれほどひどい国か」》


●日本に行ったことがあるシンガポール人に聞くと、「ディズニーランドで行列中にベビーカーを置いておいても盗まれない。また、ホテルやレストランでのスタッフのサービス、気遣い、対応が素晴らしかった」とのことだった。
    《シンガポール在住日本人商社マン
           FLASH2014/7/29・8/5》


●ザヴィエルのように、自分の身を労してやるということに感動をうける思想的素地をもっているのはアジアでは日本だけだった。インドでは身分(カースト)の低い者と見られるだけのことであり、中国では身を労する者は君子でないという伝統があるため、むしろ軽蔑された。
    《司馬遼太郎 「街道をゆく(22)」》


●(日本に興味を持った理由は)日本を旅行中に道を聞いたとき、その日本人は自分の行き先を無視し、丁寧に途中まで案内してくれた。とにかく日本人はやさしい。自然も美しいし、文化もすごい。先進国なのに古い伝統も大事にしていて素晴らしい。だから生徒には日本人の精神も教えている。

《リトアニアの日本語教師ロベラさん 世界・秘境のニホン語学校(テレビ東京)2014/10/26》



[異邦人たちが見た150年前の日本とは…]

●日本の開国を進めた初代・駐日アメリカ公使 タウンゼント・ハリス…

◇「日本人の容姿と態度に甚だ満足した。日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀である」

◇「私は時として、この日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる」

◇「これまでに見たどの国よりも簡素さと正直さがある」

◇「柿崎は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりとして、態度も丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏に何時も附き物になっている不潔さというものが、少しも見られない」

●英国人女性旅行家 イザベラ・バード…
◇「日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、安全に旅行できる国はないと信じている」

◇「真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことをされなかった」

●日本アルプスを世界に知らしめた英国人登山家 ウォルター・ウェストン…
「教育のない日本の田舎人ほどの、真の意味の紳士を日本の内外で、私は見たことがない」

●ラフカディオ・ハーン…
◇「日本人の頬笑みは、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである。それはまた沈黙の言語でもある」

◇「もしどこかの国で暮らしていたとしても、人情の機微に触れる喜びを味わえただろうか」
「日本には美しい心がある。なぜ、西洋の真似をするか」

●アメリカの作家・地理学者 エリザ・R・シドモア…
◇「この国の群集は何千人集っても、爆弾を投げたり、パンや資産の配分で暴動を起こすことはありません」

●近大西洋医学を日本に伝えると同時に、ヨーロッパに日本文化を紹介することに大きく貢献したフィリップ・F・B・フォン・シーボルト…「日本の人々は、広々とした自然にひたって楽しむことを心から愛している」  
        《男の隠れ家 2014/12月号》


●私はかつて17年間も日本に住んでいましたが、日本の素晴らしさは、とても一言では言い表せません。自転車をなくしたら警察官が自宅まで届けてくれたし、羽田空港で携帯電話を落とした時も戻ってきました。そんな社会は世界中で日本以外にありません。

●日本にも、東日本大震災のような自然災害が、時として起こります。しかし大災害の中でも列を作って食料を求める人々に、世界は驚嘆しました。

《ドイツ高級紙「フランクフルター・アルゲマイネ」元東京特派員バーバラ・オードリッチ 週刊現代2014/8/9》



●データで見る「日本の評価」世界ランク1位

 □国家のイメージ(11年 米タイム誌調べ)
 □募金民間拠出額(12年 ユニセフ調べ)
 □もっとも親切な国
  (12年 NPO「シンガポール親切運動」調べ)
 □西太平洋地域へのポリオワクチンの供給
  (93~01年の累計 外務省調べ)
 □成長度、幸福度ランキング
  (10年 ニューズウィーク調べ)
 □外国から受けた援助額
  (11年度 東日本大震災で寄せられた
           義援金、物資の合計)
 □行ってみてよかった国
  (12年「トリップアドバイザー」調べ)
 □民度・道徳レベルランキング(国連調べ)

       《FLASH 2014/7/29・8/5》

【2019年1月11日更新】

   捕虜にも“おもてなし精神”

●日露戦争時の捕虜については「ロシア人捕虜」と言いがちですが、当時のロシア帝国の陸海軍はロシア人兵士だけではなく、ロシア軍兵士として徴兵されたポーランド人やウクライナ人、ユダヤ人、フィンランド人などが混ざった多国籍軍でした。

●日露戦争開戦時に捕虜収容所が全国29ヵ所に設けられましたが、最初にできたのが愛媛県松山市でした。

●捕虜といえば「奴隷のような扱い」をイメージしがちですが、日本は敵国ロシアからですら「人道的」「国際法順守の模範国」などと称賛されました。

●食費を例に挙げると、将校には毎日60銭以内、下士卒には30銭以内と定められていました。肉とパンといった食材や食習慣を考慮したようですが、自国の兵卒の食費が1日あたり16銭前後だったことからも破格の厚遇だったのです。

●収容所についても高い塀や網に囲まれた牢屋のような建物ではなく、松山では寺院や公共施設、民間の建物を借り上げて、捕虜を収容し病室としても使っていました。

●治療は松山病院内に開設された日本赤十字社会松山臨時救護所他、複数箇所で行なわれていましたが、看護師ら救護員は入浴できない重症者の身体を拭いてあげ、排泄物を処理し、夜の見回りでは冷えないように布団をかけ、病室の清掃や下着などの洗濯まで行なっていました。さらに勤務の合間にはロシア語の自習もしていました。

●また、温泉とマッサージによる治療は神経障害と機能障害に対して相当に効果があり、争うように入浴を希望し、病院側も可能な限りこの方法を採ったことも記録されています。

●病院には娯楽室や祈祷室が設けられたり、敷地内に庭園、テニスコート、ジム設備が設けられたり、コーヒーやチョコレート、パン、バター、カステラなどの販売が行なわれたりしました。

●一般国民も慰問に訪れ、日用品、飲食物、煙草、現金や遊戯具などが届けられました。収容所の1つ、公会堂では、捕虜がカナリアやジュウシマツなど小鳥を愛育していました。

●松山では県から「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って侮辱を与えるような行為は厳に慎め」と何度も訓告を発したとされます。そのため軍人はもとより警察官や役人、民間人にまで「人道的な対応」が浸透していたようです。

●1904年9月には、伊予鉄道の井上要社長はじめ有志たちの発案で、松山での捕虜を汽車の1等席に乗せて郡中(現伊予市)の彩浜館へ招待しています。

●別の捕虜たちは、高浜で開催された松山中学のボートレースに参加したり、道後公園での第一尋常小学校の運動会を見学したり、日露対抗自転車競争に参加したりしました。

●捕虜の中には看護師を慕い、収容所の移転を嫌がる者、帰国したくないから戦争が当分続くことを願っている者、1905年9月5日にポーツマス条約が締結され捕虜の引き渡しが始まったのですが、日本帰化を望む者が少なからずいたことも記されています。

●1906年の赤十字国際会議の席上、各国の委員は日本の傷病者救護について「日本はジュネーブ条約を厳守したのみならず、この条約が完全に実戦で適用されることを証明した」と絶賛し、敵国ロシアからも捕虜の厚遇について謝意が表せられました。

●真面目な日本人らしく、上からの通達もあり国際法を順守したのかもしれませんが、それだけではなく、日本人らしい思いやりと “おもてなし精神” が無邪気に発揮されたのではないでしょうか。

●民間人にとって“敵人”との感覚は希薄だったのでしょう。将校ら負傷者たちは帰国前、看護師や救護員、日赤社長に宛てた感謝状を贈っています。

  《河添恵子 「世界はこれほど日本が好き」》

その後…

●1993年から1997年まで在ポーランド日本国大使館の大使を務めた兵藤長雄元大使の著作『善意の架け橋』に記された、関連するエピソードをご紹介しましょう。

●兵藤氏が外務省に入省後の1961年、英国の陸軍学校へ入学した頃の話です。初めて踏む異国の地で緊張の毎日を送る中、父親のように親切にしてくれる1人の老人がいました。

●陸軍学校のロシア語担任の先生で自称グラドコフキ。ポーランド陸軍の将校でしたが、第二次大戦後、ロンドンに亡命し、同職に就いていました。

●グラドコフキ先生は兵藤氏を自宅に何度も招き、奥さんの手料理をご馳走してくれ、「分からなかったらいつでも来なさい」と声をかけてくれたそうです。

●「なぜ、こんなにまで私に親切なのでしょうか?」ある時、兵藤氏が思い切って尋ねてみたところ、先生の父親は日露戦争に召集されて参戦し、捕虜となって日本(おそらく松山)へ送られたとのことでした。

●周囲の日本人から痒い所に手が届くほど親切にされ、深い感銘を受けた父親は、温かい心と数々の善意が生涯忘れられず、息子(=グラドコフキ先生)に捕虜時代の想い出話をして、「お前も父親のために、日本人に出会ったらできるだけ親切にして恩返しをしてほしい」が口癖だったそうです。

●そして兵藤氏に、「父親が受けた日本人からの親切を、貴君を通じてお返しできることは嬉しい」と語ったのでした。《河添恵子 〃 》



 
【日本人とは】
外国人の日本人評/昔から変わらぬ美点
日本人の平和観/好戦的とは正反対の民族性
日本人の騙されやすさ/全てのプロパガンダはここから始まる