日本人の平和観中国や韓国が罵るように、
昔から日本人は「好戦的で野蛮」な民族なのか。 |
●日本人には日本人の反撃特性というものがある。ガマンしてガマンして、そして最後に爆発する。 《三枝誠 新潮45 2005/7月号》 ●中国は歴史上、幾度も異民族に侵入され、長期にわたって独裁支配や戦乱、飢餓にも苦しめられた。 それに比べて日本は、自然にしても民族にしても言葉にしても、比較的大きな同質性を持つ。外来の侵入が殆どなく戦乱が少ないため、生活は安定している。争わなくても、強く自己主張をしなくても、比較的平和な生活が送れてきたことが、日本人のメンタリティを構築している。 《尚会鵬 徐晨陽 「中国人は恐ろしいか!?」》 (他著書「これでわかる中国人の常識・非常識 巨大な隣人とのつきあい方」) ●「縄文1万年の平和」… 考古学的にも縄文時代には戦争がなかったことが立証されている。温暖な気候に恵まれ、摂取カロリーはカリフォルニアの古代インディアンを上回る豊かな食生活を維持し、異なった文化を持つ多くの種族が、平和裡に統一を達成した。 ●「徳川300年の泰平」… 近世国家が300年近くにわたって戦争を1度もしなかったという例は、外国には見当たらない。 ●さらに驚くべきは、日本は平安前期に国家の常備軍を解体し、以後明治の建軍に至るまで常備軍を持たなかった。(武士は私兵であり国軍ではない) …日本人ほど戦争を嫌い平和を愛する民族は、世界的に見ても例がない。 《佐治芳彦 「新戦争論『太平洋戦争』の真実」》 ●明治以降の近代戦争において、日本は好んで先手をかけた戦争は一度もない。 ●日本には古事記・日本書紀が顕らかにしているように、政治は民心を安らかにし、乱を嫌い、また17条憲法にいう「和を以て貴し」の精神で、みんなの合議を第一とし、というふうに、フランス革命をはるかにしのぐ昔から、フランス革命のように虐殺の山を築いたり、あるいは伝統文化までギロチンにかけるようなことをしなくても、深く静かに民権・人権主義・民主主義というものがあった。 《谷沢永一 渡部昇一 日本に『戦争責任』なし」》 (他著書「封印の近現代史」) ●ユダヤ人は「ゴールデン・ブック」(黄金の本)というものを持っている。これは、ユダヤ民族が暗い試練にさらされた時に、ユダヤ人を救ってくれた人たちの名簿である。その本の中に、ナチスに追われてヨーロッパから逃れた大量のユダヤ人難民を満州で保護した、樋口季一郎中将と安江仙弘大佐の2人の日本人の名前が記されている。 ●ソ連がシベリアの彼ら難民をナチスに引き渡すなら、それは死を意味する。あるいはソ連は彼らをシベリアで強制労働にあたらせたかもしれない。当時、満州において最大の権限を持っていたのは東條英機参謀長であった。ドイツ外務省は日本政府に対して強硬な抗議を行った。そのとき東條は、「これは当然の人道上の配慮によって行ったものだ」と言って、その抗議を一蹴している。 ●戦争中、日本が支配した地域、すなわちフィリピンにしても、満州・中国・内地にしても、それらは世界の中でユダヤ人が最も安全に生きられる地域だったのである。世界の中で誰もユダヤ人を助けようとしなかった時代に、日本はユダヤ人を助けてくれた。 ●ヒトラーと握手して三国同盟を結んだ松岡外相も、日本に帰国したとき「私はヒトラーと握手して、友人になることを約束した。しかし反ユダヤ主義に関わることだけは、固くお断りしてきたのです」と公の場で言った。 《ラビ・マーヴィン・トケイヤー 「日本とユダヤ/魂の隠された絆」》 (他著書「ユダヤ5000年の教え」) ●明治維新はフランス大革命より、実は徹底した改革をやっている。その上、犠牲者の数が驚くほど少ない。最小限の血しか流れなかった。討幕の内乱を通じて、戦死者は1万人に足りない。血を流したのは直接戦闘に参加した軍隊に限られた。しかも戦闘が終結すると、その瞬間からたちまち秩序が回復する。そして揺り戻し、反動がない。 《長谷川慶太郎 「歴史頭脳を持っているか」》 (他著書「日本の難題」)
●明治維新になって王政復古して、そこに8千人のご親兵を持ってくると、みんな藩を返上してしまった。せめて1年でも反抗してみるか、という大名がひとりもいなかった。日本人は大きな変化、要するに流血を好まない。革命を好まない国民なのだ。
《坂野潤治 「大日本帝国の民主主義―嘘ばかり教えられてきた!」》(他著書「昭和史の決定的瞬間」) ●日清・日露の両役で、日本軍が国際法学者を法律顧問として従軍させてまで交戦法規を厳守した徹底ぶりには、全世界が賞賛を惜しまなかった。 《佐藤和男 「世界がさばく東京裁判 85人の外国人識者が語る連合国批判」》 上杉千年氏 「猶太難民と八紘一宇」による 真実の歴史 ●1940年、ナチスの迫害から逃げてきたユダヤ難民6千人以上の命を救うビザを発給した外交官・杉原千畝。しかし未だに「杉原は日本政府の方針に反してビザを発給した」というデマが流通している。 ●ビザ発給には杉原個人の機転や勇気が必要だったことは確かだが、それを支えたのは同盟国ドイツからの圧力をはねつけ、「民族差別をしないという八紘一宇の主張」を守り抜いた「日本政府の方針」だったのである。 ●現に、ユダヤ難民を救った日本人は杉原だけではない。1938年3月、ナチスから逃れてシベリアを横断したもののソ連・満州国境のオトポール駅で立ち往生、凍死の危険にさらされていたユダヤ難民たちを救ったのは、関東軍の樋口季一郎少将(のち中将)だった。樋口はユダヤ難民輸送列車の手配を満鉄総裁に依頼。総裁はユダヤ難民を無賃輸送するよう指示、その後も無賃輸送は続けられたという。 →その満鉄総裁とは誰あろう、松岡洋右である。 ●一方これに対しドイツから抗議が来て、樋口は関東軍参謀長の事情聴取を受けた。だが参謀長は樋口の意見に同意してナチスの抗議をはねつけ、その後も同じルートでユダヤ難民は続々避難してきた。 その参謀長とは誰あろう、東條英機なのである! ●同年12月、首相・外相・蔵相・陸相・海相の五大臣による重要国策会議である五相会議で、「猶太人対策要綱」が策定され、ユダヤ人を排斥しないことが正式に日本の国策となった。 ●満州を通過したユダヤ難民たちは上海に向かった。当時入国ビザなしで入れたのは、上海の共同租界で日本海軍警備地区の「虹口(ホンキュー)」だけで、そこは最大3万人のユダヤ人であふれかえった。海軍のユダヤ専門家・犬塚惟重大佐はユダヤ人保護に奔走した。 ●ナチスは日本政府の寛大なユダヤ対策に不快感を募らせた。1942年、犬塚大佐が上海から転出した後、ナチス親衛隊長官ヒムラーは、ワルシャワで10万人のユダヤ人を虐殺したマイジンガー大佐を上海に派遣、ユダヤ難民の「処理」を迫り3つの案を提示した。 ①廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流して撃沈する。 ②岩塩鉱で強制労働させて死なせる。 ③収容所を建設し、生体実験の材料にする。 この提案を上海の領事や軍人は拒否した。そのためユダヤ人たちは終戦まで上海に滞在できた。 ●1940年12月、松岡外相は在日ユダヤ人代表と会談し、こう言っている…「三国同盟は私が結んだ。しかし、だからと言ってヒトラーごときの口車に乗ってユダヤ人を排斥することはしない。これは私だけの信念ではない。帝国の方針であるから、安心しなさい」 ●大戦中、アメリカもヨーロッパもユダヤ人には冷淡だった。露骨に見殺しにした例もあった。ユダヤ難民を乗せアメリカを目前にした客船セントルイス号は、寄港を拒否され送り返された。ユダヤ人大虐殺が報じられるようになった後でさえ、積極的に難民保護の政策は採られなかった。 そんな中で、ドイツの同盟国だった日本だけがユダヤ人保護を国策としてドイツの圧力に抗した。 《小林よしのり SAPIO2006/10/25》 ●実は世界で初めて戦艦と空母の全廃を提唱したのは日本であった… 軍縮の歴史は久しいが、攻撃的兵器の全廃と防御的兵器の整備によって相互に他国を脅威しない軍縮を主張したのは、第二次ロンドン軍縮会議における我が国のみである。米英その他諸国に差等比率を以てする軍縮提案はあったが、攻撃兵器たる主力艦(戦艦)と空母の全廃において不侵略不脅威の国際軍縮秩序の創出を提唱したのは、古今東西を通じて独り我が日本のみである。 ●のみならず、各国軍艦の総トン数に共通最高限度を設けて制限しようとする実に思い切った軍縮案であった。これこそ各国一律に軍縮制限と専守防衛体制を課するという正に画期的な軍縮提案であったが、これが米英等の諸国によって拒否されたため、我が国は軍縮会議を脱退したのである。今に至るもこれ以上の世界平和を目指す提言は何処の国からもなされてはいない。 ●もし右軍縮案が採択されていたならば、戦艦武蔵も大和も建造されていなかったであろうし、赤城をはじめとする空母群も太平洋に姿を現すことはなかったに違いない。勿論、ハワイの米戦艦アリゾナも、ミッドウェーの空母エンタープライズも、マレー沖の英戦艦プリンス・オブ・ウェールズやレパルスも存在しなかったであろう。そもそもあのような形での日米関係もあり得なかったのではないか。 《中村粲 正論2009/4月号》 ●利長は賤ヶ岳合戦以来、亡父利家に従って数多くの戦場を踏み、その武勇は世間にも知られているが、しかし平時、人を殺したことがなく、殺そうとおもったことすらなく、また人に命じて殺したこともない。 ●利長がとくべつそういう性質というわけでもなく、戦国のころも、この時代の大名も、むやみに人を殺すような習癖は、ふつう持ちあわせていない。殺せば人の怨霊がのこるという、遠いむかしから相続してきているこの国の恐怖信仰は、戦国乱世をへてきた利長にも濃厚にのこっている。 《司馬遼太郎 「城塞(上巻)」》 ●終戦5ヵ月後の1946年1月、佐渡島の外海府にある旧高千村の海岸に、「ダコタ」と呼ばれたダグラスDC-3の英国軍機が不時着した。8人を乗せて上海から東京に向かう途中だった。 ●突然の訪問者に小さな村は大騒ぎとなった。村民にも戦死者がおり、敵国感情が残っていたが、「困ったときは敵も味方もない」と厚くもてなした。当時、長さ500mの滑走路づくりは困難を極めた。村民総出で海岸に石を敷き、40日かけて完成させた。 ●無事に飛び立った飛行機は別れを惜しむように村の上空を何度も旋回したという。一昨年6月、搭乗していた整備士の遺族が佐渡を訪れ、この話が広く知られるようになった。 《朝日新聞2012/1/10》 ●世界は… ◇西欧の歴史におけるキリスト教の異端弾圧の残忍さ、カトリックとプロテスタントのすさまじい殺し合い、キリスト教徒でない他民族の大虐殺。 ◇理念のための革命であったフランス革命では、対外戦争の戦死者を除き、フランス人に殺されたフランス人だけで60万人にのぼった。 ◇共産主義の理念を守るためにスターリンは2千万人の自国民を殺した。 …絶対理念をもつ集団は、それをもたない集団に対して圧倒的に強い。近代における西欧の世界征服の成功の理由の一つはここにある。 ●他方、たとえばフランス革命に相当する、あるいはそれ以上の変革が行われた明治維新での日本人の死者は数千人(最も多いのが会津藩で、3千人ぐらい)。 関ヶ原をはじめ、日本の戦国時代の合戦は西欧の戦争に比べたらままごとみたいである。 ●キリスト教が入ってくると、ゲルマンの神々、北欧の神々、ケルトの神々などはすべて追放された(一神教だから)が、仏教を入れても神道は残すという寛容さもこの文化の長所である。 《岸田秀 「幻想に生きる親子たち」》 (他著書「歴史を精神分析する」) |
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