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アジアで歓迎された
日本軍

東南アジアを占領した日本軍は、
とんでもなく残虐な軍隊だったといわれているが…。



日本が東南アジアの占領地域を帝国の一部であると主張したことなど、一度もない。(日本の占領は、戦争中の一定期間の「防衛」手段、予防占領であったにすぎない)
  《ヘレン・ミアーズ 「アメリカの鏡・日本」》


●日本陸軍の「軍政要領」に、占領と軍政は暫定的であると書いてあった。
1941年11月20日大本営政府連絡会議決定の『南方占領地行政実施要領』には「占領地ニ対シテハ差シ当タリ軍政ヲ実施シ…」とある。日本国及び占領地の行政及び日本軍は、なかなか冷静かつ理性的で、国際的にも恥ずかしくない手続きを踏んで戦争を進めていた。

ところが戦後は、ひたすら日本は領土欲に燃えて侵略のための侵略をしたことになっているが、アジア各国を独立させることは日本の考えの中に初めからあったのだ。

●日本軍は…(1943年ビルマ独立までの例)
①まず軍政を敷くにあたって、「この戦争が続いている間の暫定的措置だ」と明言している。
②それから「とにかく戦争に勝たなくてはいけないのだから、それまでは軍司令官の言うことを聞いてくれ」と書いてある。
③さらに独立に際しては「軍政を廃止し軍隊の保有を認め、今日からは自分でやりなさい」としている。

         《日下公人 「一問に百答」》
       (他著書「日本はどれほどいい国か」)


太平洋戦争では現地人は日本軍に協力して、バンサイ・バンザイと迎えた。
      《小林よしのり 「『個と公』論」》


●「インドシナに進駐していた日本軍が戦争の終わりごろ、現地の農民にコメの栽培をやめさせて、軍需品を作るのに必要な麻を強制的に栽培させたために、ちょうど不作とぶつかって大飢饉を起こし、ベトナム人約2百万人が餓死した」という説があるが…

●私自身は南ベトナムでの3年余りの滞在中、ただの一度も聞いたことはなかった。だが北ベトナムの共産政権の人たちは元来そういう説を主張してきた、というのだ。仏印に進駐した日本軍は、多いときでも10万人程度。この規模からだけでも、2百万人の現地の人を殺すような行動がとれたかどうか。証拠もない。

●ベトナム政府はつい最近まで、日本に対してODA支援の増額を求めるときは、よくこの2百万人餓死説をそれとなく出してくるパターンがあった。だが日本側で一部の学者やジャーナリストが、ベトナム側に正面から根拠を求めるようになると、ベトナム側もいつのまにかそういう説を殆ど口にしなくなった。

《古森義久
国の壊れる音を聴け 国際報道と日本のゆがみ」》



日本はアメリカやイギリスと戦争したのであって、フィリピンやシンガポールは植民地だった。別にフィリピンを侵略したのではなく、アメリカの領土だったから行っただけだ。
       《福田和也 「人でなし稼業」》
       (他著書「俺の大東亜代理戦争」)


●日本兵と南方民との交流…

◇スマトラ高原では、次の任地へ向かう日本軍に、蘭印の子供たちが日の丸を持って見送った。

◇行軍の途中、現地の女性たちが水を差し入れてくれる。熱帯の炎暑に焼かれた兵士たちにとって、これほどうまいものはない。

◇現地の人たちが、4月29日の天長節にお祝いの舞踏を披露してくれた。
            《「大日本帝國軍隊」》


●昭和19年にこの小さな島についたけど、米軍がくるまでは楽しかったよ。なるべく上からでも民間人に見えるように頭の毛をのばしてね。島の連中とはうまくいっていたしね。民間人には手をだしたりしなかった。そういうことは良かったと思う。[フィリピン 斎藤博之]

●太平洋戦争終戦の時、戦場捕虜で銃を没収され、マラリアの病後の僕は、たくさんの銃をつんだカヌーに乗せられニューギニアのセピック川を下ることになった。しばらくの間だが寝起きを共にした土人との別れは、それぞれの将来が不安なだけに悲しい別れだった。(中略)すべり出すとすぐ横にある木が倒れ、あおりでカヌーがひっくり返った。倒れた木にしがみついていると、岸辺にいた土人がまたも助けてくれた。感激して身につけていた皮のバンドをあげたものだ。[中田安正 東京都在住]

●ニューギニア島。昭和19年頃の話。ニューギニアの山の中の部落では、言葉が通じない。そういう所では歌を通して心のふれあいをした。あちらはカナカシンシンをして見せてくれ、僕達も手拭いでほおかむりして、夕やけこやけとかはとぽっぽとかをやった。一番喜ばれたのは東京音頭で、彼らも身ぶり手ぶりかたことで一緒に踊った。[同上]
     《松谷みよ子 「現代民話考〈2〉」》
       (他著書「ミサコの被爆ピアノ」)


●戦争の後半においては日本が占領地域の民衆に与えた印象は、革新的な新秩序の建設者というよりも、むしろ保護者・「平定者」だった。連合軍の進撃に伴って、当然のことながらスローガンはますます絶望的な調子を帯びてきた。「生きるも死ぬも日本とともに」「一丸となって敵にあたれ」「『解放』にまどわされるな」「旧世界のあらゆる伝統を破壊して新しい世界-ユダヤ的アングロサクソンの世界-を作ろうとしている敵の企てに抵抗せよ」など。

日本軍は自分たちが表明した「新秩序」や共栄という目的が、偽りのないものであることを示す確固とした証拠として、東南アジアにさまざまな組織を作った。

マレーでのインド軍兵士の捕虜約2万人が、モハン・シン大尉の率いるインド国民軍に参加した。(当時ボーズはまだドイツにいた)

ビルマでは、戦争前日本で訓練を受けたアウン・サンとその同志が、1942年8月ビルマ独立軍(約20万人)にかわって7大隊を有するビルマ防衛軍を組織し、日本軍のいっそう緊密な統制下におかれることになった。

東インドにおいても、「自由インドネシア学校」や「過去の習慣と政治組織研究会」など多くの機関が民族主義意識の育成にあたり、その一方で特に「プートラ」運動のような大組織が占領下の中国における新民会のように、汎アジア-アングロサクソン反対闘争を支援するための世論動員にあたった。

フィリピンにおいても、1942年末全ての政党にかわって「カリパビ」運動が結成され、「大東亜共栄圏建設に奉仕し」フィリピンの日本軍を支援することになった。さらにフィリピン警察隊が組織され、治安維持活動を強化し、ゲリラ活動(特に「フクバラハップ」※)の脅威に抵抗することになったが、1944年11月にマッカーサー軍が上陸してきたときには、現地住民からなる軍事的性格のいっそう濃い組織が急遽編成された。

インドシナの場合は、引き続きフランス政府の統治下におかれていたために、いくらか違った情況にあった。しかしそこでも南ベトナムのカオダイ派やホアハオ派の指導者たちは、時には日本軍と協力し他の政治グループに対する自分たちの立場を強化しようとした。

◇日本の植民地であるミクロネシアの島々では、「現地住民の好意と忠誠心」のおかげで、戦争勃発にあたって数多くの義勇隊が組織された。
※「フクバラハップ」団=抗日人民軍。1942年3月に結成され中部ルソンで活動した。(1944年には1万2千人に増大)ある推定によれば、日本人約5千人・フィリピン人の対日協力者1万5千人以上を殺害したといわれる。フィリピン共産党(1942年初めに結成された抗日統一戦線の主勢力)はこの団の中で重要な役割を演じたが、それを支配していたようには思われない。本質的にはこの運動は、地主に対する強力な農民運動から発達したもの。

●しかし数ヶ月もたたないうちに、東南アジアの住民と特別に日本軍に協力した人々の双方の側から、日本軍に対する当初の親善の気持ちにかわって、恐怖・嫌悪・敵意が生まれてきた。

◇モハン・シンやギルも、彼らとの連絡にあたっていた藤原少佐が交替したあとは、今度の新しい日本人はインド独立運動を専ら自分たちの目的に利用することしか頭にないのだと思うようになってきた。

◇バー・モーによれば、日本人と現地住民との間の人種的な「対極性は徹底したものだった」

◇シャフリルによれば、インドネシア人は「苛酷な経験を通して日本の秘密警察に対する憎悪・恐怖をいだき」はじめた。

◇ミクロネシアにおいても、「住民の感情に鈍感で、島民を軍事施設建設のための労働力としか考えない日本の陸海軍軍人が大挙進出してくるのとともない、当初の行為はすぐに消え去ってしまった」

日本人も正面からアジアのために戦ったのだ。労働くらいの協力で文句を言われる筋合いはない。 
     《クリストファー・ソーン
       「太平洋戦争とは何だったのか



     



●マレー半島は長期間イギリスの植民地であり、マレー人の中には何とかして独立したいという強い思いがあった。そのイギリス軍と戦う日本軍の勇敢な姿にマレー人は強く心を動かされ、日本軍を歓迎し積極的に兵士に食料を提供したり、荷物を運んだり、ジャングルの道案内をしたりという具合に協力してくれた。

●その結果、マレー半島の戦いはわずか70日間で終結し、後のマレー独立に大きな影響を与えた…このように大東亜戦争は、日本だけが戦ったのではない。アジアの国々も独立を勝ち取るために戦ったのだ。

    《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史」》
(他著書「通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか」)


●第二次大戦中、プノンペンからビルマへ向けてカンボジアの村々を歩いていたら、みんな微笑みを浮かべ、にこやかに親切に応対してくれる。純農業国だから、戦争の最中でも食べ物はある。桃源郷とはこういう国のことかと思ったことがある。
     《会田雄次 「だから歴史は面白い」》
       (他著書「決断の条件」)


●インドネシアには「ジョヨボヨ王の予言」という伝承がある。12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が宮廷詩人に命じて書き残したもので、インドネシアを苦しめる“白い人びと”を、北からやってきた“黄色い人びと”が追い出してくれるという「予言」だ。

「我が王国は、どこからか現れる白い人びとに何百年も支配されるだろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。しかしやがて、北の方から黄色い人びとが攻めてきて、白い人びとを追い出してくれる。黄色い人びとは我が王国を支配するが、それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく…」

●この「予言」はオランダ植民地時代に民衆の間に広まり、深く信じられるようになった。17世紀初頭から続く“白い人びと”の支配に苦しめられていた民衆は、解放者の出現を待ち望んでいたのだ。一部で独立を求める運動も起きたが、オランダはこれを厳しく弾圧、インドネシア人の集会を禁止し、道ばたで3人以上が話しただけで処罰するほどだった。

●このオランダの支配を打ち破ったのが、北からやってきた“黄色い人びと”、すなわち日本軍だった。
1942年3月1日、ジャワ島に上陸した今村均中将率いる第16軍は、僅か9日間でオランダ軍を制圧、“白い人びと”を追い出してくれたのである。インドネシア民衆は「ジョヨボヨ王の予言が実現した」と歓喜し、各地でメラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)を振って日本軍を迎え入れた。

●その後、仁将として名高い今村中将による軍政統治が行われるが、それは、“白い人びと”の支配とは明らかに異なっていた。
日本軍はまず、流刑されていたスカルノやハッタら独立運動の指導者を解放し、迫害されていたイスラム教の存在を認めて宗教活動を自由とした。オランダによる愚民政策を廃し、民衆の教育制度を充実し、農業指導や軍事指導にも努めた。それまで公用語として強制されていたオランダ語と英語を廃し、多くの言語に分かれていたインドネシアに共通語を定めて、民衆の意思統一を図ることにも力を入れた。
 
…これから「侵略」していこうとする軍が、このように独立を促すようなことをするだろうか?(管理者)


●そして1945年8月15日、三年半にわたる“黄色い人びと”の支配は終わった。800年前にジョヨボヨ王が予言した通り、トウモロコシが育つまでと同じくらいの短い期間だった。
       《諸橋茂一 正論2013/9月号》



「ベトナムに進駐した日本軍の将兵はみな規律正しく、地元民に悪いことはせず、むしろ親切でした」という言葉をベトナム人の高齢女性から聞いたときのその衝撃はなお忘れられない。初めて海外特派員として赴任した南ベトナムの戦場での経験だった。それまで日本で「日本軍将兵は東南アジアで残虐の限りを尽くした」という教えをさんざんに受けていたからだった。
       《古森義久 正論2010/3月号》



●インパール作戦の前哨戦となるマレー半島の戦いでも日本軍は現地の人々に大いに歓迎された。日本軍将兵はマレー人のあまりの歓迎ぶりに躊躇するほどだったという。

《ある者はバナナの葉につつんだナシ・ゴレン(マレイ風焼飯)とココナツ・ヤシの果水を差し出し、ある者は南方のさまざまな果物を大きな籠に盛ってささげ、若者たちは先を争うようにして日本軍の弾薬箱を担ぎ運び、泥道で走行不能となったトラックを押し、ジャングルの獣道をたどる近道を先頭になって案内をひきうけた。日本軍将兵はとまどい驚いたが、やがてマレイ人の歓迎と協力の真摯な態度を知り、戦塵で荒んでいた気分をなごませ、感動し感激した》(『神本利男とマレーのハリマオ』) 
      《井上和彦 Voice2014/4月号》



●GHQによって焚書になった「星港攻略記」(筑紫二郎著 有恒社 昭和17年5月刊行)の中の、いよいよシンガポール攻略という直前の話を読んでみる。(星港=シンガポール)

「私達にはいつも味方があつた。それは住民である。ジョホール・バールからやつて來た避難民の住民たちが我先にと集つて來て手傳つてくれた。彼等は一様に『早くシンガポールを陥(おと)してくれ』と云ふ。人力もなかなか馬鹿にならない。二日經つとなんとか飛行機が降りられるやうになつた」

●例えば占領した飛行場を直そうとすると、イギリス軍ならば機械を使ってやる作業なのだが、日本軍は機械を持たないから手でやらねばならなかった。壊れている橋や道路も人力で直さなければならない。直しながら進軍するのだが、そういう場合には現地の人が協力してくれたという。

●もっとも当時のシンガポールというのは、全人口の8割は華僑だったから実際には反日的な空気が強かったに違いない。後からここへやってきた華僑はイギリス側について、マレーの人たちはみな日本側に味方したようである。
《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封1 米占領軍に消された戦前の日本」》


●現代では、補給なき無謀な作戦として常に批判にさらされてきた「インパール作戦」---。
1944年3月から開始されたこの作戦は、日本軍7万8千人とインド国民軍約1万5千人が、ビルマ(現ミャンマー)からインド東端に位置する英軍の要衝インパールの攻略を目的として戦われた一大作戦であった。

●インパール作戦はインドでは「インパール戦争」と呼ばれ、対英独立戦争として位置づけられている。当時の写真を見ると、インドの人々が進撃する日本兵を歓迎しており、つまり日本軍はインド独立を支援した“解放軍”として迎えられているのだ。したがってインド人は、かつて日本が“侵略戦争”をしたなどという歴史観をもっていない。

●日英両軍が死闘を繰り広げたインパールの北方18キロのマパオの村では、地元のニイヘイラ女史によって作られた実に美しいメロディーの『日本兵士を讃える歌』がいまも歌い継がれている。

 父祖の時より 今日の日まで 
   美しきマパオの村よ
     いい知れぬ喜びと平和 永遠に忘れまじ
 
 美しきマパオの村に 日本兵来り 戦えり 
   インパールの街目指して 願い果たせず 
                 空しく去れり

 日本兵 マパオの丘に来る それは4日の火曜日
    1944年のことなりき 
            我は忘れじ4月のあの日

 罪なき民も散り散りに 西に東に追いやられ 
    再び神の恵み受け 集り住まん 
                この地マパオに

 広島の悲報 勇者の胸をつらぬき 涙して去れる
   日本の兵士よ なべて無事なる帰国を 
               われ祈りてやまず

…このように日本軍兵士はいまでも地元の人々から尊敬され、そして感謝されているのである。

●フィリピン、サマット山頂のメモリアル地区には立派な戦争博物館があり、往時を偲ぶことができる。当時のフィリピンの様子をとらえた1枚の写真が私の目を釘付けにした。写真のキャプションはこう記す。
“THE JAPANESE MEDICAL CORPS RESPONDING TO THE PEOPLES NEEDS”
つまり進駐した日本軍は、地元フィリピンの民衆の求めに応じて医療活動を行い、フィリピン人から歓迎されていたというのだ。

《井上和彦 「日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争」》





 ※関連ページ
日中戦争時の「中国の民衆」との類似性も参考に

【アジア侵略】
アジアの欧米植民地の残虐さ/日本人にはできない行為
アジアの華僑/欧米植民地に巣食う者
アジアで歓迎された日本軍/白人支配者を駆逐する軍隊
アジア諸国の独立/現地人に軍事訓練を施す侵略などあり得ない
親日のアジア/実はアジアはほとんどが親日国家