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親日のアジア
①  

日本軍はアジアの人々に多大なる苦しみを与えた、
とされている。
しかし、その割にはなぜか親日的な国は多い…



●戦後のインドネシア独立運動に加わった日本人で、2千名が戦死している。そして生き残った人々には同国から勲章まで送られている。 
   《土屋敬之 「ストップ偏向平和祈念館」》



●ビルマ初代首相バ・モオ氏…

◇1943年8月1日独立式典に内外の記者団に対して…「ビルマ国民は生涯今日の日には遭遇し得ぬものと諦めていたから、われわれは歓喜の涙にくれている」

◇翌日のラジオ…「ビルマはイギリスの統治時代に根本的に去勢されてしまった。…実にイギリスのビルマに対して行った侵略ほど、残虐で積悪暴戻極まるものはないのである。イギリスはわが国民、わが町、わが家庭、わが繁栄を破壊するためになさざるところはなかったのである」

◇独立宣言書…「英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。…ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従いて総ての国民的実質、莫大なる物的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い…ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。…ビルマはこのビルマに対する最大の貢献に対する日本人への感謝を永久に記憶せんことを希望するものなり…」
         《日下公人 「一問に百答」》
      (他著書「日本はどれほどいい国か」)


●日本の大義は、かつてトルコ独立の父ケマル・パシャが言い、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、そしてマレーシアのマハティールといった優れた指導者たちも等しく認識している。日本が国家として身を挺し、それらの犠牲になったということを。
      《石原慎太郎 正論2004/11月号」》


●サイパンのバンザイ・クリフを参拝した時、地元の老人などが「日本の時はほんとうによかった」と言ってくれた。
 《渡部昇一 「渡部昇一の『国益原論』入門」》
       (他著書「決定版人物日本史」)


●軍事衝突がなかったインドネシアなどでは、敗戦と同時にインドネシア義勇軍に加わり、オランダからの独立戦争に参加して命を落とした兵士が2千人近くいる。彼らはインドネシアの国立墓地に埋葬され、今でも現地では大切にされている。   
        《保阪正康 「昭和史の論点」》
(他著書「あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書」)
 


●1977年マニラでの国際会議で、インドネシアの大統領特別補佐官アリ・ムルトポ准将の発言(日本を激しく責める韓国代表を窘めて)…「日本はアジアの光である。太平洋戦争はアジアの独立のための戦争であったゆえ、本来ならアジア人が戦うべきであったのに、日本人が敢然と立ち上がって犠牲になった」。
        《前野徹 「戦後歴史の真実」》



●台湾人から、なぜ日本統治に対する恩讐や批判の声が出てこないのか。それは戦前の日本人は実に立派であり、そして日本による台湾経営が素晴らしかったからである。
      《蔡焜燦 SAPIO 2005/5/25号》


●ポリネシア・ミクロネシアなど南洋群島の人に話を聞くと、戦前・戦時中の日本人は仕事を教えて買い上げてくれたので、自発的に仕事と日本語を覚えたという。現地のお年寄りが今でも日本語が上手なのは、強制されて覚えたわけではないらしい。子供に日本人の名前をつけた人が少なくないのも、こうした事情があったからだろう。
 《日下公人 「戦争が嫌いな人のための戦争学」》


●インドネシア・ユドヨノ大統領は、調整大臣だった平成14年当時、山崎拓幹事長に対して「日本軍の進攻がわがインドネシアの独立につながった」と明言している。そもそも東南アジアには、中国・韓国と全く別の歴史観が存在することを知る必要がある。
   
      《江碕道朗 正論2005/8月号》


●戦後、日本は敗戦国で、東南アジア諸国も英米に遠慮して表向きは日本に親しくすることを避けていたが、ビルマとタイは内心友好的だった。

      《岡崎久彦 「この国を守る決意」》
        (他著書「吉田茂とその時代」)


●日本教育新聞社が1985年11月発行した「南方特別留学生 ラジャー・ダト・ノンチックの半世紀」(土生良樹著)に、次のような記述が出てくる…

「先日、この国に来られた日本のある学校の教師は、『日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ』と言っていました。私は驚きました。『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英国に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました。どうしてこのように今の日本人は、自分たちの父や兄たちが遺した正しい遺産を見ようとしないで、悪いことばかりしていたような先入観を持つようになってしまったのでしょう。これはほんとうに残念なことです」(ノンチック氏=マレーシア人で、日本とASEANとの友好促進に貢献した実力者)

 《西尾幹二 「迫りくる『全体主義』の跫音」》
(他著書「GHQ焚書図書開封1 米占領軍に消された戦前の日本」)


●同じ東南アジアでも、フィリピンなどはマッカーサー将軍の足場であったために、戦闘を直接体験し、今でも反日感情があるようだ。
       《稲田朋美 諸君!2005/10月号》


●マハティール(1992年香港で開かれた欧州・東アジア経済フォーラムで)…
「もし日本なかりせば、欧米諸国が世界の工業を永遠に支配していただろう。南側諸国は貧しさを強いられ、自分たちは(欧米に)太刀打ちできないと信じていただろう。…そうした国々でも立派にやっていけることを証明したのは日本だった。そして東アジア諸国は挑戦し、自分でも信じられない成功を遂げた」  演説のさなかに、欧米代表が席を蹴立てて出ていった。
       
 《高山正之 「世界は腹黒い」》
 


●ASEANは、日本の国連常任理事国入りに対しての支持を公式表明している。日本とASEAN諸国との間には、殆ど懸案事項が存在しない。 

  《石平 「『日中友好』は日本を滅ぼす!」》
  (他著書「私はなぜ『中国』を捨てたのか」)


●アジア諸国は日本の軍国化を懸念していない。「懸念」しているのは中国や朝鮮半島しかない。懸念しているどころか、フィリピン・カンボジア・インドネシアなどは植民地から解放されたと感謝している。「侵略」していたのは、日本が南下政策を実行する前の欧米列強である。

 《舛添要一 「危ない日本を救う20の知的武装」》
      (他著書「都知事失格」)


●1994年、土井たか子衆院議長は「東南アジアへの謝罪の旅」を行った時、マレーシアのマハティールから「過去ばかり見るのはどうか」・「未来に向けて何ができるかの方がより大切」と窘められた。

●同年の富市首相は東南アジア歴訪で、フィリピンのラモス大統領から「両国は長い道のりを歩んで第二次世界大戦の世代において、苦しいことも楽しいことも共に努力と経験を積み重ねてきた」・「日本の(アジアへの貢献という)イニシアチブを通じて、第二次大戦の記憶がいやされている。…いつまでも過去にとらわれず、未来に向かって進んでいきたい」と言われた。

●続いてベトナムでも「戦後処理問題」についてのコメントはなかった。また、マレーシアのマハティール首相からも「日本が謝り続けていることは理解できない」と言われている。
結局、村山の「反省」を積極的に評価したのは、厳しい対日感を持つ東南アジアの華僑・華人だけだった。(シンガポールでは、8割を華人が占めている)
   《渡部昇一 「渡部昇一の『国益原論』入門》


●「バンドン会議」とは、インドネシアのスカルノやインドのネルー、エジプトのナセルらが呼びかけて、アジア・アフリカの29ヵ国が集まって開いたもので、戦後独立した国が殆どだった。このため会議は独立の尊さをアピールする会合となり、大東亜戦争が称賛された会議でもあった。

これに参加した故加瀬俊一(初代国連大使)は「この会議の主催者から、出席の案内が来た。(中略)出てみると、アフリカからもアジア各国からも『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々は今もイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった」といわれたと後に講演している。
        《山際澄夫 諸君!2006/8月号》



●シンガポールでは英軍は敗れたが、今度は日本軍が華僑を弾圧した。辻政信参謀は反日分子の首を刎ねて獄門にさらすという野蛮な治安対策をした。

●私は昭和20年代末、欧州へ留学する途中寄港したが、「日本人は嫌われてるぞ、気をつけろ」と同行者に言われた。だがタクシーに乗るや、インド系運転手が「日本人か。日本軍が来た時は愉快だった」と、英国人や華僑が小さくなった様を滔々と話した。…日本に対する感情も、民族や地域や勝ち負けで様々なのである。 
        《平川祐弘 諸君!2006/8月号》


●1951年9月のサンフランシスコ平和会議の席上、セイロン(現スリランカ)代表のJ・R・ジャヤワルナダ蔵相(のち首相)は次のように演説している。
「アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、列強の植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。
往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として仰ぎ見た。私は前大戦中いろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」

      《八木秀次 「日本を讒する人々」》
        (他著書「国家再生の哲学」)


●戦時中の泰緬鉄道に関係した日本兵を探していたタイ人の著名ビジネスマン、ビクロム・クロマディットさん(53)。泰緬鉄道は日本軍が英蘭捕虜を酷使したことから、「死の鉄道」といわれた。
ところがビクロムさんの母は、日本兵が本当はやさしい人々であったと息子に話していた。娘盛りだった17歳の彼女は、鉄道を使って果物を売り歩いていた。

        《産経抄 産経新聞2006/12/7》
 (関連書籍「国会議員に読ませたい敗戦秘話」)


●宮中晩餐会でのベアトリックス女王陛下御挨拶…

「不幸なことに、第二次世界大戦の出来事により(オランダ、日本)両国の国民の間に深い溝が生じました。数多くのオランダ国民が太平洋における戦争の犠牲になりました。その中には軍隊の一員として巻き込まれた者もいましたが、十万人以上の民間人もまた、何年もの間抑留されました。お国ではあまり知られていない歴史の一章です。多数の同胞が戦争で命を失い、帰国できた者にとっても、その経験は生涯、傷痕として残っています。その結果、これらの人々は、今なお痛みや苦しみに悩まされているのです。日本の国民さえも、戦争の恐ろしい結果に苦しまなければなりませんでした。私たちの過去に暗い影を落としている苦い経験を真摯な目で認識することこそ、憤りや恨みに満ちた気持ちを克服する一助になるはずです」

●この翌日、首相官邸での午餐会で海部首相は「旧蘭領東インドに在住した貴国の人々が戦争によって大きな苦しみを受けられたことは誠に遺憾だった」と謝った。 
…インドネシアにいたオランダ人を苦しめたのがそんなに悪いのなら、日本軍に苦しめられたオランダ人の方々は、いったい何をするために現地においでになったかも伺いたかった。慈善事業のためにですか?


●現在のインドネシアは300年の間オランダ東インド会社の、ついでオランダ政府の支配下にあった。オランダが19世紀にジャワで始めた強制栽培制度は、最も残忍な植民地収奪のメカニズムとして今日も世界史の教科書に載っている。
      《徳岡孝夫 「完本 紳士と淑女」》
        (他著書「ニュース一人旅」)


靖国参拝などで「アジア諸国が反発したり警戒している」と朝日はよく書くが、「諸国」といっても中国と韓国の「2ヵ国」だけ。東南アジア諸国で政府レベルで批判する国なんてもうない。たまに「市民」とやらの反対デモがあったって、大概、華僑系。
       《高山正之 諸君!2004/11月号》


●アジアの反日国家…
  韓国=中国の腰巾着  
  フィリピン=華僑が国を牛耳る
  シンガポール=中国の植民地
       《高山正之 週刊新潮2005/5/19》


●1975年にタイの首相をやったククリット・プラモートという人がいる。彼は現地の新聞「サイアム・ラット紙」の主幹をしていた1955年6月、国賓待遇で現地を訪れた元駐タイ日本軍司令官・中村明人元陸軍中将に対して、次のように述べたという。
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのはいったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大な決意をされた日である。さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない」 

●私たちは、多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。そして、日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかねばならない。
     《田母神俊雄 「自らの身は顧みず」》



     



●インドネシアの首都、ジャカルタにある「スカルノ・ハッタ記念公園」(独立宣言広場)---初代大統領スカルノと同副大統領ハッタの銅像に挟まれて「独立記念碑」が建っている。そこに、「17・08・05」と日付が刻まれているのを、ご存知だろうか。

●終戦の2日後、当時はスカルノの私邸だったこの場所で、インドネシアの独立が宣言された。1945年8月17日のことである。だが、この記念碑に刻まれた独立の年は、西暦1945年を示す「45」ではない。我が国の皇紀2605年を示す「05」なのだ。それが今も残されているのは、日本に対する感謝の念の表れにほかならない。

●実際、1958年に日本とインドネシアの間で平和条約が結ばれ、日本が戦後賠償など約8億ドルを支払うことになったとき、ハッタはこう言ったという。
「日本軍は独立の恩人なので『賠償』という名称はふさわしくない。独立達成の『祝賀金』として受け取りたい」

●かの「村山談話」なるものによれば、我が国は「遠くない過去の一時期、国策を誤り、(中略)植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え…」たらしい。
だが、この「村山談話」なるものがいかに出鱈目であるかを、インドネシアの独立記念碑に刻まれた「17・08・05」が示している。
もしも日本がインドネシアの人々の「多大の損害と苦痛」を与えたなら、「05」は屈辱の年号として削り取られていたことだろう。

●こうしたインドネシアの親日感情を考える上で、私たち日本人が、決して忘れてはならないことがある。それは、大東亜解放の大義に殉じようと、終戦後も祖国日本に帰還せず、インドネシア独立戦争に身を投じた約1千人の元日本兵の存在だ。南国に散華した元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地などに手厚く葬られている。
       《諸橋茂一 正論2013/9月号》


●トラック島(現ミクロネシア連邦チューク州)は、連合艦隊の根拠地だった。第一次大戦のドイツ敗戦以後、30年以上も日本が統治した。住民5万人のうち1万人以上が日本人の血を引く日系人社会でもある。「ハダシ」や「サルマタ」「コシカケ」など数多くの日本語を話し、片思いの少女のように日本人を敬っているトラックの人々。「日本人が来て迷惑したという感じではなく、この親しさはどこから来るのだろうとビックリしました」…これはトラック島を訪ねる日本人たちが一様に感じる事でもある。
そして今、当時のことを聞こうと現地の老人たちを訪ね歩くと、こんな言葉をよく耳にする。「あれは戦争がしたこと、今も日本人のことを好きです」と。

●ヨシュア・スガ氏(85歳)…「私たち年寄りは、日本時代が一番好き。若い人は私達の話を聞いて、そうか、日本人はよく叩くのかと言います。本当です。悪いことをしたら叩きます。悪い事をしないようにです。だから日本時代は良かった。学校でもそうだった。遅刻する。悪い事をする。そんな生徒はいつも罰があった。厳しいと思ったけど、それは仕方がない。罰を受ける。今度は遅刻しない。もう悪い事はしない」
戦後、スガは現地の高校教師となった。日本人から教わった「事の善悪」をトラック島の子供たちに一生教えていこうと誓ったという。

●しかし、日本人への印象は、いいものばかりではない。「私達にとっては、大空襲が終わってからが本当の戦争でした」と、ある老人が言う。空襲で多くの日本軍兵士や民間人、現地人が死傷したが、生き延びた者たちは飢餓との闘いが始まった。一部の部隊では、現地住民の意思を全く無視して、彼らの土地、食糧などを没収して、パンの木、ヤシの木などに勝手に部隊の名札を張り付けて自分たちの食糧として確保していった。このため現地人の中にも餓死する者が続出した。

●もっとも、日本兵も生きねばならなかった。多くの部隊は、現地の限られた食糧を島民と分かち合いながら飢餓と闘った。山の上まで畑を耕し、パンの実、ヤシの実を食べた。漁師で結成された漁労隊というものもあった。

●その後、米軍が上陸、住民の円をドルに交換し、実質的な米国支配が始まった。現在でも日本に対する思いは米国に対する思いとは格段に違う。「戦争の時、日本人はまるで友達みたいだったよ。一緒に食べ物を分けて食べて、きつい仕事をした時は、こっそりお酒を飲ましてくれました。日本人とは気持ちが通じ合っていましたね。戦争がなかったら本当に良かったと思う。アメリカ人の友達はいないけど、日本人にたくさん友達がいるね」
《末永卓幸(トラック島在住ツアーコーディネーター)
              正論2010/9月号》


●実は東南アジアの国々の人たちが一番恐れているのは中国の覇権主義である。自分たちだけでは戦えないし、阻止できない。本当のところは日本に期待したいのである、日本をリーダーとしてこの地域に共同戦線を作り、中国に「ノー」と言うべき時に「ノー」と言えるような態勢を作りたいと考えている。
でも、現実は失望している。とてもじゃないけれど、日本が軍国主義になるなんて思っていないし、いざというときに一緒にスクラムを組んでやってくれる国ではない、という諦めの方が大きい。
         《金美齢 正論2010/4月号》

●防衛庁を省に昇格させた後、フィリピンに行ってアロヨ大統領と首脳会談を行ったのだが、そのときアロヨ大統領は「日本が防衛庁を省に昇格させたのは本当によかった。日本人が民主主義とシビリアンコントロールに自信を持ったと理解しています。そしてアジアの安全保障において日本が指導力を発揮していこうという意思の表れだと私は受け止めて歓迎したいと思う」とおっしゃった。私はメディアに発表したのだが、産経新聞しか書かなかった。
            《安倍晋三 〃 》


●英国BBCはここ数年、「世界に好影響を与えている国」の世論調査を主要二十数カ国で行っている。日本は毎年、カナダ、イギリス、ドイツなどと並びトップクラスだ。評価の最も低いのは、イラン、北朝鮮、パキスタン、イスラエルなどで、次に続くのが中国やロシアだ。

●少し意外なのは、2011年の調査に参加した東南アジアの国はインドネシアとフィリピンだけだったが、両国とも約85%の人々が日本を高く評価していることだ。「日本はかつての侵略によりアジア中から嫌われている」という言説は疑わしそうだ。
       《藤原正彦 週刊新潮2012/1/26》



●インドではインパール作戦を「インパール戦争」と呼び、「対英独立戦争」として位置付けられているのだ。そうなると日本軍はインド独立を支援した解放軍となり、したがってインド人は“日本が侵略戦争をした”などという歴史観をもっていない。

●インド解放のためにイギリス軍と戦った日本軍将兵に対して、インド国民軍全国在郷軍人会代表で元インド国民軍S・S・ヤダバ大尉は、1998年1月20日にこう記している。

《われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます》(靖国神社)

●また日英両軍の大激戦地の一つであったマニプール州ロトパチン村のモヘンドロ・シンハ村長はこう語っている。
《日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動のすべては、みんなインド独立のための戦いだったのです。私たちはいつまでもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。そのためここに兵隊さんへのお礼と供養のため慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです》 (『自由アジアの栄光』)

●インド最高裁弁護士のP・N・レキ氏は次のような言葉を残している。
《太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない》

インドではかの東條英機元首相が感謝されているのだ。平成18年3月19日、カルカッタ(現在のコルカタ)のチャンドラ・ボース記念館で「東條英機に感謝をする夕べ」が催された。そこには、館長であるチャンドラ・ボースの甥の嫁クリシュナ・ボース氏に招待された東條首相の孫娘・東條由布子氏の姿があった。

●かつてマレーシア航空の機内誌『GOING PLACES』には次のような記述があった。
「日本のイギリスに対する勝利は、長くヨーロッパの植民地であり続けたアジア人の意識の中にあったヨーロッパ列強諸国の無敵神話を見事に粉砕したのである…」(原文は英語)

●大東亜戦争で180万人もの人々が亡くなったことで、日本への敵意はどこの国よりも強いだろうと思われがちなフィリピンでも日本軍は尊敬されていた。平成12年10月25日、日本の神風特攻隊が誕生したフィリピンのマバラカットで、なんとその神風特攻隊の慰霊祭が挙行されたのである。

●そしてこの式典に参加していたダニエル・ディゾン画伯は、なんとフィリピン・カミカゼ記念協会の会長だった。ディゾン画伯は語る。「私は、ヨーロッパ、アメリカ、中国、フィリピンの歴史をまさざまな角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ち上がり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジアを叱責した理由も理解できたのです」

●向き直った画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の“抵抗”だったといえましょう」

●さらにこの同じ日、バンバン村でも慰霊祭が催されたのだが、このとき参加していた地元のサンロック高校の女子高校生らに神風について意見を求めたところ、彼女たちは満面の笑みで日本の神風特別攻撃隊を“ヒーロー”と称えていたのだ。そして引率教員はこう話してくれた。「こうした歴史教育を通じて、子供たちに国を守ることの大切さを知ってほしいのです」
       《井上和彦 Voice2014/4月号》



●日本の総選挙投票日の6日前、2012年12月10日、大手研究機関のヘリテージ財団が討論会を主催した。「韓国と日本の選挙を評価する」と題された一種のシンポジウムで、ブッシュ前政権の国家安全保障会議でアジア上席部長を務めたマイケル・グリーン氏は、フィリピン外相が最近、中国の軍拡への抑止として、日本が消極平和主義憲法を捨てて、「再軍備」を進めてほしいと言明したことを指摘した。

●フィリピンのアルバート・デルロサリオ外相がイギリスの『フィナンシャル・タイムズ』のインタビューに応じて、日本の軍備増強への明確な要望を述べたのだった。2012年12月9日に同紙が大きく報道した。同外相としては、明らかに安倍政権の登場を意識しての言明だった。

●グリーン氏はその外相発言を踏まえて語った。「日本がアジア全体の軍事的脅威になるという中国の主張は、他のアジア諸国は信じないでしょう。東南アジア諸国はむしろ日本の軍事力強化を望んでいます。中国の軍拡へのバランスをとるという願いからです」
     《古森義久 「危うし!日本の命運」》



  「最も信頼できる国」
    日本33%、中韓5%以下


●外務省が東南アジア諸国連合(ASEAN)の7か国で行った世論調査によると、「最も信頼できる国」に日本を挙げた人は33%で、トップだった。 米国は16%で2位、中国は5%、韓国は2%だった。

●「ASEAN諸国にとって現在重要なパートナーはどの国か」との質問(複数回答可)でも、1位が日本(65%)で、以下、中国(48%)、米国(47%)が続いた。2008年の前回調査では1位が中国だった。

●安倍政権が掲げる積極的平和主義については、「アジア地域の平和維持に役立つ」と肯定的な評価をした人が9割に上った。
調査は3月、外務省の委託を受けた香港の調査会社がインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム、ミャンマーの18歳以上の国民を対象に、オンライン方式で実施。計2144人が回答した。
            《読売新聞2014/4/20》







●米調査機関が今春行った世論調査によると、他のアジア諸国では、日本に好印象を持つ人は8割程度にのぼっているのに対し、中国、韓国では「日本嫌い」が圧倒的に多い。日本に対し「過去の軍事行動への謝罪が不十分」と感じている人は韓国98%、中国で78%に達した。
        《産経抄 産経新聞2013/7/13》



●漢人は19世紀末から一方的にモンゴルの草原に押し寄せ、モンゴル人から土地を奪い開墾した。土地を獲得した彼らの中に、いつしか虐殺は裕福になるための手段だとでも考えるような精神的土壌が出来上がっていたと、静岡大学教授の楊海英氏(内モンゴル出身)は指摘している。モンゴル人が抵抗運動を始めたのは当然だった。

●そのモンゴルに日本が登場したのは日露戦争以降のことだ。1932年に満州国を建てた。「満州国では日本は国民学校から大学まで多くの学校をつくりました。モンゴル人は初めて系統的な近代教育を受け、優秀な学生は東大も含めて日本の大学に留学しました」。多くの教育機関の中でも特に人気が高いのは陸軍士官学校だったと楊氏は語る。

●氏はこう説明した。「日本の学界では植民地は悪だという歴史観が主だと思いますが、モンゴル人の見方は異なります。日露戦争以降、新たに登場した近代国家・日本の協力を得て、我々は中国から独立したいと考えた。アジアの殆どの国が西欧の植民地からの解放を目指しましたが、中央ユーラシアの遊牧民が目指したのは中国からの独立でした。遊牧民にとってロシアは仲間で、日本は頼りになる存在でした。それがモンゴルの歴史の真実です」。だが、敗戦で日本は撤退し、代わりに中国が「永遠に」残ることになったと、氏は嘆くのだ。

●1949年の中華人民共和国樹立以降は、漢人が以前にも増して内モンゴルへ大量入植を始める。内モンゴル人がどれ程過酷な弾圧を受け、虐殺されてきたかについて氏は『墓標なき草原』でこう記している。「内モンゴルに侵入して植民地を創った外部勢力は中国(漢人)と日本である。モンゴル人を(内と外に)分けて統治したのも中国と日本で、大量虐殺を働いたのは中国のみである」
      《櫻井よしこ 週刊新潮2016/4/21》



      【親日のアジア その②へ



【アジア侵略】

アジアの欧米植民地の残虐さ/日本人にはできない行為
アジアの華僑/欧米植民地に巣食う者
アジアで歓迎された日本軍/白人支配者を駆逐する軍隊
アジア諸国の独立/現地人に軍事訓練を施す侵略などあり得ない
親日のアジア/実はアジアはほとんどが親日国家