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日中戦争の実相

勢いに乗る日本軍は、中国全土を焦土にし
3千万人以上の市民を
虐殺しまくったとされているが…


日本軍の進撃に対して、中国軍はひたすら逃走・撤退を重ねるというのがこの戦争の通常パターンだったため、日米戦争のような激戦は少なく、犠牲者もそれほど多く出なかった。中国側犠牲者も軍人が中心であり、国共内戦や共産党の階級闘争のように住民を巻き込んでの、逃げ場のないような凄惨な殺し合いは、基本的に行われなかった。

●日中戦争時、日本は鉄道建設に情熱を注ぎ、1千キロの新線を中国に増設している。また速度も向上した。この鉄道は日中両国に経済的な利益をもたらした。

●日中8年戦争においても、日本はその占領地域において内戦を停止させ、中国の統一・社会の安定と発展に相当な努力を払っている。当時日本は、中国で鉄道・港湾(築港)・電力・医療・インフラ・金融・財政・経済発展・民政の安定について、実に想像以上に大きく寄与している。

●しかしこれらの事実は無視されるどころか、むしろ歪曲・否定される。産業や鉄道をはじめとする近代的施設に対する破壊・略奪を行ったのは、日本軍ではなく他ならぬ各政府・各武装勢力の中国人だった。そして住民の多数も…

…中国が日本の敗戦まで命脈を保ちえたのは、米ソの軍事・経済的支援があったからで、決して「長期戦」「持久戦」の勝利などではない。

●日中戦争中ですら蒋介石は基本的に反日ではなく、占領各地の自治政府や汪兆銘政権の樹立を見ても、親日派が多数存在したことも事実である。
    《黄文雄 「日中戦争知られざる真実」》



●終戦直後の中国国防部発表は、日中戦争での死者は175万人(軍人のみ)だった。中国が言う「日中戦争で3,500万人が日本軍に殺された」なら、日本兵全員が「百人斬り」をしなければならない。
      《秦郁彦 「
現代史の争点」》
  (他著書「慰安婦問題の決算 現代史の深淵」)


●実際問題、日本が中国に負けたということは、どのような局面においてもない。だいたいあっち側にその気がなかったのだから。
      《福田和也 新潮45 2005/6月号》


●中国を治めるというのは容易なことではない。住民は生活物資を供給してもらわないと暮らせないから、それを供給する側につきたがる。物資の供給をしなかったら、絶対に住民の支持が得られない。

●しかも日本は占領地から鉄鉱石・石炭・綿花・塩とかを確保したい。そのために鉱山を開発し、炭鉱を整備しなければならない。占領地の経済の運営をやって、それで住民を食わせなくてはならない。

●戦闘だけやってそれで勝てればいいというのではない。先進国同士の近代戦争とは様相が全く違う。まことに変な戦争だった。

 《長谷川慶太郎 「軍事頭脳を持っているか」》
     (他著書「日本の難題」)


●日本政府の推計によると、1938~45年までにおける日本の対中国投資の累計は、46億8千万円に達している。(華北{蒙彊含む}33.3億 華中10.4億 華南3.1億)
当時の日本の国家予算は約20億円程度だから、どれだけ巨額かがわかるだろう。

     《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》
 (他著書「『日中戦争』は侵略ではなかった」)


●日中戦争時、日本軍の戦略の中に「糧秣は現地で調達すべし」というのがあった。これは日清戦争の時に清国兵があまりに弱かったから。清国は平壌に糧秣を山にように積んで「さあ、来い」と陣を構えたのだが、そこに山県有朋の第一軍が攻めていくと、その糧秣を置いてすぐさま逃げてしまった。そのため第一軍はその食糧を食べて新たな補給なしでやっていけた。同じ様なことが旅順でも起き、そうしたことから「現地調達」となった。

●日中戦争でそれを覚えた兵隊が、フィリピンでもやっている。だから日本軍には残虐行為が全くなかったのかというと、それはやはりあったと言わざるを得ない。
    《岡崎久彦 「国家は誰が守るのか」》
      (他著書「吉田茂とその時代」)


●首都陥落後、蒋介石軍は内戦に備えて対日戦を手控えるようになり、戦争は共産党軍の散発的なゲリラ戦が主なものとなっていた。戦争は続いたけれども、他方で日本の占領下、中国各地では日常生活が回復しつつあったのである。
      《井上寿一 中央公論2005/11月号》


●国民党軍と共産党軍の敵対意識は、日本軍に対する意識よりもはるかに強い。それを形だけ抑えて国共合作と称して日本を戦っているわけだから。日本軍の前で国民党軍と共産党軍が戦闘を始めることもあった。そうすると日本軍は入っていかないで、黙って見ているわけである。

●また、閻錫山の軍隊と日本軍の間では、お互いに攻撃しないという一種の約束も出来ていた。それどころか、山西軍のある部隊で、給料が払えなくなったので、二百人くらいの兵隊を日本軍で引き取ってくれと密偵が言って来たこともある。(結局実際には来なかった)
   《伊藤桂一(作家・中国戦線に長く従事)
            文芸春秋2006/9月号》


中国が近代的インフラを整備する土台を日本人が作ったという事実は、きちんと評価しなければならない。
《金文学 「逆検定中国歴史教科書 中国人に教えてあげたい本当の中国史」》


●日本の占領軍は、梅蘭芳・斉白石・周作人など文化人を尊重し、彼らに公職への就任を打診し、たとえ拒否されても危害を加えるようなことはなかった。そのため被占領区の文学は非常に活気があり、張愛玲などといった優秀な作家が輩出した。

●被占領区の1人の作家は、抗日ゲリラに参加する主人公のストーリーを書いたが、それでも上海で正式な出版が認められているのだ。

●秦の始皇帝の行った「焚書坑儒」や雍正・乾隆の「文字の獄」(筆禍事件)、また国共両党政権下の暗殺や作家への迫害、反右派闘争、文革などを考えると、日本の占領区がいかに開明的であったかは明らかだろう。

●向学心のある学生には、日本の占領区を離れて国民政府が管理する地域へ学びにいくことも許された。またたくさんの新しい大学(上海交通大学・上海医科大学・ドイツ医学院・雷士徳工学院・上海商学院・上海音楽院など、抗日戦勝利後に政府によって取り潰された6校)が被占領区で設立された。
       《趙無眠 文芸春秋2006/11月号》


●日本がいかに中国都市を制圧しても、広大な中国では点と線しか制圧できなかった。
    《惠隆之介 「誰も書かなかった沖縄」》
(他著書「尖閣だけではない 沖縄が危ない!」)


●中国大同から少し離れた山中。八路軍とおれ達の丁度真ん中に谷川が流れていて、水が欲しいと思ってもそこしかないのよ。(中略)でも翌日からは水汲みにいってもまず大丈夫と思って安心していったよな。

●むこうも大体同じ時間にきてタバコ交換したり、大してうまくなかったけど、饅頭もらったこともあったな。こっちも慰問袋のキャラメル、人数分だけ一粒ずつやったこともあったな。しまいにはすっかり仲よくなって身ぶり、手ぶりでわかるんだ。でも夕方だけで、昼間はばんばん撃ちあう。[坪田理基男]

    《松谷みよ子 「現代民話考〈2〉」》
      (他著書「ミサコの被爆ピアノ」)


●中国大陸にいた日本兵には、負けたという実感があまりない。ずっと戦闘には勝っていたから。軍事評論家・ジャーナリストの伊藤正徳氏は、「中国では大きな戦争が53回あって、52回は日本軍が勝ったけれど、最後の1回で徹底的に負けてしまった」と書いている。戦争というのは、途中いくら負けても、最後に勝てばいいのだ。

昭和15年元旦の朝、日本では皇紀2600年で、お祝いの年。
その時に、なんと山上の中国軍から日本軍に向け、拡声器で祝賀メッセージが送られてきたそうである。渡辺はま子が歌う軍歌が流れたあと、「日本軍のみなさん、お年玉に野砲を2ついただきました。どうもありがとう。戦いはまだまだ続きます。われわれは負けませんが、あなた方もしっかりやりなさい」。

●敵側の捕虜になった日本兵も謀略放送に駆り出される。「わしは○○中隊の○○や、××はおるかい」と戦友に呼びかけ、「こっちは食べもんも仰山あるし、給料もええ、おまえもこっちへ来いへんか」聞かされる方は腹が立つが、どうしようもない。

●中原会戦のとき、河底村というところに一週間ほど駐屯して、作戦終了とともに引き揚げた。そのとき、1人の村の男の子を「太郎」と名づけ、お菓子を与えたりして隊のみんなで可愛がっていた。

●中原会戦から数年後、私と隊の仲間であった山田という男は別の部隊に召集されて、黄河を渡った。向こう岸からは敵兵がさかんに銃撃してくる。ベニヤ板で作った小艇でやっとの思いで向こう岸に着いた。

●で、周囲を見回すと、どうも見覚えのある風景で、しばらくして、”あっ、ここはいつか駐屯した河底村じゃないか”と気づいたとき、1人の青年が懐かしそうに「シーサン!」と声をかけてきた。それが、すっかり成長した「太郎」だった。中国では兵隊のことを誰でも「シーサン(先生)」と呼ぶ。太郎も、山田をそう呼んで慕っていた。
      《伊藤桂一 諸君!2007/10月号》

白人を相手にした太平洋戦争と違って、日中戦争には熾烈な殺し合いのさなかとはいえ、どこか東洋人同士の心の通い合いのようなものがある。
          《稲田朋美 〃 》







南京攻防戦を除けば、日中戦争で凄まじい戦闘はあまりない。もともと中国では、軍閥の戦争というのは本気でやるとお互い潰れてしまうから、滅多に本気で戦わない。国民党軍に会っても、こっちが手出ししなければ向こうも掛かってこない、いわば戦線膠着状態だったようである。
        《北村稔 Voice2007/8月号》


約1年半で中華民国の大部分は日本が制圧したため、ほぼ戦闘状態は終了し、中国の大衆は平穏な日々を日本軍統治下で過ごしていたのである。侵略戦争がのべつまくなしに続き、中国庶民は塗炭の苦しみにあえぎ続けていたというのは全くの嘘である。大東亜戦争が激しくなってからは、米軍の空襲に苦しむ日本本土よりも、南京政府統治下の中国の方が安全であり、食糧も豊富であった。

●中国は実際、日本軍統治下にあるときの方が、中華人民共和国が成立して中共の統治下にあるときよりも平和であった。数字が冷静にこれを物語る…
東京裁判で、支那事変の中国人の死者数は約180万人(南京大虐殺も含む)と中国側によって主張されている。この数字が極端に誇張された数字であることは間違いないが、仮に受け入れてみよう。1937~45年の8年間で180万人の死者だから、年間平均22万5千人の犠牲者ということになる。

●では中華人民共和国が成立して毛沢東が国家主席になってから、76年に彼が死ぬまでの27年間、果たしてどれだけの数の人間を殺したのか…

◇71年の米上院安全保障委員会の報告書には「毛沢東は政権樹立後の10年で3千万人の大衆を殺害し、大躍進政策から文化大革命までに2千万人殺し、合計5千万人を殺した」(このレポートが発表された71年8月、文革はまだ終了していなかった)

◇78年3月に葉剣英国家主席(当時)は次のように公表している。「文革は大災害で、このために1億2千万人が死んだ」

◇中国人自身の手による毛沢東の評伝「中国がひた隠す毛沢東の真実」(北海閑人著)によれば、大躍進政策の3年、文革の10年で4千万~5千万人の中国人が殺害されたという。

…以上の数字には、支那事変中の中共による殺害、国共内戦の犠牲者は全く含まれていない。「中国幻想」(古野直也著)によれば、「毛沢東は延安時代だけで党幹部2万人を殺し」、支那事変の間に「共産党は人口1億の農村を支配し、500万人を殺した」という。

●あくまで中華人民共和国成立以後に限って、最も少ない数字を選んでみると、毛沢東はその27年間の治世の間に約4千万人の同胞を葬り去ったことになる。1年間平均148万人強という数字になる。

       《藤井厳喜 「騙される日本人」》
(他著書「日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず」)


●日中戦争では、記録によれば、大規模な部隊間の正規戦は極めて稀で、実際戦われた場合には、非常に短期間のうちに終わっている。つまり、残りの期間は今でいう平和維持活動に従事しながら、散発的な小競り合いをしたり、小規模なゲリラ集団による奇襲と戦っていたのである。
   
    《松村昌廣 諸君!2007/10月号》







【日中戦争】
21ヵ条の要求/中国プロパガンダの第一弾
中国の内戦/日中戦争前の国内混乱状態
西安事件/日中戦争前夜
盧溝橋事件/中国共産党の罠という定説
盧溝橋事件後/中国の暗躍と戦争拡大
上海事変/実は中国の侵略行為
日中和平工作/中国の妨害
日中戦争の実相/意外と緩やかだった戦闘
中国の民衆/日本軍を支援した者も少なくない
日中戦争への欧米の介入/中立のはずが中国へ肩入れ