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上海事変

日本軍は、北京のある華北地方から
上海のある華中地方まで侵入してきた。
そして日中戦争は本格化していくのだが…


     上海戦


●蘆溝橋事件から通州事件にいたる一連の事件をめぐる和平交渉が、8月9日上海で予定されていた。
ところがその直前、大山勇夫海軍中尉と斎藤嶼蔵一等水兵が、支那の保安隊により虐殺された。

●支那側は、大山が撃ってきたから仕方なく反撃したのだと主張した。現場には一支那兵の死体が横たわっていた。しかしその死体は前から撃たれたものではなく、背後から射殺されたことを示していた。つまり、前方の大山ではなく、背後の中国兵によって殺されたのだ。

大山虐殺事件は、和平交渉を棚上げし日本を戦争に引き込むための挑発であった。というのは、蒋介石が対日戦を決意したのは、その2日前の8月7日であったからだ。
目的は、国際都市上海で日中戦争を引き起こし、外国人の目に焼き付け、否応なしに国際問題を頻発させることであった。(蒋がそのようにもらしたことを、フランス人特派員エドアール・エルセイの「支那事変観たまま」が紹介している)

●当時の上海は、支那随一の大都会にして国際都市であった。40余ヵ国の人々が租界(外国人が警察権と行政権を有する)に住んでいた。日本20,522人、ロシア11,279人、英国9,243人、米国3,809人、フランス1,647人、ドイツ1,838人(これらの国は上海に軍隊を駐留させていた) 
このように日本人ビジネスマンが多くの欧米人に交じって商業活動を行っていた。さらに蘆溝橋事件の勃発により、揚子江上流から上海に引き揚げてきた日本人の数は、2万2千人にのぼった。

●そうした中、蒋介石は上海の非武装地帯に、コンクリートで強固に構築したトーチカを網の目のように築いていった。その上、7月12日に広汎な動員令を発令した蒋は、上海に10個師団を急派し、3万の中央軍が日本人を取り囲んでいた。

●そのため、日本は上海で衝突が起こることを危惧していた。エルセイも言うように「当初は日本の政府も軍部も交戦を回避していた」のである。
しかし上海の日本人は、いまや4万人以上にふくらんでいた。その日本人を保護する海軍陸戦隊は、わずか2,800人。このため8月11日、1,200人の陸戦隊が日本から急派された。

●日本租界を取り巻いて待機中だった支那便衣隊が、8月13日、15時55分射撃を開始した。その便衣隊に次いで正規軍も発砲してきたため、日本軍も応戦の火ぶたを切った。
8月14日にも支那空軍機が日本の領事館・陸戦隊本部・待機中の軍艦「出雲」を爆撃。また同日、国際租界にも爆弾を投下して、キャセイホテルとパレスホテルの間で死者729人、負傷者861人、交差点での死者1,012人、負傷者1,007人を出した。

…こうして日本は「支那における外国権益を渦中に引き込むを企図したる支那人に依りて、文字通り戦争に押し込まれた」(ニューヨーク・タイムズ上海駐在・アーベント特派員)のである。

●そこで8月23日、松井石根大将を司令官とする上海派遣隊が派遣された。
しかし、上海の日本軍は苦戦を強いられた。(死者15,000人)そのため新たに第10軍を増員。苦戦の原因は…
①蒋は支那随一の精鋭軍を上海方面に動員した。その兵力70万。日本軍はその一割程度の7万。
②上海のトーチカ構築を指揮し、蒋軍を訓練していたのはドイツの軍事顧問団。

●しかし日本軍は、蒋軍の防備の手薄であった杭州湾から北上して、北に60㎞の上海を背後から衝いて、11月9日に陥落させた。これに前後して70万の蒋軍は上海から四散した。その一部が南京に退却したが、その兵力は不明。

●そのため日本軍は支那の度重なる挑発に業を煮やし、首都・南京の占領を決意する。(首都を押さえれば終わると考えて)

《藤岡信勝 東中野修道 「『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究 中国における「情報戦」の手口と戦略」》



1937年、蒋介石の上海市における侵略開始によって、日支戦争が始められた。侵略者が司令部所在地を爆撃され占領されても被害者面はできぬ。中共はシナの正式継承政体だと自他ともに認める以上、シナ事変について日本に何度も謝らねばならぬのは、北京政府の方である。断じて逆ではない。
       《兵頭二十八 正論2004/12月号》


●大山中尉惨殺事件なんか、ひどい。殺して死体をバラバラにして、それを道端にカカシみたいに立てて、口の中にペニスを突っ込んで…というようなもの凄い挑発行為をやっていた。
それでまた日本の世論が沸騰して、「やっぱり断固戦うべし!」となっていく。 
     《小林よしのり 「本日の雑談〈6〉」》
       (他著書「いわゆるA級戦犯」)


●とにかく中国の抱いていた計画は、国際干渉を招くことによって日本を打ち負かし卑しめることだった。1937年7月の北清事変の時、南京政府は上海地域(列強の利害が集中している)でも戦いが起こるように慎重に徴発した。

●1937年8月12日夜明け前、中国軍大部隊は上海まで前進し、国際租界の日本人居留区域に包囲攻撃をしかけてきた。

●米各紙の報道…
◇ニューヨーク・タイムズ(1937年8/30)…「日本軍は敵の徴発の下で、最大限に抑制した態度を示し、数日間だけでも全ての日本軍を兵営の中から一歩も外出させなかった。ただし、それによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが」

◇ニューヨーク・ヘラルドトリビューン(1937年9/16)…「北支での戦闘に外国列強諸国が殆ど注意を払わないでいた間に、中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは、疑う余地が無い

◇ニューヨーク・タイムズ…「中国軍は、外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとしていた」

●上海や天津などの西洋化した港町には中国人は住んでいるが、彼らは中国人としては例外中の例外である。

日中戦争の直接の原因は単純極まりない。日本は殴られたから、殴り返しただけだ。

 《K・カール・カワカミ 「シナ大陸の真相」》


当時の客観的な事実を比較検討してみると、こと「上海戦」に関する限り、蒋介石の方から積極的に攻撃を仕掛けてきたことは、ほぼ間違いない。この「どちらが仕掛けたか」については蘆溝橋とは違って、1980年代以降に中国で出版された本の多くは「上海戦の第一発は中国軍から行われた」と記述されている。中には「88師の易瑾営が最初に発射した」と具体的に名前まで書いてあるものもある。

●また大山事件も、50年近くも経った1987年、中国文史委員会が出版した「8・13淞滬(上海)抗戦」では、「ここで日本側に見せた死体は、実は上海で死刑が確定し処刑された囚人である史景哲をそこに連れてきて、大山中尉が撃ったように見せかけたのである」と記述されている。

  《鈴木明 「新『南京大虐殺』のまぼろし」》


●華中を戦場としたのは蒋介石の戦略である。日本軍が北平(北京)から南下すると、首都南京は袋のネズミになって撃滅されてしまう。そこで日本軍の主力を南東の上海に誘導した。その間、蒋軍は大陸を西へ西へといくらでも後退でき、そのうち日本軍は消滅してしまう。(その通りになってしまった) 

 ①7月中旬から上海への軍隊集中を顕著にした。
                (約12万名)
 ②中国保安隊が夜間演習を行うなどして緊張を
  高めた。

 ③中国保安隊が大山中尉と水兵一人を射殺した。
  これで上海の均衡が破れた。 

       《田原総一朗 「日本の戦争」》


そもそも国家には、国民の生命と自由を保護する義務がある。帝国憲法下でもこのことは同様で、だからこそ在外邦人の保護は内閣の命運を左右しかねない重要な問題として取り扱われてきた。

《江藤淳 「日本よ、何処へ行くのか」》(他著書「閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」)


第二次大戦は1939年にヒトラーがポーランドに侵攻して始まったのではない。1937年の支那事変から始まったのだ…とエドウィン・ライシャワーは自著「ライシャワーの日本史」で説いている。そのライシャワーはしかも、1937年8月13日の蒋介石による帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃こそが、日支事変開戦の日であったと認識している。

●当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は、多めにみても5千人。対する国民党軍は、すでに無錫・蘇州などに25万人以上が待機していた。(7月7日の「蘆溝橋事件」は、いわば街頭の喧嘩にすぎない。ヤクザの銃撃抗争と国家間の戦争を一緒にするな、との立場)
       《兵頭二十八 正論2005/8月号》

侵略戦争とは…
◇条約や協定で駐留権を得ていた相手国内で、軍隊を移動させたり、そこにまた増派すること、それだけでは侵略戦争を構成しない。
◇動員や集中、展開、開進も、侵略戦争を構成しない。
◇国境警備隊指揮官の脊髄反応も、侵略戦争を構成しない。  
◇脳内で他国を害する案を考えるのも、侵略戦争を構成しない。
◇ただ、国家指導部が周到に計画(作戦計画)し、平時に自国軍隊をして敵国軍隊を殲滅し、既存の条約を蹂躙せんと決心し、下命し、発動し、実際に国境を越えたり、敵野営地を襲撃したり、泊地にいる敵艦を撃沈したりすることによって、侵略戦争の構成要件は満たされる。
これであてはまるのは、蒋介石による8月13日の上海総攻撃なのである
           《別宮暖朗 〃 》

●7月28日に現地軍が「シナ軍追い立て作戦」を発動した。それは侵略戦争ではなく治安回復作戦である。 
           《兵頭二十八 〃 》






●東京裁判・ラザラス弁護人…「上海事変は華北事変とは全然別個のもので、あくまで中国側が国際的干渉を誘発する目的で国際都市上海に起こしたものである」
   《朝日新聞東京裁判記者団 「東京裁判」》


●日本政府は戦火が上海に飛び火しても不拡大方針には変わりなく、華北は華北で、上海は上海でと、それぞれの現地解決に努力した。だが中国側にはもちろんその気はなかった。中国軍機の上海爆撃では、フランス租界や共同租界も無闇に爆撃し、外国人や中国人同胞の千数百人が犠牲になった。(これは外国の対日非難を惹き起こそうとした策略)

●上海での戦闘で日本軍は、クリークによって攻撃を仕掛ける中国軍に手を焼き、多大なる犠牲を出した。こうして戦闘が膠着状態に陥ったため、日本軍第十軍は11月5日、杭州湾上陸を行い、上海派遣軍と合わせて中支派遣軍を編成した。 
そして11月20日、日本はここに至ってようやく大本営を設置した。中支派遣軍は敗走する中国軍を追い首都南京まで攻め込み、12月13日ここを占領した。

     《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》
 (他著書「『日中戦争』は侵略ではなかった」)


●ニューヨーク・タイムズの特派員で消息通のH・アーベンドは、のちにこう回想している。
一般には…日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は…この地域に非常に少ない兵力しか配置しておらず…19日には長江のほとりまで追いつめられて河に転落しかねない状況だった」 

   《ユン・チアン ジョン・ハリディ
      「マオ―誰も知らなかった毛沢東」》


●千人を上回る死者を出した最初の上海爆撃は、支那側によるものであった。支那側はそれを、支那のマークを付けた日本機の仕業であると例によって逆宣伝をしたが、日本の外務省から「ではその日本機が何故日本の軍艦出雲に爆弾を投下したのか」と反論されてぐうの音も出ず、地元の英字紙に小さな訂正記事を出した。
        《中村粲 正論2006/10月号》


●中国軍はアメリカ製の十数機の爆撃機で、日本の繊維工業を狙ったが失敗。停泊していた旗艦・出雲に投下して離れたが、そのうち編隊から離れた4機が上海の租界を爆撃し、千人以上のヨーロッパ人が殺された。

●これに対して中国政府は「不慣れなパイロットのミス」と発表した。(明らかに共同租界を狙ったもの)
西欧諸国の憤激は、中国ではなく日本側に向けられてしまった。日本の侵攻が被害をもたらした、ということである。英国はこれをキッカケに、国民党支援のためのビルマルートの建設に着手した。これは中国支援というよりも、アジアの植民地を守るためであった。

       《福田和也 「地ひらく(上)」》


租界(上海)に対する蒋介石の攻撃というのは、米国の駐留軍が沖縄にあるのに、そこに日本軍が攻撃を加えるといった類のとんでもない話なのである。
        《渡部昇一 正論2009/3月号》


●きわめて反日的であったニューヨーク・タイムズですら、上海事変勃発の1937年8月の紙面で次のように述べている…(HALLETT ABEND上海特派員の8月31日付署名記事・8月31日掲載)

  外国人は日本を支持

上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。

日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかったのである。

8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある使節はこうみている。
「7月初めに北京郊外で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた」

《ジェームズ・B・ウッド
  「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」》


●「日華事変の時、日本軍はシナにいたではないか。すでに侵略行為を行っていた」と言うが…
日本軍がいたのは、中国が外国人を誘致するかのように設けた共同租界という地区。つまり侵略でも占領でもなく、日本企業と日本人を警護するために、8ヵ国のうちの1国として中国の了承の下で駐屯させていたのだ。 
《谷沢永一 渡部昇一「日本に『戦争責任』なし」》
        (他著書「封印の近現代史」)

適地で戦ったのが侵略だというのなら、世界中の戦争は殆ど全てそうだ。

《渡部昇一 「田中真紀子総理大臣待望論『オカルト史観』で政治を読む」》


●19世紀中葉以降の中国人にとって、「租界」はまさしく戦乱のなかの天国であり、駆け込み寺のようなものだった。金を貯めて一族ともども租界で暮らすことこそ、当時の中国人の夢だったのだ。
    《黄文雄 「日中戦争知られざる真実」》







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盧溝橋事件/中国共産党の罠という定説
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