賢者の説得力ホーム軍部について日本の軍部と政治
                                                                                                                                                                          

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日本の軍部と政治

戦前の日本はナチスのような
軍部独裁の恐怖政治で国民は犠牲者だった
ということになっている。
もちろん、軍部にも大きな責任はあるが、
果たして国民は単なる犠牲者なのか。


戦前の日本は北朝鮮のような専制国家と勘違いしている向きがまだいるようだが、議会の議決によってしか法案も予算も通らないし、宣戦布告を伴う戦争となれば、内閣の決定なくして実行不可能だった近代国家であった日本にとって、開戦には大義が必要であった。と共に国民の動向も無視できなかったのである。

●言うまでもなく、大東亜戦争の大義は、大東亜の解放であった。それが侵略の口実であったとしても、大義をかの竹内好を含めた殆どの国民が熱烈に支持したことは疑いをいれない。「国民の総意」は達成されたのだ。さらに敗戦後も蘭印に残り、インドネシア独立のために戦った約千名の兵士にとって、大義はしっかり生きていた。
       《前田雅之 正論 2005/12月号》


●成算のある戦争を始めるためには作戦計画を作らなくてはならない。その責任者は大本営(統帥部)である。でもそれを認めてゴーサインを出すのは内閣。
    《橋爪大三郎
     「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」》


●近衛文麿…「軍部の力が強いのは、軍部にはとにもかくにも日本をどこへ持っていくという、はっきりとした目標とプランがあった。それに対して政治家は党利党略私利私欲ばかり考えている。国民が引っ張られるのは当然」
      《中村粲 「大東亜戦争への道」》


戦争を開始したこと自体についての責任は、少なくとも議会政治の体制が存在し、そこに世論の影響が曲がりなりにも及んでいたからには、国民全般にもあるとしなければならない。
「戦争犠牲者になりかわって指導者の責任を問う」という姿勢は不道徳。そこには「撃ちして止まん」の覚悟で犠牲になることをあえて引き受けた者たちへの、彼らの思想や意気や覚悟への軽んじがはっきりとみてとれる。
     《西部邁 「無念の戦後史」
       他の著書「もはや、これまで」》


戦前、日本の政治システムは「民主的」だった。帝国議会が協賛しない軍事予算は使えない。大日本帝国憲法は、予算が成立しない場合には前年度の予算を遂行しうると規定していたが、戦争を始める前と後では予算規模が全然違うから、議会が否決したら戦争などできない。
ところが戦争が始まると、予算案を否決する「空気」は吹き飛んだ。反対した代議士は1人もいなかった。
       《小室直樹 「日本国民に告ぐ」》


●決して軍の力だけによって日本の政治を動かしたことは一度もないのである。
ドイツはファシズム国家によって議会を停止した。日本の場合は議会はずっと機能しつづけて、昭和20年の5月のときでさえ帝国議会は正常に開催されていて、その開催に対して何らの抵抗・妨害はなく粛然として行われていた。だから終始一貫して日本は議会主義政治を守っていたのである。
       《谷沢永一 「山本七平の智恵」》


●日本においては、軍は相対的に優位な勢力の1つにすぎず、国家において強大な省庁の官僚機構との対抗関係にあり(対戦下においても軍は大蔵省主計局の厳しい予算査定を逃れることができなかった)
さらには政界・財界・宮中グループなどがあって、つまりは近代社会を形成していたために、戦場を除けば恣意は許されなかった。
 《福田和也 「第二次大戦とは何だったのか」
       他の著書「俺の大東亜代理戦争」》


●陸大(陸軍大学校)教育が、昭和戦前期において陸大出身者が文民政治を支配しえた要因ではないか。卓抜した論理能力を持ったエリートが、高い政治力を持ちえたことは想像に難くないし、軍人による政治支配がテロや統帥権を盾にした横暴のみによってなされた、と考えるのは早計であろう。高級軍人たちは、極めて高い政治能力を持っていたがゆえに、政治家や官僚を圧倒しえたのである。
         《福田和也 「地ひらく」》


●当時の庶民の実際を言えば、「軍隊は良かった」という声はたくさんある。軍隊に入れば、風呂に入れて、コメの飯が食べられて、ベッドに寝られた。また読み書きが教えてもらった。それに比べれば、ちょっとぐらい上官に殴られたってヘッチャラだという逞しさが、戦前の日本の庶民にはあった。だから軍隊でひどい目にあったと言っている人たちは、「自分はもっと上の階級の出身なのに」と自慢しているわけだ。
           《日下公人 出典不明》


●確かに日清戦争後、日本は軍備拡張に着手はしたが、それは三国干渉の音頭を取って日本に遼東半島を清国に返還させながら、満州・朝鮮に勢力を伸ばしてきたロシアの露骨な極東進出に備えたもので、大陸進出のための「戦争準備」とは言えない。
     《稲垣武 「『悪魔祓い』の戦後史」》


●軍部は戦争を起こすために存在するという前提にしているから、ある意味で勧善懲悪で、それでは話が簡単に済んでしまう。でも明治時代から考えてみると、日本は欧米列強に不平等条約を押しつけられ、他のアジアの国々が植民地になっていく、そういう状況の中で富国強兵というスローガンを掲げ、とりあえず経済的に豊かになることと、侵略されないように独立国家を維持すること、そういうところで明治国家をいうのはまずスタートした。だから、そのスタートしたときは軍部も健全なわけである。
それが、軍部、軍部とポーっと突然飛び出して独り歩きしていくような、そんな形が突然生まれたように言う。 
    《猪瀬直樹
     「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」》


●軍部の横暴に抵抗する議員もいた…
◇2・26事件直後の厳戒令下で召集された議会において、民政党代議士の斎藤隆夫は軍部の政治関与と2・26事件に対する軍当局の曖昧な態度を批判する「粛軍演説」を行った。
◇さらに翌年1月には政友会の浜田国松代議士が陸軍を批判し、当時の寺内寿一陸軍大臣との間で、有名な「腹切り問答」を展開している。

●しかし、蘆溝橋事件をきっかけとする日中全面戦争の勃発は、議会の状況を一変させた。ただし、それは軍部の圧力によって生じたものではなかった。蘆溝橋事件直後から、各政党は政府の断固たる態度を全面的に支持し、貴族院・衆議院も「陸海軍将兵に対する感謝決議」を全会一致で可決していたが、一部の議員たちは政府や軍部より前に「国民政府徹底膺懲」を唱え、国民政府打倒論を展開していた。軍部よりもよほど過激だったのである。
    《三代史研究会
     「明治・大正・昭和30の『真実』


●「撃て」「やっつけろ」… 1941年11月16日から5日間開かれた臨時会議は、「敵性国家」との開戦を求める演説とヤジで終始し、官邸には「米英撃滅」を訴える連判状や血書が3千通を超える。軍部、議会、報道、世論…その全てが外交担当者とは反対の方向を向いていた。
          《産経新聞 2011/11/5》

 ※関連ページ
朝日新聞の戦争責任

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特攻隊/いつまでも仲良くお暮し下さい。
私も喜んで大空に散っていきます。