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東條英機

第二次大戦ではヒトラーと並ぶ極悪人
といわれる日米開戦時の首相・東條英機。
彼はいったいどんな人物だったのか…




A級戦犯の筆頭にあげられる東條英機が首相となったのは、戦争を回避するためだった。
       《橋爪大三郎 諸君!2003/7月号》


●あらゆる史料をみても、東條内閣は、平和を達成すべくアメリカとの交渉を進めるよう天皇陛下に命じられて組閣した内閣である。東條首相も全力を尽くしてそれをやろうとした。ところが、アメリカからハル・ノートを突きつけられて、戦争に突入せざるを得なかった。
       《渡部昇一 正論2007/11月号》


●近衛は、後継首相には、この難局に国民の意思をまとめるには皇族しかないと、東久邇宮稔彦を強く推した。しかし、開戦に至った場合、皇族内閣だと責任が天皇に及ぶ可能性がある。貧乏くじは東條に押し付けようと、木戸幸一内大臣が東條を後継首相に推薦したのである。

東條が首相になった時には、もう誰が首相でも開戦も敗戦も避けられない、にっちもさっちもいかない状況だった。

●緒戦の勝利に世論は、東條を英雄として絶賛した。だがそれも束の間、戦況悪化で暮らしが苦しくなると、東條に非難が集中した。マスコミは東條を揶揄中傷した。

●そしてさらに自分に対する非難が高まってくると、反抗的な者を許せない狭量な性格が顕著になる。昭和18年元旦、朝日新聞に政治家・中野正剛のコラム「戦争宰相論」が載った。東條を名指ししてはいなかったが、「結局日本の名宰相は絶対強くなければならぬ」と暗に批判していたため、東條は激怒、記事を差し止めさせた。その後、東條は中野が倒閣工作を謀ったとして警視庁に逮捕させた。(5日後に釈放された中野は、その夜、抗議の割腹自殺を遂げた)

●東條は自分に従順な者で周囲を固め、批判的な言論は弾圧した。また、憲兵を使って国民生活の隅々まで監視する暗い社会を作ってしまった。  

●東條は戦争の途中で更迭された。このことだけでもヒトラーなどとは全く異なる。
東條の「独裁」とは、ルーズベルトやチャーチルにも見られた戦時体制の権力集中と大差ないものだった。
    《小林よしのり 「いわゆるA級戦犯」》


●東條は首相に任じられてから、和平に向かってがむしゃらに動いた。この豹変ぶりは、統帥部の部内日誌に「東條は変節した、まるで近衛と同じような意見を吐くに至った」と記されたことからも窺える。
また、優秀な外交官である東郷茂徳を外相に起用したところにも、その姿勢が見える。
       《竹田恒泰 Voice2008/1月号》


●東條は、戦時中も旅先で毎朝散歩に出ては、住宅街のごみ箱を覗いて歩く話は有名であった。残飯に魚の骨がある、国民の食生活はまだまだ悪くない、と安心するというのである。
        《深田祐介 「黎明の世紀」》
  (他著書「翼の時代 フカダ青年の戦後と恋」)


開戦を機に、東條が広範にわたる機能をその身に集中させたにもかかわらず、彼には依然として独裁的な権力はなく、彼をその地位に就けた各圧力団体の信任をつなぎとめておかねばならなかった。
     《クリストファー・ソーン
       「太平洋戦争とは何だったのか」》


●日本の場合、一番問題だったのは、本当の意味での戦時指導体制になっていなかったということである。
ドイツやソ連は終始独裁体制だったが、イギリス・アメリカも戦時中は国の首長がほぼ独裁的に国策を差配するシステムを作り上げ、実際に運用していた。

●日本にはそれがなかった。だから東條は内閣発足当時は陸軍大臣を兼任し、後に外務・文部・商工・軍需大臣、さらに参謀総長をも兼ねていくことで無理やり権限を束ねていくしかなかった。それでもなお不十分だった。
      《福田和也 文芸春秋2006/9月号》

●もしも東條がある種の覚悟なり責任感を持っていたならば、陸海軍の統帥権と国務とを全部兼ねるような非常大権を作り、その下で半ば独裁的に戦時指導にあたることもできただろう。しかし能吏で法に忠実な東條はそうはしなかったわけだし、もっと言えば昭和天皇はそのような逸脱をしないと踏んで東條を選んでいる。
            《保阪正康 〃 》


●情報省は緒戦の快進撃の下で東條の神格化に乗り出し、天才的指導者として国民に売り込もうと試みた。実際東條の写真は学校や工場・役場といった施設に飾られ、その言葉は重々しく朝礼や訓示といった機会に引用されていた。

●東條の連隊長時代、行軍演習の時には、体力のない兵士は落伍しないように短い道を歩かせ、折からの不況に除隊した兵士たちの再就職を世話する委員会を設置した。また陸軍大臣の時も、宮中からの下賜金を1円も私せず、全てスタッフに配った。

●東條の、この下の者に対する細やかさ、家族的感覚を、一国全体へ持ち出すとどうなるか。
石原莞爾は、家庭原理を軍隊に持ち込まなかった。同志的な交わりは、敢えて軍内で避けていた。(石原の方が能力も大きな視野も持っていた) だが、日本的組織においては、石原よりも東條も方がいい上司であり信頼と人気を集めがちである。 
           《福田和也 出典不明》
       (他著書「俺の大東亜代理戦争」)


もし東條はじめ軍部が独裁者だったら、自分に反対する者を何百何千人と殺しただろう。しかし東條はそんなことはしないで、詰め腹を切らされた。
     《竹山道雄 「恐れずおもねらず」》


●東條は海軍には口が出せず、サイパンが陥落したら首相を辞めて予備役に編入されている。ヒトラー並みの独裁者と呼ぶには、ちょっと買いかぶりすぎ。
        《伊藤隆 諸君!2006/6月号》


●東條1人で戦争に導いたようにいわれているが、それは東條が(開戦前)最後の総理であり、陸軍出身だったということから悪者にされただけのことだ。

   《佐藤早苗 「東条英機 封印された真実」》
  (他著書「特攻基地知覧始末記 特攻隊員異聞 」)


●最近発売された清瀬一郎主任弁護士が東京裁判での東條の発言をまとめた「東条英機宣誓供述書」によると、東條としては「組閣の大命を拝する」など「思いも及ばぬこと」で、近衛内閣の後継は東久邇宮内閣でなければ時局の収拾はつかぬと思っていたと述べている。

●これを裏付けるかのように、1983年に映画「東京裁判」を完成させた小林正樹監督は、「東條さんについては数多くのフィルムを見ていて感じたことがある。1つは首相に決まった時、いかにも自信のない顔をしていたこと」と語っていた。(「毎日グラフ」1983年8月21日号)
《上坂冬子「戦争を知らない人のための靖国問題」》
 (他著書「日本人よ、もっと悪人になりなさい 」)


戦前の首相は、閣僚を任命するが罷免権はない。閣僚全員一致がない場合、内閣は総辞職となる。岸信介1人が首相の罷免を拒否しただけで、東條内閣はあっけなく崩壊した。こんな独裁者などあるはずがない。

●日本の首相は、軍部に対する指導権は全くない。統帥権のため作戦上の機密には、首相兼陸相の東條でも関与できなかった。参謀総長兼務で悪名を流したが、独裁化というより戦争遂行上の処置であった。それでも海軍に関しては手が出ない。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などの作戦に、東條は関与できなかった。
          《九里幾久雄 産経新聞》
 (関連書籍「国会議員に読ませたい敗戦秘話」)


        



●東條はなりたくて陸軍大臣になったわけでも、総理になったわけでもない。あれだけ国家がどう行くかの瀬戸際のときだから、なりたいと思う人はいないのではないか。それに戦後になって、東條が非常に躊躇していたということを、奥様の勝子さんから聞いたことがある。 
       《瀬島龍三 「日本の証言」》
       (他著書「大東亜戦争の実相」)


●東條家の戦後十数年は大変なものだった。戦後の貧乏と食糧難は日本人ならみんな体験したことだが、民主主義になって解放された国民と違って、東條家は米軍からも日本人からも敵視され、解放どころか戦争中よりも悲惨であった。東條家には商品を売らないという食料店もあり、妻かつ子は庭を開墾して野菜も鶏も飼育して自給自足生活をした。それでも家族は東條の遺言「言い訳をしてはならない」という鉄則を守った。
  《佐藤早苗 「東條英機 封印された真実」》


●東條英機の嫡孫・岩浪由布子氏は、1994年8月号の「文芸春秋」で、敗戦後の東條家に対する世間の迫害ぶりに触れている。

◇東條の息子、つまり由布子氏の父は、復員してすぐに会社から辞職勧告を受け退職した。

◇小学校に入学した弟は、担任の女性教師に「東條君のお祖父さんは、泥棒よりも悪いことをしてきた人です」と級友の面前で言われた。

◇「東條の長男 一家皆殺し」の噂に追われるように引っ越した先では、東條の孫の担任になるのを、当初は教師全員が拒否した。…など。             
《櫻井よしこ「GHQ作成の情報操作書『眞相箱』の呪縛を解く 戦後日本人の歴史観はこうして歪められた 」》



開戦当初にもたらされた日本の大戦果は、東條を「今世紀の英雄」「救世主」へと一気に祭り上げた。一般国民は親しみを込めて彼を「東條さん」と呼んだ。
それが戦後になると一変。その名は呼び捨てにされ、死してなお厳しい批判にさらされている。


●妻かつ子によれば、苦しい家計の中でも部下が金に苦労していると知れば、東條はそれを都合してやったという。
       《笹幸恵 SAPIO 2008/11/12号》


●日独伊三国同盟を結んでいたときも、日本は同盟国ナチス・ドイツの反ユダヤ政策を八紘一宇の立場から批判していました。ユダヤ人を救った日本人というと、リトアニアでユダヤ人難民に6千枚のビザを発給した外交官の杉原千畝の名前がすぐあがりますが、それよりもっと大きな出来事があった。

●昭和13年3月、満洲国国境を接したソ連領のオトポール駅に2万人のユダヤ難民が押し寄せ、日本に救いを求めてきた。関東軍の傘下にあったハルピンの特務機関長、樋口季一郎少将と部下の安江仙弘大佐は、オトポール駅に緊急の救援列車を何本も送ってユダヤ難民を満州国と日本に送り込みました。

●それには当然、関東軍の許可が必要だった。それを許可したのが関東軍参謀長だった東條英機です。そして彼らに協力したのが当時の満鉄総裁、松岡洋右でした。
      《渡部昇一 WiLL2016/12月号》

●当時の日本はドイツと防共協定を結んでいましたから、ドイツから抗議がきた。しかし東條は「人道上の配慮によって行わたものである。日本はドイツの属国ではなく、満洲国は日本の属国ではない」と一蹴しました。実に立派な対応でした。
             《馬渕睦夫 〃 》

●死刑を宣告された東條が、実は2万人のユダヤ人を救った男だということ、日本がユダヤ人迫害を批判していたことを世界が知っていれば、果たして連合国は日本を裁けたでしょうか。

●杉原千畝はユダヤ人に対して勝手にビザを出したせいで外務省を辞めさせられたように世間では言っているけれど、そんなことはありません。戦後、外務省が規模を縮小したため退職勧告を受けただけです。杉原だけでなくても日本の外交官なら誰でも同じことをしたでしょう。
それを、ユダヤ人を助けたためにクビになったような言い方をするのは非常によくない。

●ポーランドから船に乗って逃げ出したユダヤ人たちはロンドンで受け入れられず、ニューヨークでも上陸できずにやむなく戻ってきた。彼らを待っていたのはアウシュヴィッツでした。
そういう時代に日本政府は断固としてユダヤ人迫害に反対した。そんな国は先進国では日本だけだったはずです。

●樋口季一郎は敗戦後も千島列島でソ連軍と戦った。そのためスターリンは樋口を戦犯に指名しました。
それを聞いた世界ユダヤ協会が世界中のユダヤ人社会に働きかけて救出運動を展開した結果、マッカーサーはソ連の引き渡し要求を拒否して樋口を保護したのです。日本人も忘れているそういうエピソードも広く知らせたいですね。《渡部》

※こういう人物たちでも、朝日や左翼、中国・韓国にいわせると「ヒトラーに匹敵する極悪人」ということになる。
参考に「日本人の平和観」も見てね。(管理者)








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私も喜んで大空に散っていきます。