慰安婦連行の実態強制連行でなかったら、
どうやって慰安婦を集めたのか。 |
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●慰安婦募集の実態は、朝鮮人ブローカーが娘を身売りした親と業者を仲介する合法的な商行為だった。そして業者が戦地に慰安所を開き、軍が性病の検診や輸送の便宜をはかったもので、官憲が「強制連行」に乗り出す必要はなかった。 《秦郁彦 産経新聞2007/3/11》 ●戦時中、朝鮮で発行された新聞には、「軍慰安婦募集」の広告も残されている。そして戦前・戦時に日本では公娼制度のもと遊郭が公認され、そこから日本人慰安婦も前線に動員された。 《青山昌史 正論2005/5月号》 ●昔は女買いが村々へ来て、「娘さん、150円でどうですか」とか「なかなか美人だから、200円貸してあげますよ」と言って集めていた。150円もらったら、借金のある人は田んぼ1反(300坪)を買い戻せる。あるいは売らずにすむ。 《日下公人 「一問に百答」》 ●戦時中まで軍隊の近くに売春宿があったのは事実で、外国に駐在した際には民間の売春業者が店を開いていた。売春婦の多くは、国内よりもたくさん稼げるということで外地に出ていった。そうしたことが公然と行われていた時代だった。 《屋山太郎 「なぜ中韓になめられるのか」》 ●往時、売春への出稼ぎは高収入があって応募者も珍しくなく、日本人にもたくさんいた。悲しいことだがそれが現実である。戦前だけではない。戦後の基地ヨコスカにも朝鮮戦争当時は5千人の慰安婦が存在した。(「横須賀市史」) 《石井英夫 産経抄「それから三年2001~2003」 他の著書「コラムばか一代」》 ●1970年代後半、私が韓国に留学した頃、韓国はまだまだ貧しくて、当時でも韓国の映画館では田舎から出てきた少女が騙されて私娼窟に売られ、そこで苦労して誰かと恋愛して、というストーリーの映画がたくさん公開されていた。そういうふうに貧困を原因とする売春というものが、韓国社会の中である種の位置を占めていたことは確か。戦前には遊郭などもあった。 《西岡力 「日韓『歴史問題』の真実」 他の著書「よくわかる慰安婦問題増補新版」》 ●慰安婦募集広告の例①
●慰安婦募集広告の例②
(「毎日新報」1944年10月27日に掲載) 《秦郁彦 諸君!2007/5月号》 ●昭和32年に売春防止法が施行されるまで、日本では娼妓の登録制、稼業場所の許可、健康診断の義務など一定の規制の下で売春は合法だった。公認の貸座敷地域は国内各地にあったが、朝鮮でも現在のソウルをはじめ釜山・平壌など主な都会にはどこにもあった。そこでは日本人女性も朝鮮人女性も多数働いていた。 ●戦地の慰安所も概ねこの延長線上にあったものと思う。この経営者たちが女性を連れて戦地に行き、施設・移送・衛生管理などについて軍の便宜供与を受けて営業していたのが実態であったと思う。 《大師堂経慰 正論2007/5月号》 ●日本軍の慰安婦に関して戦時中に調査に当たった米国陸軍の報告書に、女性たちは民間業者に「一定の契約条件の下に雇用された」と明記されていることが判明した。「前線地区での日本軍売春宿」と題された同報告書は米陸軍戦争情報局心理戦争班により、第二次大戦中の1944年9月に作成され、米軍の「南東アジア翻訳尋問センター」の同年11月付の尋問報告書に盛りこまれていた。73年に解禁され、近年も日米の一部研究者の間で知られてきた。 ●当時のソウルで金銭と引き換えに徴募され、ビルマ北部のミッチナ(当時の日本側呼称ミイトキーナ)地区の「キョウエイ」という名の慰安所で、日本軍将兵に性を提供していた朝鮮人女性20人と、同慰安所経営者の41歳の日本人男性が米軍の捕虜となった。同報告書はこの男性の尋問を主に作成されたという。同報告書は「すべての『慰安婦』は以下のような契約条件の下に雇用されていた」と明記し、女性たちが基本的には商業ベースで「契約」に基づき「雇われていた」という認識を示している。 ●同報告書はその契約条件について、次のように記していた…
◇個々の慰安婦はその総売り上げの50%を受け取り、無料の移動、食糧、医療を与えられた。 ◇移動と医療は軍から供与され、食糧は慰安所経営者が軍の支援を得て、購入していた。 ◇経営者たちは衣類、日常必需品、さらにはぜいたく品を法外な値段で慰安婦たちに売りつけ、利益をあげていた。 ◇慰安婦の女性がその家族に支払われた金額を利子付きで返済できるようになれば、朝鮮への無料の帰還の便宜を与えられ、自由の身になったとみなされることになっていた。 だが戦争の状況のために、このグループの女性はだれも帰国を許されなかった。 ◇この日本人が経営した慰安所では女性1人の2ヵ月の総売り上げは最大1,500円、最小300円程度だった。個々の女性は経営者に毎月最低150円は払わねばならなかった。 ●以上のように、この報告書は「軍の強制徴用」とか「性的奴隷化」とは異なる認識を、当時の米軍当局が有していたことを証している。 《古森義久 産経新聞2007/5/18》 ●同報告書には「月平均1,500円の総収入を上げ(債務者の)マスターに750円を返還する」との記述がある。日本軍曹の月給は30円。したがって慰安婦はその25倍稼いでいた! 《茂木弘道 正論2007/7月号》 ●昭和初期から太平洋戦争までの時代、日本は貧しくて、多くの子どもたちが尋常小学校にも行けなかった。家族を支えるために上の娘が犠牲になって、大勢売られていった。そんな時代だから、御用商人が慰安婦を募集すると、規制するほど大勢の志願者が押し寄せてきた。朝鮮の御用商人など軍に品物を納めるとき、こんなことを言っていた。「慰安婦になりたがる娘が多くて困ります。しかし、誰でも良いというわけにはいかないのです」 《相川平松(元日本軍憲兵) 財界にいがた2007/6月号》 ●当時の朝鮮は、日本と比較にならないほど生活水準が低かった。殆どの人が極貧層である。そうなると自発的に「慰安婦」になる人々が出現する。当時は売春は合法だったし、儲かる商売だった。「関東軍女子特殊軍属服務規定」によると、「女子特殊軍属」すなわち「慰安婦」の月給は、信じがたいことに800円であった。(巡査の初任給45円、陸海軍の大将の月給が550円だから、破格であった。当時500円で家が買えた) 《小室直樹 「日本国民に告ぐ」》 ●戦前期の日本内地と朝鮮半島の公娼統計(内地は『昭和国勢要覧』、朝鮮半島は『朝鮮総督府統計年報』)によると、公娼の多くは親が前借金という名目で娘を公認の斡旋業者(女衒)経由で楼主に売る、いわゆる「身売り」の犠牲者であり、その背景は広義の貧困であった。 しかしひと言で貧困といっても実態は多様で、彼女たちは身上調査などではむしろ「家庭の事情」(1936年の調査で99.6%)と答えていたようである。 ●親や兄弟の借金、死亡、病気、学資稼ぎから本人の失恋、破婚、だましまで各人各様だが、子が親や兄弟の犠牲になるのは当然と受け止める時代でもあった。 ●また人身売買は禁止されていたので、契約上は女が独立して楼主から座敷を借りて営業する体裁をとるが、前借金を返済するまでは、親が連帯保証人なので、勝手に辞めるのは困難だった。 《秦郁彦 正論2013/8月号》 ●韓国を建国した李承晩大統領は、反日を反共と並べる国家スローガンとし、日本との国交交渉においても植民地支配の不当性を強調しつつ、多額の補償金を要求していた。 ●その李大統領ですら、日本との外交交渉で慰安婦については一切言及していない。慰安婦がいたということは知っている。当時の人たちはみんな知っていたけれど、慰安婦を外交交渉にあげて日本から金を取るということは、あの李ですら考えなかった。李大統領が補償を求めたのは、徴兵と徴用である。権力によって連れて行かれた者の未払いの賃金と補償は、当然日本政府の責任と考えたからだ。 …つまり、貧困による悲劇だとみんな知っていたから、問題にされなかったのだ。 《西岡力 「よくわかる慰安婦問題」》 【11月4日更新】 ●72年に初めて韓国に行ったが、ここは売春大国だと感じた。女性たちが売春することは当たり前という国だったということを認めなければいけない。国営のキーセンハウスがあった。あんたたちには言われたくないと思う。 今でも、韓国政府の発表だが、韓国内に売春婦が20万人以上、日本国内には5万人以上がいる。 《水島総 チャンネル桜2014/3/29》 ●韓国の女性国会議員が、GDPの5%が売春関連だと言っていた。朝鮮戦争のとき、政府が4軒、陸軍直営の売春宿も4軒、営業していた。 ●海外に出ている売春婦が10万人。アメリカで逮捕される外国人売春婦の4人に1人は韓国人だという。オーストラリアは5人に1人。そのデータはきちんと出ている。 《水間政憲 〃 》 ●もともと韓国は売春には寛容な国だ。外貨獲得のため「キーセン(妓生)観光」で、国家ぐるみで売春を行なってきた。ソウル五輪(1988年)でもキーセンパーティーが観光客誘致に一役買ったことをご記憶の方も多いだろう。 売春が法で禁じられたのも日本と比べ物にならないくらいに遅く、2004年(日本は1956年)になってからだ。これに反発した風俗営業に関わる女性たちがソウルや釜山で抗議のデモをするお国柄である。 《山際澄夫 「すべては朝日新聞から始まった「慰安婦問題」」》 |
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【従軍慰安婦】 ★慰安婦強制連行の嘘/もう完全に論破されている ★河野談話/韓国とのいい加減な妥協の産物 ★慰安婦問題を煽動する者/朝日新聞と左翼の連携作戦 ★慰安婦連行の実態/いくらでも募集できたので強制など必要なかった ★慰安婦に対する軍の関与/彼女たちを守るための関与 ★慰安婦の日常/豊かで楽しそうだった彼女たち ★他国の慰安婦/日本以上に酷い実情 |