慰安婦の日常慰安婦は日本の将兵から日々、
筆舌に尽し難いほどの 苦難を受けた「性奴隷」だった、 と諸外国では認識されている。 |
●昭和19年12月に、私がシンガポール経由でジャワから門司に帰国した時に最初に乗ったのが、朝鮮人慰安婦と同じ貨物船の船底だった。彼女たちも日本に帰るところだったのだろう。私はその時、悲壮感もなく楽しげに談笑している彼女らにとても好感を持った。 《鶴見俊輔 「対論・異色昭和史」》 ●休日ともなると、慰安婦たちが営門のそばや沿道にきて、兵隊たちを待っている。兵隊がやってくると、慰安婦たちはいそいそと近づき、袖を引いて慰安所に連れていく。むしろ慰安婦側で店を構えて日本軍を待っていたというのが実態である。 ●慰安婦たちもカネを貯めて、郷里の家族に仕送りをしていた。おかげで慰安婦たちの実家が裕福になったという話を御用商人から聞いたことがある。
《相川平松(元日本軍憲兵) 財界にいがた 2007/6月号》 ●1992年3月、名乗り出た元慰安婦・文玉珠が訪日し、軍事郵便貯金の払い戻し請求を行った。文は1942年から44年までビルマで慰安婦生活をしたが、その間に軍人からもらった現金などを現地部隊の軍事郵便局に預けた。通帳は紛失したが、6~7千円残っているはずだから払い戻してほしいと、下関郵便局に請求したというものだ。 ●その後、郵便局側が調査したところ、92年5月11日に軍事貯金の原簿が発見された。原簿によると、残高は26,145円となっていた。当時、5千円あれば東京で家一軒買えたというから、彼女の貯金は家5軒分なのだ。これがセックス・スレイブの生活だろうか。しかし、新聞の扱いは大変小さかった。あれほど慰安婦問題に熱心な朝日は、残高がいくらだったかを報じなかった。 《西岡力 「よくわかる慰安婦問題」》 ●たとえ一晩だけでの付き合いでも、兵隊と慰安婦が互いに敬意と親しみを感じる、そういうことがざらにあったんです。兵隊は戦闘で明日には死んでしまうかもしれない。そんななかで、喜びと悲しみを分かちあってくれたのが彼女たちだった。 ●兵隊と慰安婦が意気投合して一緒に逃げたりすることもありましたが、そういうときはたいがい中国女性でした。中国の女性は日本兵になじまないけれど、一度なじむと一切を賭ける。その点、朝鮮の女性は献身的だけど、日本兵に芯から溺れることはなかったですね。お金を稼いで、その後、結婚するというのが彼女たちのほとんどの夢でした。 ●戦場慰安婦というのは兵隊と同じ。兵隊の仲間なんです。本当に大事な存在だったんですね。…兵隊たちは黙って働き、多くは黙って死にました。慰安婦たちは悲劇的な不条理のなかで生きたし、兵隊たちももっと不条理のなかで生き、死んでいかなければならなかった。だからお互い心が通い合うこともあった。彼女たちとの思い出を胸に死んでいった兵隊もある。 《伊藤桂一 「若き世代に語る日中戦争」》 (他著書「螢の河 名作戦記 」) ●慰安婦の中には、3年足らずで5万円(今の価値にすると5億円!)も稼いでいる者もいた。べらぼうに儲かる仕事だった。兵士と意気投合して結婚した例もある。 《谷沢永一 渡部昇一 「拝啓 韓国、中国、ロシア、アメリカ合衆国殿―日本に「戦争責任」なし」》 (他著書「歴史が遺してくれた 日本人の誇り」) ●婦女子に暴行を犯した軍人は、軍法会議にかけられて必ず監獄に入れられた。それから漏れる幾つかの例はあるかもしれないが、基本的には軍法会議ものである。 《中野正志 「歴史教科書への疑問 若手国会議員による歴史教科書問題の総括」》 ●米戦時情報局心理作戦班が、1944年夏、北ビルマのミチナで逃げ遅れて捕虜になった、朝鮮人慰安婦と日本人の業者夫婦に尋問した記録…将軍よりも多い高収入/前借金を1年間で返済して帰国した者もいた/現在の物価に換算して1千万円以上の大金を家族へ送金した者/休日には町へ買い物へ出かけた/「接客を断る権利」も認められていた…など。戦場であるがゆえの高リスク・高収入。 《秦郁彦 「現代史の争点」》 (他著書「慰安婦問題の決算 現代史の深淵」) ●慰安婦問題の結論(7年間の研究のまとめ)… ①慰安所には軍専用と軍民共用の2種があった。 ②軍専用慰安所にいた慰安婦の総数は1万数千人。 ③慰安婦の民族別では内地人(日本人)が最多。 ④戦地慰安所の生活条件は、平時の遊郭と同じレベルだった。 ⑤軍を含む官憲の組織的な「強制連行」はなかった。 ⑥慰安婦の95%以上が生還した。 ⑦主要各国の軍隊における性事情は、第二次大戦時の日本軍と相似している。 ⑧慰安婦たちへの生活保護は、他の戦争犠牲者より手厚い。 《秦郁彦 「現代史の対決」》 ●満州では、軍自らが作り管理する慰安所もあった。(「満州第十八部隊」と名付けられた) そこでは、壁に掛かっている慰安婦の外套の襟には軍属のマークが縫いつけられていた。判任官のものだったから、上等兵より階級は上だった。嫌な客は断ることができるし、兵隊たちは女性たちの機嫌をとり、乱暴せず、節度ある態度で遊んだそうである。 《伊藤桂一 諸君!2007/8月号》 ●ミートキーナで日本軍が撤退して残った慰安所に、米国の心理作戦チームが入って慰安婦にインタビューした資料が残っている… ◇休みには兵隊とピクニックに出かけた。 ◇一人一部屋が与えられて、ラジオがあった。 ●当時の軍医から直接聞いた話だが、慰安婦が性病検査の時、「マルつけて」と盛んに言ってくるという。 つまり、検査で×をつけられると慰安婦としての仕事ができなくなるからということ。だから軽い性病だったら薬をちゃんと飲むことを条件に○をつけてやると、彼女らは大喜びしていたという。 《小山和伸 チャンネル桜2013/9/27》 ●慰安婦たちは、経済的に苦しいとか、職がなくてその仕事を選んだ人たちです。というより、日本軍が高い給料を提示して集めたという方が当たっているかもしれません。なぜなら、慰安婦たちは結構優雅な生活をしていて、仕事以外でもうっすらと化粧をして買い物に出たり、おしゃべりをしたりしていました。 《元陸軍歩兵中隊上等兵・和田明(仮名93) SAPIO 2013/9月号》 ●1944(昭和19)年の秋に、中国とビルマの国境にあった拉孟要塞で起こった出来事は、特筆に値する。 米軍指揮下の支那軍5万人が、1200名の日本将兵が守る要塞を攻めた。慰安婦も、要塞へ逃げ込んだ。戦闘は4ヵ月に及んだが、玉砕より道はなかった。 ●守備隊長は慰安婦に、山を降りて投降することを勧めた。20人の慰安婦のうち、日本人女性15人は要塞に残り、全滅した。 5人の朝鮮人慰安婦は、守備隊長に「日本人でなければ、殺されない」と諭され、山を降りて米軍に保護された。 《ヘンリー・S・ストークス 「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄 」》 …本サイト読者『猫好き』さんからの情報提供です。(管理者) ●日本文藝家協会の会報に、ラバウルのコリアン従軍慰安婦の思い出を書いた会員がいた。 慰安所に行列する兵士たちの下腹部は血管が脈打っている。部屋に入ってハイどーぞと裾を捲ってチラと黒いものが見えただけで果ててしまう。あれは、さほどの重労働ではなかった。 ●命令受領のため軍用機で内地に帰る者がいると、「済まないけど、これを郵便局でこの番号に振り込んで下さい」とカネを渡された。家一軒だか借家一軒だかを買える金額だった、という戦時追想であった。 ●ラバウルで、兵も慰安婦も、カネを持っていた。そしてカネは、サイゴンでも無用の長物だった。いつ追撃砲弾が飛んできて死ぬかもしれない町に住んでいると、人はカネをチビチビと遣う気になれなくなる。貯めるなんて以ての外。刹那のことに散じてしまう。 ●若く健康な男が、家に女房を置いて戦地に派遣される。怖いが、ともかく一日は無事に過ぎ、その日の仕事は終わった。カネはある。あなたは、そういう男どもから何を期待するのか。 《徳岡孝夫 「『民主主義』を疑え!」》 (他著書「ニュース一人旅」) ●慰安所における彼女たちの生活状況については、第三者の調査による信頼度の高い情報源として、北ビルマで捕らえられた朝鮮人慰安婦に対する米軍報告書から要点を引用してみよう… ◇「欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった」 ◇「将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しくすごし、またピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された」 ◇「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」 ◇「(借金を返済した)慰安婦は朝鮮に帰ることを許された」 ◇「(兵士からの)結婚申し込みの事例はたくさんあり」 ◇「稼ぎの総額の50ないし60%を受け取って…慰安婦は楼主に(月額1,500円のうち)750円を渡していた」 ●何よりも月収750円といえば、兵士の約70倍、日赤看護婦の約10倍、ビルマ方面軍司令官(年俸5,800円)よりも高く、内閣総理大臣(年棒9,600円)とほぼ同額の高額所得者だ。それを性奴隷と呼ぶのは失礼ではあるまいか。 《秦郁彦 正論2013/8月号》 ●私は、ワシントンの国立公文書館から、1944年8月にアメリカ軍がビルマ(現ミャンマー)のミートキーナ陥落後の掃討作戦で捕らえられた朝鮮人慰安婦20人に対する尋問報告書を取り寄せた。私がここで「救出」ではなく「捕らえた」といったのは、彼女たちが日本軍と逃げていたから。細かいようだが、この点は重要である。 報告書には「この高給取りの慰安婦は『売春婦』だった」とか、「日本や西欧の基準に照らしても彼女たちは綺麗じゃない」とまで書かれていた。 ●戦中は日本軍も米軍も、自軍に有利に働くことに対してはプロパガンダに利用していた。日本軍の慰安所で働いていた「慰安婦」「売春婦」を捕まえたわけだから、アメリカ軍は「日本軍に売春を強要されていた!」「日本人はどれだけ酷い奴らかわかるだろう!」と戦時プロパガンダにも使えたはず。ところが、いくら調べても「慰安婦=高給取りの売春婦だ」「彼女たちは美人じゃなかった」としか書けなかったわけだ。 ●慰安婦のなかには、こんな不平を言っている人もいる。日本の兵士との時間が足りなくて全ての兵士たちを迎え入れることができず、「来てくれる兵士たちみんなに奉仕できなくて残念だ」と。 《トニー・マラーノ WiLL2014/9月号》 ●去年8月、韓国で『日本軍慰安婦管理人の日記』(イスプ社刊)という本が発売され、大きな話題となった。日記はビルマとシンガポールの慰安所の「帳場」で働いた朴氏によるものである。その内容は… ◇「朝、インセンの村山氏宅で起き、朝ご飯を食べ終日遊んですごした。営業できず遊んですごすのだから慰安婦たちも退屈でたまらなく、主人側も外出もできないので身もだえてしまう」(昭和18年8月4日) ◇「鉄道部隊で映画があり、慰安婦たちが見てきた」(同8月13日) ◇「横浜正金銀行に行って、村山氏の慰安所の慰安婦二人の貯金をした」(同6月2日) ◇「慰安婦に頼まれた送金600円(注:現在では300万円以上)を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った」(昭和19年10月27日) ●確かに慰安所は軍政の中で管理された面がある。だがこの日記からは、軍が直接、経営に参画していることは読み取れない。通して読んでみると、出てくる慰安所はただの買春宿である。もちろん朴氏が働いた3つの買春宿のことでしかなく、これをもって全てを語ることはできない。 《崔吉城 新潮45 2014年9月号》 …朝日新聞よ、いつも「報道の自由」を叫んでいるが、それならば全ての情報を報道する義務がある。都合の悪いものは「報道しない自由?」で隠すつもりか!ここに列記してある類の報道は、朝日ではまったくお目にかかれない。これらは全部ウソだとでもいうのか。(管理者) ●18歳ぐらいのものすごい真面目な少年が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で40歳の慰安婦を抱いて、わずか1時間でも慰めてもらう、そのことにすごく感謝している。 ●そういうことは実際にあったんです。この1時間の持っている意味は大きい。私はそれを愛だと思う。私が不良少年出身だから、そう考えるということもあるでしょう。でも私はここを一歩もゆずりたくない。 《鶴見俊輔 「期待と回想 」》 【2017年1月6日更新】 ●戦時中に国境を越える移動には、東南アジアでは日本軍の証明書が必要で、サイゴンでまた一計を案じて、文玉珠さんと仲間たちは、「日本軍が出入りしているキャバレーで海軍のパイロット数人に『朝鮮に帰りたくないので、ラングーンにまた戻りたいのですが、証明書をもらうためには、どうしたらいいでしょうか』と事情を話して、頼んでみた。 ●『自分たちにはできないけれど、司令部にいけば書いてもらえるだろう。そこを紹介してあげるからしばらく遊んでいきなさい』…おかげで証明書がもらえた」(元朝鮮人慰安婦の文玉珠さんの著書『文玉珠ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』 梨の木舎 より)とし、その間「わたしはサイゴンでレインコートを買ったのを憶えている。そのレインコートはフランス製で、緑色がとても鮮やかだった。…ワニ皮の揃いのハンドバッグとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな格好でサイゴンの街を闊歩した」(同書)と綴っています。 ●そして、ラングーンまでの帰り途は汽車の大旅行で、途中、証明書を見せると軍人が「木の箱に握り飯と梅干しを持って待っている」(同書)などと、配慮されたことを得意げに語っていました。 ●慰安婦4名がラングーンからタイ、そしてサイゴンへ。踵を返してサイゴンからラングーンの慰安所に自由意思で戻っていたのです。これが現在、国際的に「性奴隷」と批判されている慰安婦の実態だったのです。 《水間政憲 「ひと目でわかる『慰安婦問題』の真実」》 |
【従軍慰安婦】 ★慰安婦強制連行の嘘/もう完全に論破されている ★河野談話/韓国とのいい加減な妥協の産物 ★慰安婦問題を煽動する者/朝日新聞と左翼の連携作戦 ★慰安婦連行の実態/いくらでも募集できたので強制など必要なかった ★慰安婦に対する軍の関与/彼女たちを守るための関与 ★慰安婦の日常/豊かで楽しそうだった彼女たち ★他国の慰安婦/日本以上に酷い実情 |