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他国の慰安婦②

  ②

従軍慰安婦問題で日本を責める韓国。
彼らの軍隊は終戦直後、
どんな暴虐を日本人に振るったのか。
これは事実である。


●戦後、引揚の日本人女性を襲った朝鮮人による「集団強姦」事件…
終戦当時、朝鮮北部の興南に住んでいた鎌田正二氏は、月刊誌『潮』(71年8月号)で、「ソ連兵や朝鮮保安隊の掠奪と横暴は、残酷をきわめた。夜なかに雨戸を蹴やぶって侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙も枯れはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった」と証言している。

●終戦当時、京城帝国大学医学部の日本人教授らとともに、避難民の救助活動を行っていた医学部生、石田一郎氏の手記を紹介する。
「北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦のすえやっと三十八度近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達がつぎつぎにまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引渡されてさらに散々に辱しめられたうえ、虐殺されている光景であった。折角ここまで連れてはきたが、最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不憫に思い、近くの林の中の松の木に縊って自決させ、これはその遺髪ですといって私に見せてくれた」(『ある戦後史の序章』西日本図書館コンサルタント協会編纂)

●11歳の時、朝鮮北部から命からがら京城に脱出した日系米国人作家、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(旧名・川嶋擁子)さんは、自伝『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』(ハート出版刊)で次のように語っている。
「私たちが京城に来て五週間経ったある日、好(姉)が深刻な事態を知らせた。『私たちは京城を出なければいけない。朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずって行くのを見たし、若い女性に乱暴しているのも見たわ』」
当時16歳だった姉の好さんは震える声でそう話し、自分の頭髪を剃るよう母に求めたという。

●その後、京城を離れ釜山に到着したヨーコさん自身も、日本への船を待つ間に待機を命じられた倉庫で、暴行の現場を目撃した。
「建物の端に六つの便所があったが、ドアもなく男女の区別もなかった。私たちの前にいた女性が戸惑いながらズボンとパンツを下ろしてしゃがんだ(中略) 彼女は出てきて戻っていった。すると、突然、助けを求めて金切り声を上げた。振り返ると、列の終わりで朝鮮人の男、四人が彼女を捕まえていた。だが、自分たちも危ないので、私も母も何もできなかった」

●引揚の記録をありのままに綴った同書は、1986年に米国で出版され、後に一部の州で中学校の教材になった。だが、韓国人と韓国系米国人がこれも猛反発。執拗な抗議行動を繰り返し、韓国外交通通商部が州政府に是正を求める事態に発展した。実は同書は、2005年に韓国でも翻訳出版されているが、こちらも発売禁止に追い込まれている。

●在留邦人、引揚者を襲った悲劇の痕跡は、日本国内にも残されていた。福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にかつて存在した『二日市保養所』の存在だ。この保養所は、引揚の途中に朝鮮人らに犯され妊娠した女性の救済施設---堕胎手術を秘密裏に行う病院だった。

●同施設の医務主任・橋爪将氏による46年6月10日付の報告書によれば、施設の開設から2か月間で強姦被害者47人を治療し、加害者男性の国籍内訳は「朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人」だった。47年の施設閉鎖まで、堕胎手術件数は500件に及んだという。
…戦時中の日本人の残虐性を世界中で訴えている韓国人は、この事実をどう受け止めるのだろうか。
    《編集部 SAPIO 2015/10月号》


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