日米交渉日本はアメリカとの戦争を回避するため
懸命な交渉を行なってきた。しかし… |
●日本は戦争の準備は進めるが、できることなら外交で開戦は回避したいと望んでいた。東條軍人内閣を成立させたのは、交戦を主張する軍部を抑え込み、日米交渉を妥結させるためだった。 ●昭和天皇より、何よりも外交努力を行うよう勅命を受けた東條首相は、外交に全精力を傾ける決意をし、9月6日の御前会議の決定を白紙に戻し、外相に非戦論者の東郷茂徳を起用した。 《前野徹 「戦後歴史の真実」》 ●日本は経済制裁をされたあとも、アメリカとの戦争を防ぐために、陸軍に対して強い力を持つ東條を、毒をもって毒を制すということでわざわざ首相に選んで、戦争をしないための政策を一所懸命考えた。 ●それで甲案・乙案と出して、もうこれ以上の妥協はないというところまで妥協した。南北仏印まで行っているけれども、それも引き返すということも、ちゃんと甲案・乙案で出してしまっている。 ●つまり、日本海軍がヒトカップ湾を出たのは御前会議で決定したことだし、日米交渉がまとまったら引き返すことにしていたけれども、まとまらなかったから真珠湾攻撃したわけだから、軍の暴走という話ではない。経済制裁をされたから日本は懸命に交渉をし、どんどん妥協をし始めたわけだ。 《小林よしのり 「本日の雑談」》 (他著書「いわゆるA級戦犯」) ●日米間で問題になっていたのは… ◇三国同盟 : ルーズベルトはアメリカがヨーロッパ戦争に参加した場合、日本がこの同盟の義務で背後を突いてくることを、つまり太平洋方面で日本が戦争を起こすことを憂慮していた。 ◇南進政策 : ルーズベルトはチャーチルとの「大西洋憲章」の洋上会談で、日本の南進の動きに対しての米英の協力についても話し合っている。 ◇中国問題 : 日本は、ルーズベルトが手を貸してくれて日中の和解ができれば、という甘い観測を持っていた。 《細谷千博 中央公論2007年12月号》 ●三国同盟を結んだのは、その前に防共協定があったから。共産国家に対する危惧、国を守ろうということで日本もドイツも一致したから結んだ。 《中村粲 「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」》 日本に開戦回避の意志無しとの意見について… ●日米交渉においてアメリカは、まず三国同盟を破棄せよと迫る。日本はこの要求になんとか沿おうと苦心する。すなわちアメリカの要求を満足させながら、しかも独伊に対して条約不履行の非難を受けないように、というので3回にわたって提案がなされた。 ●そしてついに日本は、日本の自主性が第一義で、日本は自主性を曲げてまで独伊の指図は受けない旨を言明したのである。事実上の条約の死文化である。これに対してハル長官は「日本政府のとられた措置を多とする」と、満足の意を表明している。 ●日本政府は交渉の過程で、かつて近衛が発した「蒋介石を相手とせず」という声明を取り消し、将来の中国政府は中国国民の決定に待つことを明らかにし、汪政権支持一本槍を放棄したのである。 ●そのうえ、アメリカ側の最も強い要求である仏印からの撤退も承認し、さらに中国本土から期限付きで陸海軍を撤退することについて、協定を結ぶ用意のあることを言明したのである。このときもハルは「日本案は徐々にその範囲を狭めてきた」といって満足の意を表しているのである。 …このような一連の事実を見ても、東京裁判判決のように「日本側に全然誠意がなかった」「一歩も譲らずに戦争準備の時間を稼いだ」などとどうして言えるだろうか。 《田中正明 「パール判事の日本無罪論」》 ⇩ しかし、この後に突然アメリカから「ハル・ノート」が提示される。 |
【日米開戦】 ★日本の大義/戦後もアジアで継続された東亜の解放 ★対日経済制裁/それはすでに戦争行為だった ★日本軍の仏印進駐/あくまでも自衛措置 ★日米交渉/戦争回避を望む日本と開戦を目論むアメリカ ★ハルノート/交渉をぶち壊した最後通告 ★真珠湾攻撃/騙まし討ちというプロパガンダ |