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護憲派に対して

何があっても憲法を変えてはいけない、
とにかく「ダメなものダメ!」という護憲派。
彼らの頑ななまでの態度に対して、
改憲論者が一喝する。


護憲論者にこう問いたい。戦前の日本がアジアを「侵略」したというが、それを排除したのが結局は連合国の軍事力だという現実をどう説明するのか。そのままだったら「アジアの人民」は日本の「侵略」の下に置かれ続けただろうが、それでも実力の行使は一切許されないというのか。

●武力がなければ中立維持は困難となる。日本が他国の戦争に関わらない方針をとると、他国間の戦争では局外中立となる。中立国には国際法で一定の義務がある。

避止義務…交戦国に軍需品を供与してはならない。
   →この義務は果たせる。

黙認義務…戦時禁制品が没収されたりしても、その不利益を甘受しなければならない。
   →同様。

防止義務…交戦国の一方に日本の領土を利用させると他の交戦国に重大な不利益となるので、それをさせない義務。例えば中国と台湾が軍事的緊張状態になった場合、双方とも沖縄を押さえると軍事的に優位に立てる。日本が戦争に関与したくないというなら、沖縄の利用を阻止しなければならない。
   →この義務をまともな軍隊を持たずしてどうして果たすのか。

      《加藤秀治郎 諸君!2006年6月号》


●かつて私は「中央公論」(平成4年5月号)に、「憲法はいまのままでいいかと思うかと、国民に問いかけてはどうか」と書いただけで、新潟市主催の講演会をキャンセルされた。

●社会党の新潟支部委員長と市民連合議員団長、それに共産党市議団長らが、平和憲法に横やりを入れるような講師を招くなと市長に申し出たためで、結果として私は言論の自由を奪われている。
      《上坂冬子 産経新聞2005/7/21》


●要は国民の安全のために何をすべきかであって、憲法残って国亡ぶでは喜劇にもならない。「初めに憲法ありき」ではない。

 《稲垣武 「『悪魔祓い』の現在史」》
  (他著書「このヒジョ-シキが日本を滅ぼす」)



●一国平和卑怯者は、防衛費分払わないでいいから、そのかわり有事の時は一切護ってもらえないという制度にすればいい。
   《勝谷誠彦 「帰ってきたバカとの闘い」》


世界の原則が未だに闘争であることを、日本人は承認しない。人間の醜さと最悪のケースを予想しないで生きるということは、人間の未熟さを示すことなのだが、日本人はそれを未熟とも思わずに生きて来られたのである。

●日本の戦後教育は「誰のためにも命を捨ててはならない」ことを、当然で最上の人間の徳と権利として教えた。しかし世界中には、信仰ゆえに全く逆の美学を持つ人も決して少なくないのである。

   《曽野綾子 「人はなぜ戦いに行くのか」》
    (他著書「人間にとって成熟とは何か」)


●護憲派も一昔前までは、日本が侵略を受けても無抵抗を貫けば、その崇高な心根に打たれて侵略国が退散するとか、日本国民は平和憲法に殉じて死ぬべきだ、とかの神がかり的なものが主流だったが、国民もだんだん夢物語には騙されなくなったので、最近は一見まともな理屈を並べる「修正派」が多くなってきた。

       《軽手思庵 諸君!2006年10月号》


●地べたに坐り込んで「注射いやいや」している幼児みたいに、「私」に閉じこもっているのは「思想」じゃない。
      《小林よしのり 「国家と戦争」》


●私は非武装中立という「極」自体が、あまり意味がないと思っている。その話になれば、改憲論は「戦争をできる国に」とか「戦争をしたがっている」という話になり、「非武装中立論だけが平和に向かっている」という、おこがましい話になる。改憲論も護憲論も非武装中立論も、いかに平和を維持していくかという前提で話をしているのである。

●竹島・尖閣などの海洋権益は、日本が非武装中立になったら、外交的な話し合い抜きに向こうが実効支配してくることは間違いない。中間線・大陸棚の問題も同様。

●護憲派は「もしも」を過度の前提にしゃべっているというが、安全保障は仮定の話を前提にするのだ。もしもの場合、万が一の場合に備えるために今の自衛隊があると、多くの国民が認識している。

      《前原誠司 週刊金曜日2006/9/32》


●相手がどうでるか考えないで、一方的宣言だけでことがかたづくとするこのような発想は、欧米諸国にはとうていみられないのではあるまいか。
  《鯖田豊之
   「日本人の戦争観はなぜ「特異」なのか」》


平和は欲しいが平和を守るための力はいらない。これは、健康は欲しいが体を鍛えるのはいやだ、と言っているようなものだ。
       《林建良 「靖国と日本人の心」》


●誰もがまさか現在の日本が自衛隊をなくしてやっていけるとは思っていない。しかし自衛隊は明らかな軍隊なのだから、違憲の存在である。護憲派も自衛隊をなくせとは言わなくなっているのに、その一方で第9条を守れというのは、違憲状態を維持しろと言っているに等しい。
     《小谷野敦 「すばらしき愚民社会」》


自分の家族を守るために命を賭すのは御免だ、という私心しか持たぬものが、そのくせして自分らは人命を大事と思うヒューマニストだと思い込んでいるのだから、始末に負えない。

●まず、私的には死にたくはないが、公的には死なねばならぬかもしれないと考える。

●次に、その公的な義務を放棄したような自分のことを考えると、私的にも不愉快になるので、公的に進んで危地に赴こうとする。しかしそこでも、私的にはなおも死にたくないと願う。

…こういうホンネの気持ちにおける循環は誰にでも生じることで、その循環に終止符を打つべく、人間の社会は徳律と法律のタテマエを蓄えてきたのである。つまり、タテマエなんかどうでもよいと考える人間は、ホンネにおいて公私の葛藤がない単純人間、いいかえると私心しかない人非人なのである。 

外国で「パシフィスト」(平和主義者)といえば、卑劣漢・臆病者といった否定的な意味合いで用いられることが多い。だから「お前はパシフィストだね」といわれたら、常識を持った外国人なら「俺は卑怯でも臆病でもない。いざとなったら家族のため、祖国のため戦う」と抗議するに違いない。      

《西部邁 「国民の道徳」》(他著書「どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由」)







戦後は、軍事に触れるだけでも具合が悪いという細菌恐怖症のような気分がすっとつづいてきます。現実をきちっと認識しない平和論は、かえっておそろしいですね。
    《司馬遼太郎 「この国のかたち(4)」》


●スローガンと政策がチャンポンになっている。(区別できていない)
        《秦豊 「5時間討論:平和」》


●朝日的左派文化人は、今回のイスラム国の人質事件に関しても、まさに戦後民主主義的な「日本は平和を愛好しているんだ。そのことがきちんと伝われば、われわれは攻撃されないはず」などと、誠に論証不可能なことを言っている。

「武力はいりません。従って私たちは殺されても文句は言いません」とまで言っているなら、それはひとつの思想として完結している。しかし、彼らはそうは言っていない。「武器はいらない、武力はいらない」で止まっている。

●例えば、かつて美濃部都知事の時代、首都高速道路をきちんと造ろうという時に「一人でも反対があれば私は橋を架けない」と言った。でもこの後段として「だから冬でも泳いで渡れ」という話につながるはずである。つまり、この後段の部分をことごとく省いていたのが朝日新聞的世界観だった。それは現実を見ない、もしくは現実を考えなくてよいというものである。

     《上島嘉郎 チャンネル桜2015/2/7

【2018年10月27日更新】

戦争のできない国は領土を守れません。
今、尖閣諸島では日本の領海に中国政府の船がどんどん入ってきています。入ってくるのは、国家海洋局の武装監視船ですから、ほとんど軍隊と言ってもよいくらいです。

●これから申し上げることは世界的には常識のことなのですが、今の日本の常識ではそうではない。国際社会というものはどういう仕組みになっているのかという原理原則、日本人以外の世界の多くの人たちの基本的なものの考え方を知る必要があります。

●領土というのは、それぞれの国が守る努力をしなければ、他国が「あなたの領土が侵されていますね。かわいそうだから、守ってあげましょう」と言ってくれることはありえません。

●あるいは、国内の社会のように、警察に通報するとか、裁判所に「土地を取られてしまいそうなので、差し止めてください」と訴えるなどしてトラブルを解決することもできません。国外へ一歩出るとそういった公平な解決を期待できる警察や裁判所はありません。

●確かに国際連合という大きな組織があり、オランダのハーグには国際司法裁判所という司法機関があります。国と国の間に揉め事があった時に、国際司法裁判所で第三者による判断仰ぐことはできます。

●また、ニューヨークの国連本部で開かれる安全保障理事会では、国家間の戦争が起こりそうになると、どのように平和を守ればよいかが話し合われます。

●これは教科書に書いてある通りなのですが、大切なのはそこから先なのに、それは日本の学校で習う教科書には書いてありません。

●例えば、日本が「中国が『尖閣諸島は中国の領土だ』と主張して、中国政府の船が日本の領海に頻繁に侵入してきて困っています」と国際司法裁判所に訴えても、中国が「これは自分たちが2国間で解決しますから、裁判所へは出て行きません。日本が勝手に言っているだけで、中国には裁判に訴えるつもりはありません」と言えば、裁判所は取り上げないので裁判にはなりません。

●国内であれば、話し合いをしてもし相手が嫌だと出てこなければ、即座に負けて「原告の勝訴」になります。もし被告が「いや、そんな裁判は、自分は認めません。裁判所の判決に従いません」と言ったとしても、裁判所が執行官を派遣しますし、もし相手が少し怖い筋の人だったら警察官が同行してくれます。

●仮にそれでの手に負えない人がいたら、機動隊が一緒に来るでしょう。とにかく判決を実行できる担保があって、国というのはそのために税金を取っているわけです。

●ところが、国境をまたぐと、領土問題など政治的な問題で紛争になった場合は、自国に都合の悪い裁判にはまず出てきません。それでもう裁判は成り立ちません。

●安保理でどの訴えを取り上げるか決めるのは常任理事国であり、中国はその一つです。アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスと、第二次世界大戦で勝った五大国が安保理を牛耳っているわけで、中国が「日本の訴えは根拠がないから、取り上げないことにしよう」と言うでしょう。

●つまり国連は、公平に平和を実現する機関ではなく、各国の利害が絡む政治の場なのです。もちろん、国連は色々な立派な役割を果たせる分野もある重要な組織ですが、国家にとって生きるか死ぬか、領土を取られるかどうかといった問題になると役に立たないのです

●あまり危ないことをしたくないと思えば、「相手は怖いお兄さんだから譲っておこう」となって、10トンや100トンのタラならいいのですが、それが領土、領海ならばどうなるでしょうか?

●私たちが選択せざるを得ません。おとなしくしていると相手は譲りませんし、こちらが譲ればその分だけさらに一層押し込んでくるのが自然法則です。「こちらが譲れば相手も譲る」というのは、日本のように秩序がしっかりある国の中の国内社会での論理です。

●もちろん戦争はしたくないし、戦争のできる国になって勇ましく軍歌を歌いながら突き進むなどというのは愚かなことで、今の日本人でそんなことをしたいという人はほとんどいないでしょう。

●しかし難しいのは、そう見せないと相手は譲らないということです。ある一線を越えると日本は必ず出てくると思わせないと、相手は押し入ってきます。

●国際社会では、考え方の基本は「自分のことは自分で何とかしなさい」ということが第一義です。もう何が起こるか分からないような危険な状況でも、国際社会では「自分で何とかしなさい」というのが、考え方の基本です。残念ながらこれが国際社会の現実で、だからどこの国も膨大なお金を軍備にかけているのです。

●日本のケースで言えば、中国に「尖閣諸島は差し上げます」と言えばおそらく事態は一旦収まるでしょうが、中国は既に沖縄の日本への帰属に疑問を呈してきています。

●2013年5月8日の中国共産党の機関紙・人民日報には、「琉球は日本が中国から奪ったもので、歴史的に今も未解決の問題だ」という論文が掲載されました。

●尖閣の次に今度は、百数十万人の人たちが住んでいる沖縄の諸島に対してそういうことを言い始めたわけです。いつか力関係がさらに中国に有利になったり、アメリカ軍が沖縄からいなくなったりすれば、沖縄に対して一気に動きを起こしてくる可能性があります。

●主張することは100%主張しながら、「しかし、仲良くはしたい」といつも最後につけ加えることです。これができなければ、国際社会では生きていけません。主張することは主張しながらも、最後は相互理解に望みを持っていることをしっかりつけ加える。その上で、きちんと対決する、押されたら押し返す、やられたらやり返すということをはっきり示していくことが大切です。

そして、こちらの「対決できる能力と意志」は可能な限り示し続けなければいけません。これはこれまでの日本人にとっては大変なことですが、他の国々ではすでに十分備えていることなのです。

《中西輝政 「日本がもっと賢い国になるために」》



【憲法論議】
第9条/世界が絶対に模倣しない条文
米国の押しつけ憲法/戦争をしている国が作った矛盾
護憲派に対して/聞く耳を持たない人々へ
他国の憲法/日本国憲法だけが平和を謳っているという欺瞞
集団的自衛権/世界に軽蔑されるエゴイズム国家・日本
自衛隊/世界に誇れる規律集団