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全共闘

全学共闘会議の略称。
1968~69年の大学紛争に際し
諸大学に結成された学生組織。
(広辞苑より)
かつての企業爆破テロやハイジャック犯、
いい年こいて今沖縄で暴れている
過激な新左翼などは
大半が全共闘の暴力学生だったのだ。


●過激派学生は、高さ40mの時計台の屋上から重さ12キロはある石塊を、機動隊を狙って投げ落としたが、日大闘争ではこのケースで機動隊員が1人死亡している。
一方、あれほど激しかった安田講堂攻防戦でも、学生側に死者は出ていないし、重軽傷者も機動隊の方が遥かに多かった。文化人は学生を支持したが、機動隊に人権はないのか?

●大学紛争には文革の影響が大きかった。日本の左翼学生にとってもカリスマ的権威であった毛沢東の説く、「造反有理」・「革命無罪」のテーゼと紅衛兵のしたい放題の運動は、過激派学生を鼓舞した。さらにアメリカでベトナム反戦を主軸とした学生運動の高揚、文革に触発されたフランスの「学生革命」などもただちに日本に伝染した。(集団暴力の革命ごっこ)

《稲垣武 「『悪魔祓い』の戦後史進歩的文化人の言論と責任」》



●昭和43年11月、第五機動隊の西条秀雄巡査部長が殉職する。神田の日大経済学部本館の封鎖解除で狭いビルとビルの間を通り抜けようとした機動隊員に、4階にいた学生らが人間の頭くらいのコンクリートを次から次に投げ落とした。その1つが西条の頭に当たって数日後に亡くなる。当時は社会党も共産党もメディアもみんな学生寄りで、機動隊は悪の権化、公的暴力装置などと呼ばれていた。

●昭和43年はいわゆる「10・21国際反戦デー」といって、その前後に新宿駅西口でベ平連や学生らの騒擾事件があった。僕は3,200人の機動隊を預かっていたが、終わってみると5人の隊長のうち3人が投石や鉄パイプ・火炎ビンでケガをしていた。隊員でも立っていられるのは半数ほどというひどい目にあわされた。
        《佐々淳行 正論2007/6月号》


●安田講堂の”決死”の攻防戦では、火炎瓶やコンクリートブロックなど殺傷用の”武器”を英雄気取りで使ったが、自分たちは殺されないことを知った上でのことだった。そしてこれを動機に、各派セクトの70年安保闘争方針は武装闘争となり、テロ・リンチはより陰惨・残酷になる。
    《安東仁兵衛
     「『戦後五十年の生き証人』が語る」》


70年安保の残党が去っていけば、かなり状況は改善されると思う。若い人の間には、ああいう人の迷惑も考えないはね上がりの破廉恥は少ないように思う
       《岡崎久彦 中央公論2005/6月号》


●左翼連中の天下だった70年代のツケを、今後我々はあちこちで払わされるだろう。

●セクトの中では、主義主張よりも嫉妬の方がはるかに憎悪をよぶことは、連合赤軍の永田洋子を持ち出すまでもあるまい。
   《勝谷誠彦 「帰ってきたバカとの闘い」》
    (他著書「この国を滅ぼすバカとアカ」)


●現在55~65才(2005年時点の評論=管理者注)の世代が全共闘運動の主体であり、また構造主義やポストモダン思潮の担い手であった。
既成のものや確固としたものを嫌い、伝統的な型を崩すことや否定すること自体に意義を見出した。堅実な生活は嫌われ、ヒッピーに見られるような放浪と場当たり的な生き方が求められ、権力や富や支配や戦争と名が付くだけでやみくもに否定した。

●構造主義の「脱構築」・「脱中心化」というスローガンは、結局は「崩す」ばかりで建設はなく、代案や再生のない否定でしかなかった。国家や権力に叛逆すること自体を目的とし、「アメリカ帝国主義」は反抗し否定すべき最高の目標であった。

●それに対して、日本政府やアメリカの敵である「社会主義国」は、「敵の敵は味方」として善玉扱いとなった。「社会主義国」がどんなに侵略戦争をしようと、内部でどんなに弾圧や圧政があろうと、無関心を装い批判しなかった。
         《林道義 正論2005/9月号》


自らを恥じる気持がなくちゃいけないと思う。いまでも飲み屋なんか行くと、ぼくらの世代でいるでしょう?あのとき、安田講堂で石投げたとか。ちょうど戦争の思い出話みたいな調子でしゃべっている。

●あのときは、いろんな人がアジった。小説家なんかも、ずいぶんアジった。そのときは聞いてて、すごく心地よいわけね。でも終わってみると、なんにも残っていない。70年ごろだよね。

●大学解体なんてヤジってたやつらが優秀な成績で卒業していくんだもの。アホらしくってさ。僕は今でも腹を立てている。

《村上春樹「ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹」》


●一般的には全共闘に入るきっかけというのが、案外俗っぽいものだった。中核派や革マル派の書いたものを読み比べて、こっちの世界観がすばらしいから入ろうなんて人、1人もいない。
だいたい大学でワーワーやっている人たちとたまたま知り合いだったとか、友達が、あるいは郷土の先輩が、あるいは何かかわいい女の子がいたとか、そういうのでちょっと見に行ったら楽しそうに見えたとか、そんなもの。

●また左のトップはそういう人間を使うのがうまい。わざとデモの先頭に出して機動隊に殴らせるとか。そうすると「あっ、おれは国家権力にやられた、抑圧された」とか思い込んで、活動家になると言い出す。そういうノウハウがうまい。だから集団主義で、集団を維持していくのが得意なのだ。

《鈴木邦男 「言論統制列島」》(他著書「『右翼』と『左翼』の謎がよくわかる本 」)

就職シーズンになったら、みんなさっさとリクルート・スーツに着替えて、髪を7:3に分けて企業回り。でも未だに酒場では、「こう見えてもおれは、若いころに3回パクられた」とか自慢げに飲んでいる。あれほどみっともないこともない。
            《森達也 〃 》



●全共闘が誕生したのは、68年春から夏にかけてである。日大で授業料不正使用問題、東大でも医学部の学生処分問題をきっかけに全共闘が結成された。その運動は燎原の火の如く全国に広がり、高校にも波及した。全国大学の8割に当たる165校が紛争状態に入り、そのうち70校がバリケード封鎖され、大学内を解放区と称しそこで自主講座を行ったりもした。

●この時代、中国では紅衛兵による文革が始まり、フランスではいわゆる「5月革命」がパリのソルボンヌ大学などを舞台に起き、学生の2万人デモを契機にフランス労働総同盟のゼネストに発展。米国は泥沼のベトナム戦争にのめり込み、米国内外で反戦運動が盛り上がった。

●キャンパスに林立した立看板には紅衛兵の影響か、中国の簡体字に似た書体で「反帝・反スタ闘争勝利」「米帝粉砕」「造反有理」「大学解体」などの文字が踊っている。連日全共闘の活動家たちが、アジ演説、インターナショナルを歌う。そしてヘルメットにタオルマスク・ゲバ棒(角材)を持ったスタイルで隊列を組み、蛇のように左右にくねるジグザグデモを繰り返しながら、「安保粉砕、闘争勝利!」といったシュプレヒコールを連呼する。

●教室に行けば、全共闘の連中がアジビラを持ってオルグにやってくる。まず「自己否定」せよ。そして「非日常化」の世界を作り出し、新たな自己を確立する、と…
「今の社会は矛盾に満ちており、このままでは人間存在の疎外がますます深刻になり、我々人間は経済社会の歯車になってしまう。体制に組み込まれた大学を解放し、人間性や個性を回復し、新たな体制を築こう」彼らの言わんとするところはこんなことだったと思う。

●時代を引っ張るリーダーは、大抵異端の中から生まれる。全共闘運動のリーダーは大抵隠棲してしまった。残った全共闘世代の転向組には異端がいない。居るのは徒党を組む連中だけだ。団塊の世代には、政治家にも経営者にも他の世代に比べ同世代を引っ張るようなリーダーが生まれていないのは事実であり、その原因はこのあたりにあるのかもしれない。
       《大塚将司 諸君! 2006/3月号》

●70年代の初頭にキャンパスを追われたセクトの中で特に過激化したものが、ハイジャックや人質事件・内ゲバ殺人事件などを起こすようになったのに伴って、新左翼運動は一般学生の支持を失い弱体化していった。
          《仲正昌樹 〃 》


●団塊が育った戦後の原野では、戦前の規範や道徳は自動的に否定され、結果として旧弊なモラルを逆方向に翻訳した思想が跋扈していた。

●彼らは大学を「解体」した。が、再建はしなかった。であるから、我々は廃墟みたいな場所で勉強をせねばならなかった。高校も同様だ。私が通っていた都立高校は、殆ど全ての進学教育と生活指導を放擲した牧場じみた空間になっていた。

●とはいえ、私の最初の記憶では全共闘は英雄だった。中学生だった私にとって、全共闘の学生たちの破壊的な行動力と難解なボキャブラリーは、ただただカッコ良く見えた。思春期の男の子にとっては神みたいな存在だった。 
      《小田嶋隆 「日本の論点2006」》


●安保闘争の組織者は、当時のマスコミと総評・社会党である。共産党は安保共闘という共闘組織にオブザーバーとして参加を認められていたにすぎない。
       《兵本達吉 WiLL 2005/11月号》


●全共闘は、密かに「体制」のうちに潜り込んだ。精神的外傷を持った者たちは、それに犯罪の認定が施された者は当然のこととして、潜入先はそう多くはなかったと思うかもしれない。しかしそうではなかった。「体制」はすでに異常なまでに繁殖していて、メディア産業がその好例であるように「体制を批判するための体制」を作り上げていった。ベビーブーマーの反体制派の多くは、そうした体制内反体制の部署へと場所を移していった。

●体制そのものが左傾化していったので、彼らは精神の幼稚さを保存したまま、年経るにつれ体制の中枢へと進み出ることさえできた。そして今や、かつてあれほどに嫌悪してみせた管理職に就いている。

●酒場などで話しかけたり喧嘩を売ってくるのも、私がかつて全学連に関係していたせいか、全共闘の者たちが少なくない。彼らは他人の意見や経験にさして注意を払わない。それが彼らをして「孤独知らずの自我主義者」にしている場合が多い。しかし彼らもじきに老境に入り、否応もなく孤独に放り込まれ、自我の現し所も少なくなる。
        《西部邁 「無念の戦後史」》
         (他著書「大衆への反逆」)


「戦後社会」というのは、団塊の世代(昭和20~25年生)が作ったものではない。戦後の復興を担ったのは明治生まれの人たちである。 
       《内田樹 「街場の現代思想 」》


●「全共闘白書」
(全共闘白書編集委員会編 新潮社 94年,元メンバーへのアンケートの集計)…

 ◇運動に参加したことを
    「誇りに思っている」 :56%強
 ◇若気の至りと反省している : 4%弱
 ◇あの時代に戻れたら
    「また運動に参加する」:55%強
 ◇「しない」        : 5%弱
           →全く反省がない。

       《斎藤美奈子 「読者は踊る」》
 (他著書「学校が教えないほんとうの政治の話」)


中野正志=大学解体を叫びながら、卒業証書を手にしてメディア(朝日)に侵入し、資本主義の恩恵を受け続ける元全共闘の卑しい精神性を持つ。

   《西村幸祐 「『反日』の超克」》
(他著書「『反日』の構造 中国、韓国、北朝鮮を煽っているのは誰か」)



●78年、成田空港を全共闘が襲って管制塔を破壊するテロをやった。革命を夢見た一味は捕まり、刑事罰に加え、民事訴訟で約5千万円の賠償支払いが命じられたが、その後20余年間、彼らは空とぼけてきた。彼らの多くは地方公務員になって、高額退職金を手にする段になって、裁判所がその退職金を差し押さえに出た。

●身銭を惜しむ彼らはインターネットで募金を呼び掛けると、驚くなかれ1億円もの募金が集まって全納できたというのだ。募金者はテロ集団のネット口上に引っ掛かった者が多い。

 《高山正之
  「歪曲報道 巨大メディアの『騙しの手口』」》



成田で警官3人死ぬという。死んだのではない。殺されたのである。
       《山本夏彦 「その時がきた」》
         (他著書「茶の間の正義」)


●やっぱり大学紛争の前後でがらりと変わったという実感がある。あそこで歴史的に紡いできた日本人の美質の1つが完全に断ち切られた。(60年安保の時はまだよかった。70年前後のことである)

●やっぱり当時は、毛沢東に代表される革命幻想の影響が大きかった。彼の理屈に従えば、下の者が上の者を暴力的に打倒することは正義であり、世界の人民がそれに邁進しなければならなかった。

     《渡部昇一 「国を売る人びと」》
       (他著書「決定版人物日本史」)


●1970年頃の話だが、芝公園でデモ後2千人くらいの学生が解散したことがあった。信号が赤だったが、人数が多いからみんな衆を恃んでどんどん渡ってしまった。

すると向こうから車が来て、びっくりして急ブレーキをかけて停車した。その車を学生たちが蹴った。

そうしたら車から2人、怖いお兄ちゃんが降りてきた。そして「こらぁ、今車を蹴ったやつ、だれだぁ」と叫び始めた。その2人が学生たち1人をつかまえて、「蹴ったのはお前か」と訊く。

学生は2人に囲まれて「いや、ぼくじゃないです」と言い逃れる。すると次の学生を挟んで「じゃあ、お前か」「いや…」といった調子で1人1人を脅かしてゆく。

最初、他の学生たちは後ろの方で笑っていた。でも「そんなやつら、やっちゃえよ」とか無責任に言っていたやつが、「じゃあ、蹴ったのはお前か」と言われると、「あ、違います…」と青くなる。

そんなふうにしているうちに2千人がじりじりと下がって、やがて算を乱して逃げ出し始めた。

●実際に全共闘というのは、思想運動というわけではない。ある世代の人たちが世代単位で「俺たちの言うことを聞け」と声高に権利要求をしたというだけ。集団をつくって、衆を恃んで威張る。
        《内田樹 「逆立ち日本論」》

●教授が壇上で殴られたり、見えないところで足を蹴られたりしていた。

●結局、全共闘には言いたいことなんてなにもなかった。
           《養老孟司 〃 》







●今、犯罪学の世界で注目されているのは、少年でもなければ40代後半でもない。団塊の世代以上の高齢者の犯罪なのだ。団塊以上の世代、即ち60代から70代の殺人犯率は他の年齢層に比べて著しく高い。それ以降の世代では殺人犯率は低下の一途を辿っている。つまり、この世代の人々こそが、少年期から老境にいたるまでずっと人を殺し続けている得意な世代といえる。
      《宮崎哲弥 週刊文春2009/12/18》


●東大紛争の片がついてまだ半年しか経っていなかった頃、世の中の新聞も雑誌も、全共闘は「純粋」で「根源的」だという思い込みに首までどっぷりとつかっていた。そういう記事を読むたびに、連中と延べ何十時間も討論して彼らの思考停止ぶりをイヤというほど知っている私は、「ウソをつけ!」と心中ののしりつつ、腹にすえかねる思いをしていた。
     《長谷川三千子 諸君!2009/6月号》

学生運動の高揚期が去っても、「右はダサくて、左はカッコいい」という風潮はまだ生きていた。
           《東谷暁 〃 》


●左翼活動をしていた人から当時の話を聞くと、めちゃくちゃ。女子大へオルグ(宣伝・勧誘)に行って、「よし革命のためだ!」とかって、みんなヤッちゃうとか。津田塾は入れ食いだったとか、酔うにつけめちゃくちゃな話が出てくる。
          《福田和也 「無礼講」》

●永田洋子のトラウマもそこなのだ。彼女は最初の頃に「革命のため」といって半ば強姦されている。連合赤軍の政治指導者は、「オレとセックスしないということは、お前は政治意識が低い」と言って関係を迫るわけである。むちゃくちゃだが、当時の左翼の間では、そういう理屈が通っていた。

●でもね、当時の左翼男は楽だったんじゃないの?「革命のため」とか言えば、女の子を口説けたんだから。
           《坪内祐三 〃 》


●左翼活動家はもてる。西部邁だってもてた。
        《折節の記 正論2012/5月号》



●長野市在住でナチュラリストの林盛幸さん(59)は武蔵野美大在学中、約1年半にわたって村上春樹氏経営のジャズ喫茶「ピーター・キャット」でアルバイトをしていた。林さんもまた孤独な村上氏の一面を覚えている。
「春樹さんは団塊の世代には珍しく、群れるのが嫌いな人で、ポスト団塊と呼ばれた僕らとも気の合うところがありました。(略)学生運動に関しては『オルグと称して女のコをナンパしていただけじゃないか』などと厳しい意見を持っていましたね」
           《FLASH 2013/10/29》


●ベトナム反戦となれば、明らかにアメリカが本場で、じつのところ、わが国の「ベ平連」は、そのサルまね、安っぽくいい気なヤジ馬騒ぎというに過ぎない。銃声一つない安全な場所で、せいぜい機動隊との小ぜり合いごっこを演じていただけの話だ。

●ところがアメリカでは、徴兵カードを焼きすてたり、国外逃亡をしたりした青年の数は一体どれ程に上ったろうか。ベトナム戦争では、アメリカはまず、国内において“敗れ”た。自国こそ世界の悪玉という通念がアメリカ人の手足をしばった。

       《佐伯彰一 産経新聞1979/8/15》
 (関連書籍「国会議員に読ませたい敗戦秘話」)


●しかし、今から冷静にふり返ると、60年、また70年安保とは一体何だったのか。当時あれほど大騒ぎする国際的要因は、アジアにも世界にもまるでなかった。

●日本があの時点で軍国主義化するとか、戦争に巻き込まれるとか、あれほど騒々しく言い立てられた議論の大半は、ほとんど全くのタワゴト、幻にすぎない。いかにも、ひとり合点の、でっち上げられた危機であり、まず大方の外国人には話の通じようのない、おかしな日本的空騒ぎにすぎなかった。

●まずこうした過去の論議の総ざらいと反省を第一歩としたいのだが、どうやら安保反対で騒ぎ立て、狂い回ったいわゆる進歩的文化人や革新政党は、過去の狂態、空騒ぎの実体と直面するのがこわさに、口をつぐんでいるのか。
      《佐伯彰一 産経新聞1980/3/25》


団塊世代が経営者になって、日本の劣化がはっきりしたのはなぜだろう。彼らが国家論を教えられていないからである。国家論とは戦略的に世界を見ることである。戦後日本の復興と経済成長をもたらした戦前の国家教育を受けた人々が、引退したからである。

     《水島総 「疑惑の報道 大マスコミ」》



●村上春樹…「1969年には世界はまだ単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表現を果たすことができた」 

   《福田和也 「近代の拘束、日本の宿命」》
     (他著書「俺の大東亜代理戦争」)


●やっと中学生になった頃だった。上の世代の知的な若者が反政府的な運動をしていたのを、内容が分からずとも何かカッコいいものに見えた。

●兄貴が聞かせてくれるフォークソングで反政府的な雰囲気に浸りながら、本多勝一とやらのルポルタージュをむさぼり読み、同級生の友達よりも《ちょっと上をゆく自分》が内心嬉しかった。「何か違う」と気づくまでに、何十年の時間が必要だったことだろう。
        《敦子カロー 正論2010/1月号》




  ※関連ページ 
米軍基地反対闘争」も参考に

【国内の反日勢力】
左翼とは/意味とルーツ
進歩的文化人/過去の欺瞞が暴かれていく
日教組/朝日新聞が絶対報じないその弊害
過激な左翼/いまだに暴れる連中
全共闘/恥知らずな輩
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左翼とは正反対の保守とは/常識や世界基準ということ