賢者の説得力ホーム自虐史観歴史とは

 

歴史とは

人は歴史に対してどういう態度で
接するべきなのか。
識者の意見をうかがう。


●知識人は誰でも不断にリヴィジョニスト(歴史見直し論者)でなければならない。通説や常識を墨守しているのでは知識人の役割を果たせない。
       《呉智英 「ホントの話」
         他の著書「現代人の論語」》


●新事実を提示されても、お前はリビショニスト(歴史見直し論者)だと退ける。日本ではそういう輩がいまだに大きな力を持っている。だから歴史が変わらないのだ。「修正」と「歪曲」は異なるものであり、歴史像を修正することは決して間違っていない。
       《瀧澤一郎 諸君!2006/6月号》


●その時代のその状況に身をおいてみなければ、わからぬ事実というものがある。

《西部邁 「国民の道徳」他の著書「どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由」》


●要するに勧善懲悪の単純な理論で、まだ歴史教育が厳然と行われている。そこのところにやっぱり問題がある。
   《草野厚
    「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」》


●歴史学の方法は、雑多な膨大な史料の中から価値のあるものを判別し分析して、結論を導き出す方法をとる。抽象化された理念を立て、それによって原理的な図式を組み立てていく演繹法は危険である。「同じ史料を使っても、正反対の結論を出すことができる」(ゴーロ・マン)といわれる所以である。

●過去を現代の眼でみると誤る。現代の眼で過去を裁くなら、歴史は歴史ではなくなる。歴史は過去そのもののなかで、視られなければならぬものである。

●道徳原理が歴史記述の根底にあるとすれば、客観的歴史記述は存在しえないことになる。
      《尾川正二 「戦争虚構と真実」》


●歴史についての3つの視点と1つの原則…

①人は生きる時代を選べない。それゆえ指導者の責任は重い。
②戦争の残酷さ・非人間性を、日本人の国民的性格にすりかえてはならない。
ある時代の政策の誤りをもって、歴史総体を否定すべきでない。
…人は時代に生き、そして歴史に生きる。
           《保阪正康 出典不明》


「正しさ」は変わる。科学の世界でも、ある「仮説」が正しくても、次の新しい仮説が出てくるとこちらが「正しく」なる。アメリカが戦争に勝てば「正しい」となるが、それは「絶対」ではない。

《小林よしのり 竹田青嗣 「ゴーマニズム思想講座 正義・戦争・国家論」》


●歴史的な事象は、極めて多面的な要素から出来ているがために、1つの側面を取り出してその是非を云々しても、それは必ず別の面によって覆される。

●私たちは個々の暴虐とは別に、フン族がヨーロッパ史に果たした役割を語ることができる。だが、このような巨視的な判断は決して道徳の滅却によってもたらされるのではなく、なにがしかの普遍的な志向によってこそ可能になるものだ。

●同様にメフメット2世によるコンスタンチノープル攻略を、ヨーロッパにとっては災厄、オスマントルコにとっては凱旋、として済ますことは、自らの統一性・価値の一貫性の放棄にほかならない。
多少とも歴史を省みようとする者は、この事件が双方の陣営にもたらした影響、そこに至る経緯とそこから派生していった様々な出来事を勘案しながら、それが全体としていかなる事件であったのかと問うことだろう。
 《福田和也 「第二次大戦とは何だったのか」
      他の著書「俺の大東亜代理戦争」》


ある仮説に対して根拠不十分という判断を下す場合に、代替案を出さなければならない義務はない。「分からない」でいいのである。相撲の行司ではないのだから、どちらかに軍配を挙げなければならないということはない。そこを推理小説よろしく犯人探しをするのが、インチキ学問なのである。(「事実」については代替案を出さなくてもよいが、「意見」については代替案は必要だろう)  
  《小谷野敦 「すばらしき愚民社会」
    他の著書「日本人のための世界史入門」》


●歴史に100%の「必然」も、100%の「偶然」もありえない。現実というものは必然と偶然がゴチャまぜに入り混じっているのである。問題はその両者の比率・割合である。
        《兵本達吉 正論2005/5月号》


●なによりも歴史認識というものは、個人の内面の自由、思想・信条の自由にかかわる問題である。
  《朝倉敏夫 「読売VS朝日 社説対決50年」》

 
●この世の中には、白か黒かはっきりしない灰色の事柄が多い。そのあいまいさに私たちは耐えなければならない。それを、どちらかに無理に片づけようとする時に危険が生じる。  
《上坂冬子 「大声小声」他の著書「日本人よ、もっと悪人になりなさい」》


●定説というものがあるように思われているが、それは時代によって動くし、民族によって見方が違ってくるのは避けられない。つまり、事実は1つだが、それがどういう背景を持っていたかという解釈になると、民族によっても違うし、時代によっても変わってくることは避けられない。

《西尾幹二 「迫りくる『全体主義』の跫音」他の著書「自ら歴史を貶める日本人」》


●歴史学の泰斗ランゲ…さんは過去の歴史から将来の教訓を学ぶことを期待しておられるが、私はそんな大それたことは考えていない。ただ真実を求めるだけだ」 
    《岡崎久彦 「中央公論2005/6月号」》


「罪」があるからといって「功」まで否定することは、歴史の歪曲である。
    《井沢元彦 「逆説の日本史〈11〉」》


●歴史は現代の目からみての裁判の場ではない。現代の民主主義の優越を正当化するために、過去を裁くような裁きの法廷ではない。古代社会に奴隷がいたといって、それを理由に古代社会を非難したからといって、古代という見えない遠い世界の真実に迫ることにはなにほども寄与しないだろう。

●現代の民主主義や平等主義も欠陥だらけである。欲望の解放をもたらし、それが戦争による大量破壊の温床にさえなってきた。現代の優越から古代に判定を下すことが出来るほどに、人智が発達したといえるかどうかさえ疑問である。
 
 《西尾幹二 「歴史教科書との15年戦争」》


●「真相の究明」は、半世紀以上前に起こった「歴史的事実」の当否の検証にかかわる議論である。しかし「本当は何が起こったのか」を完全に明らかにすることは、極めて絶望的に困難である。文書資料のあるものは散逸し、あるものは曖昧で一義的な「解釈」を許さない。証言の多くは主観的なバイアスがかかっている。

●どちらも「資料を自分の利害に引き付けて読み、それぞれの都合によって、ある証言を真とし、ある証言を偽とするという恣意的な歴史解釈を行っている」という非難を応酬している。現にそれぞれが「信頼性のある」資料や証言とするものに基づいて再構築した「過去」は、まるで別のものになっている。資料や証言の「真正性」についての評価がそれぞれ違うのだから仕方がない。両者を聴き比べて、どちらが「より説得力があるか」という比較は可能だ。しかし「真実か」と言うことは大変に難しい。だからこの種の議論は、資料批判の終わりない「水掛け論」に終わる可能性が高い。
      《内田樹 「ためらいの倫理学」》


学問の根本は「批判精神」であるという錯覚。近代日本を肯定する評価態度は、学問の本筋を行くものではない、とする。もともと歴史に対するときの当然な批判的姿勢とは、世に残された資料に記されているところを決して鵜呑みにせず、それが本当に真実を伝えているかどうかを、他の資料と突き合わせて慎重に検討する態度をいう。

つまり批判というのは方法を指すのであって、目的を指すものではない。批判とは文献に対する良い意味で疑い深い査定の手続きである。すなわち批判とは、研究の過程において軽率な判断を避ける心得事なのだ。

そこを左翼は根本的に勘違いして、批判とは研究対象である歴史そのものに対して、否定の論断を下すことだと思い込んでしまった。よって攻撃的姿勢に傾き、それはケンカであり対立であって、とても批判とは言えたものでない。本来における批判とは、冷静にして中立な「調査」なのだ。
      《谷沢永一 「悪魔の思想」
            他の著書「歴史通」》


●我々が忘れてはいけないのは、歴史の中で考え行動している人たちは、その結果を知らないという点である。一方、我々は結果が分かっている。優位な立場に立って裁判官のような顔をしてバッサリ斬るというのは、傲慢さ以外の何物でもない。

●「発展段階説」(ルネッサンスから出てくるが、「前の時代より今の方がいい」というもの)で、世の中のある部分を理解することは可能。例えば技術。100年前の技術より今の技術の方が上なのは当たり前。技術は累積的に発展していくから明快である。
しかしそれ以外の分野では、人間はそう変わっていない。例えばギリシャの文学や芸術・美術と現代のものと、どちらが優れているかという議論そのものが無意味である。
     《佐藤誠三郎 「日本の失敗と成功」》

●私は循環史観が一番実体に即しているように思う…

①民主主義が続くと、貧乏人が数で法律を作って金持ちから金を取るので、だんだん無政府状態になっていく。
②アナーキーになると独裁者が出てきて、それがやがて王様になり、やがて貴族支配、多数支配からデモクラシーになる。

…これはアリストテレスが、何十という都市国家の盛衰興亡の例から引き出した結論である。後進国の政体の変遷などには当たっている。国によっては民主制と軍事政権が二大政党政治みたいに交替していった。「満つれば欠くる」という古来の摂理には、捨て難いものがある。

江戸時代の人間は化石のような古い人間で、明治になったら全部一新されたとか、戦前は全員鬼のような帝国主義者だけだったけれど、今は全員平和主義者で人間が入れ替わったなどということがあるか。皆同じ人間だ。人間は1人1人その時代のために一生を真摯に生き、最大限のことをした。それを理解するのが歴史である。
          《岡崎久彦  〃  》






●村上春樹のスタンスは、何が善で何が悪か、その基準をあらかじめ決めておいて、その検索ツールにかけて歴史をスクロールするという読み方ではない。私はこういうスタンスを支持する。
       《内田樹 「街場の現代思想」》


●人間社会の現実は複雑で、1つの要因によって全体を説明する仕方で理解することはできない。全体を外から眺めるような態度は、現実を不当に無理に単純化し、結果として現実から離れることに他ならない。現実に接するには、細部に丁寧に付き合っていくしかないのである。

現代の視点から過去を眺めているかぎり、わかりやすい過去しか知ることが出来ないのである。
      《大城信哉 「ポスト構造主義」》


●ここにもあそこにもゴロゴロある幾つかの「正しい」論理から、何を選ぶかが本当は肝心で、その選択は論理とは無関係な情緒力が行わせる。
     《藤原正彦 週刊ポスト2005/12/16》


●疑ひを捨てるところから歴史は始る。歴史といふのは過去との附合ひであり、「人の振り見て、わが振り直せ」といふやうな啓蒙の仕事は、ただ歴史研究の結果として生じてくるだけのことであって、それを目的とするのは間違つてゐる。家族や他人と附合ふのは、相手の行動から自分に対する教訓を引張りだすためではない。同様に、過去と附合ふのも、それ自体が目的である。
     《福田恆存 「日本への遺言」
         他の著書「保守とは何か」》



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