盧溝橋事件1937年、北京郊外の盧溝橋で
一発の銃声が響いた。 これを合図に日中戦争始まったとされている。 そして、その最初の一発を撃ったのが 日本軍だというのだが… |
●共産党軍の兵士向けパンフレットに、「蘆溝橋事変は、わが優秀なる劉少奇同志の指示によって行われたものである」と自慢した記述があった。 《谷沢永一 渡部昇一 「日本に『戦争責任』なし」》 (他著書「封印の近現代史」) ●蘆溝橋で日本側に戦争計画など全くなかった立証… ①空砲の他に、万が一の場合に備えて各自実砲30発を携帯していたが、実砲は厳重に包装され、間違っても使用できない状態になっていた。(木綿糸がグルグルまいてあった) ②空砲による演習は中国側に予告する必要はなかった。中国側の特別の希望により、当日の夜間演習は4日に通告してあった。 ③同中隊はその夜の演習に鉄帽さえ携行していなかった。日本は鉄帽なきまま中国軍との紛争に巻き込まれていった。 ●1937年7月7日夜10時40分頃、北京西12㎞の蘆溝橋北側で、演習を終了した支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊に対して、突如数発の銃弾が河畔堤防の竜王廟付近よりなされた。 ↓
●銃撃を受けた中隊は直ちに集合したが、この時、兵1名が行方不明であることがわかった。(20分後にこの兵は帰隊)牟田口第一連隊長は北平特務機関に連絡。 ↓ ●特務機関は不拡大方針に基づき、日支双方の代表からなる軍使を現地に派遣することを決めた。 ↓ ●軍使一行は、8日午前4時、北平の連隊本部を出発した。この間、現地清水中隊は中国側に対して一発の応射もせず、約2㎞東の西五里店に移動し、豊台を発した第三大隊に合流。同大隊は一文字山を占領した。 ↓ ●その直後の3時25分、再び竜王廟方面より3発の不法射撃が行われた。 ↓ ●この報告を受けた連隊長は「3時25分といえば、既に彼我の識別が明瞭」にできる時刻であり、日本軍と知りつつ2度まで不法射撃を加えるのは侮辱であるとして、戦闘開始を許可する。 ↓ ●そして一木大隊が竜王廟付近の中国兵に対して攻撃を開始せんとした時、先刻の軍使一行が一文字山に到着。弾薬の装填禁止を命じた。大隊長は攻撃を中止して、部隊に朝食をとらせた。この時軍使一行は蘆溝橋城内で、中国側と交渉に入ったところであった。 ↓ ●この日本の攻撃中止を怯慄と誤った竜王廟の中国兵は、俄然日本に猛射を浴びせてきた。 …事ここに至って、日本軍も遂に反撃の火蓋を切った。(7月8日 午前5時30分) ●蘆溝橋事件で、最初の射撃を受けてから実に7時間、1発の応射もせずに自重を堅持(これは、日本軍に開戦の意図がなかったことを立証する)した日本であったが、攻撃に移るやたちまち敵を撃滅し永定河右岸に進出した。この戦闘で敵の遺体から手帳が発見され、その中に直系上司名として第29軍長・宋哲元らの名が記されており、紛れもなく29軍正規兵であることが判明した。
●蘆溝橋事件発生後、日華双方を挑発するような銃声が頻発するので、7月22日夜、日本憲兵隊と特務機関で調査したところ、中共北方局主任・劉少奇指導下に北平・清華大学生たちが、土炮と爆竹を鳴らして日華双方を刺激し、事変拡大を策していたことが判明している。 ●これと符合するかの如く、戦後中共軍将校となった経歴をもつ葛西純一は中共軍の「戦士政治課本」の中に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が、決死的に中国共産党中央の指示に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと、著書「新資料・蘆溝橋事件」に記している。 ●東京裁判で蘆溝橋事件は「緊張と不安の雰囲気の中で」「緊迫した状況を作り出した日本側に責任がある」とし、発砲者が何者であったかは殆ど追求されなかった。満州事変の柳条湖事件に対しては厳しく追及されたのに比べて矛盾がある。これは、深く追及していくと中国側に不利な証拠が出てくることを恐れたからだろう。 《中村粲 「大東亜戦争への道 」》 ●政府も陸軍中央も、事件発生から3週間に互って不拡大方針を堅持したこと、その間現地の情勢によって二度内地師団の派兵を下令しながら、その都度現地からの情報を信じて二度とも派兵を中止したほど慎重であった。 ●事件発生直後の深夜、我軍特種情報班が傍受した北京大学内の中共秘密無電室より、延安の中共軍司令部に緊急発信された電信は極めて重要である。 それは明碼(ミンマー=平文電報符号)で 「2052 0501 0055」(成功了=うまくいった) というもので、3回反復送信されたという。蘆溝橋で日中両軍を衝突させるのに成功したとの報告電信に間違いあるまい。(平尾治「或る特種情報機関長の手記」) 《中村粲 正論2005/10月号》 ●西安事件の翌年である1937年、華北では宋哲元軍(第29軍)10万人、張学良の東北軍11万人など40万人の中国軍が、5千人の日本の支那駐屯軍を包囲するかたちとなり、さらに徐州方面でも中央政府軍35万人が北上の構えを見せたほか、各地の反日諸団体の動きが激化するなど、日中間の緊張はいやが上にも高まった。 《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》 (他著書「『日中戦争』は侵略ではなかった」) ●蘆溝橋事件は、現在の学会では中国側が挑発的な発砲をしたという定説になっている。中国共産党の劉少奇が率いる工作隊がしかけた。当時の中共は青息吐息の状況で、生きる道は日本と国民党が血みどろの死闘となり、国共とで抗日統一戦線を作る以外なかった。日本と国民党が停戦し、国民党が中共をつぶしにかかるのを恐れた。 《福田和也 「魂の昭和史」》 ●日本側の諸文書は、日本側は予め蘆溝橋事件を起こそうとする計画がなかったことを伝えている。 ◇日本政府はここで事件を起こすよりも、自国の重工業発展に夢中になっていた。 ◇また参謀本部は6月に陸軍の各将軍に、国際的になるような紛争は絶対に引き起こさないように、通達を出していた。 ◇当時北京に近い地方にいた日本軍は5千~7千人くらいだが、その展開・配置された場所は、蘆溝橋に備えたような所ではなかった。これに対して中国第29軍の宋哲元軍は、少なくともその10倍の人員がいた。 ◇7月27日、近衛首相は「日中関係の根本解決を目指している」と発表。 ●これに対して7月30日、蒋介石は「我々の前にある唯一の道は、統一された全国的な規模で徹底抗戦を行うことである」と述べた。 《鈴木明 「新『南京大虐殺』のまぼろし」》 ●義和団の当面・最大の標的はキリスト教会。清朝政府は鎮圧するフリをして、ひそかに彼らを煽動した。1900年6月、無頼の徒の大集団は北京に入り、公使館地域を封鎖した。日本の外務省書記生1人とドイツ公使が殺された。 これにより清朝政府は諸外国に駐兵権を与えた。日本軍部隊が蘆溝橋にいたのは、そういう経緯があったからである。 《紳士と淑女 諸君!2005/6月号》 蘆溝橋事件についての中共の解釈… ●事件以前から中共は、日本の侵略に対抗するためには中国全体が結束して戦う以外ないんだと主張していたが、蒋介石政権は日本との妥協によって事態を収拾しようとした。つまり蘆溝橋事件は、依然として対日妥協に走ろうとする国民党政府を、中共が徹底抗戦に押しやったという記念すべき事件であり、それに関わった中共系の工作員あるいはジャーナリストなどの文化人は功労者だという立場。
●戦後20年ぐらいはこうした解釈が優勢で、日本の歴史学者やマスコミもそれを支持していた。 ところが大陸における中共政権の基盤が拡大し、国連代表の座も台湾から中共に替わる頃を節目として、自信を持った中共は責任を全て日本へ押し付けるようになった。
●事件当時、中共はまさにドン底の状態で地方の雑軍にすぎない。客観的に見れば、陝西省の山の中に巣くっている匪賊といってもいいぐらいの存在だった。 《秦郁彦 「昭和史の論点」》 (他著書「日中戦争史復刻新版」) ●中共のプロパガンダを引き受けたアメリカ人ジャーナリストたち、たとえばエドガー・スノーらの著作を読んでいると、明らかに毛沢東は日本の軍部を挑発し大陸で軍事行動を起こさせ、それをテコにして国民党と中共の連合戦線を組んでいくという戦略をとっている。中共はそういう戦略をとらなければならない状況にあったのは事実。 《保坂正康 〃 》 ●蘆溝橋事件は、かつては共産党の謀略の成功例となっていた。(劉少奇が自分の工作実績の自慢話として語っていた) ●「そこに日本軍がいたから悪いのだ」と言うが… 何かにつけ国際化が叫ばれる昨今だが、そもそも国際化・民族の域外への移動・移住・発展というものは、大航海時代以降の世界的趨勢である。 ●もともと18世紀から人口過剰のために雲貴高原など周辺地域に「民族大移動」を展開していた中国人も、19世紀以降はそうした時代の流れに乗って西洋勢力支配下の東南アジアに移民し、今日では3千万人以上もの人口となり現地経済を握っていることは周知の通りだ。 ●だから人口過剰に悩み、あるいは海外に市場を求める日本人もまた、20世紀以降にこの隣国に大量移住したのも何ら不思議なことではないのである。例えば上海を中心に各大都市には各国の租界があり、それぞれの国の人々で賑わい、貿易も盛んだった。 ●もっとも20世紀に入ってもこの国は、外国人の生命や財産の安全が保障されない世界だったため、多くの列強はそれを保護するためここに軍隊を派遣した。 《黄文雄 「日中戦争 真実の歴史」》 ●例えば、現在、国際条約に基づいて日本には米軍が駐留しているが、いくらそれが気に入らないからといって、いきなり日本が米軍やその家族を軍事攻撃したらどうなるか。当然米軍は反撃するだろう。 《松浦光修 「日本を虐げる人々」》 (他著書「日本を嵌める人々」) ●東京裁判において日本側は、「蘆溝橋事件は蒋介石の国民政府を対日戦に巻き込むため共産分子が企てた計画的陰謀であった」として、日中対立を煽った中共の謀略について論証しようとしたが、ウェッブ裁判長は「支那あるいはその他の場所での共産主義その他の思想の存在、またはその蔓延にかんする証拠は、すべて関連性なし」として、その書証は全て却下されてしまった。 《江崎道朗 正論2006/10月号》 ●蘆溝橋事件当時、冀察政務委員会最高顧問兼北平・天津市参議であった夏文運は、蘆溝橋事件拡大の責任は8割が中国にあり、陰謀の主役は中共の劉少奇であったと明確に述べている。 (参考:「昭和史研究所会報」97号) 《中村粲 〃 》 ●当時中国共産党の副主席であった劉少奇が、戦後になって「蘆溝橋事件の仕掛人は中国共産党で、現地の責任者はこの俺だ」と、証拠を示して西側記者団に発表した。 ●この発表が契機となって、当時戦犯として巣鴨プリズンに拘置中の河辺大将(当時師団長)、牟田口中将(当時北京市に本部のあった歩兵第一連隊長)は、理由も告げられずに釈放された。 …東京裁判で、蘆溝橋事件を起こした罪を日本軍に負わせるため、現地の日本軍指揮官を処罰しようとしていたことろへ、事件を起こした真犯人は中共軍だと発表され、慌てて右のような処置に出たのである。劉の発表を聞いた時、主席検事キーナンは慌てふためき、顔面蒼白になったそうである。 ●周恩来首相は、1949年の中華人民共和国樹立の際、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介石の軍隊の両軍に鉄砲を撃ち込み、さらに日華協定を妨げたことが、中国共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と言明した。 《清水馨八郎 「大東亜戦争の正体 それはアメリカの侵略戦争だった」》 ●岡崎久彦氏…「むしろ、現在の中国共産党政権としては、蘆溝橋事件は日本を見通しのない戦争に引きずり込み、国民党軍を矢面に立たせて消耗させ、中国共産党勝利に道を拓いた戦略的大成功なのだから、誇りこそすれ恥じるところはないはずである。 それまでの張作霖爆殺・満州事変・第一次上海事変・各種の北支工作等の発端となった事件は、敗戦後、ことごとく日本軍が仕組んだ事件だったことが白日の下に曝されている。ところが、蘆溝橋事件を含む昭和11、12年の諸事件には、日本側の秘密工作の気配もなく、東京裁判もこの点は何も問題にしていない」 《藤井厳喜 「騙される日本人」》(他著書「日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず」) |
【日中戦争】 ★21ヵ条の要求/中国プロパガンダの第一弾 ★中国の内戦/日中戦争前の国内混乱状態 ★西安事件/日中戦争前夜 ★盧溝橋事件/中国共産党の罠という定説 ★盧溝橋事件後/中国の暗躍と戦争拡大 ★上海事変/実は中国の侵略行為 ★日中和平工作/中国の妨害 ★日中戦争の実相/意外と緩やかな戦闘 ★中国の民衆/日本軍を支援した者も少なくない ★日中戦争への欧米の介入/中立のはずが中国へ肩入れ |