賢者の説得力ホーム日中戦争中国の民衆

 

中国の民衆

日本軍が行くところ、
中国民衆は阿鼻叫喚の地獄を味わったのか…


●日米戦の激戦地では、それこそ灰も残らないくらい殺されてしまう。その点、日中戦争はある意味でのんびりとしていた。50メートル離れたところでは農民が平気で畑を耕して、「あ、あの連中やっとるな」というふうな顔をしていることもしばしばだった。

●私は糧秣部で食糧の調達を担当していた。中国人から野菜や食糧を買う係だが、野菜商社の楊さんという人は日本語が上手で「今日はトマトがいいですよ」なんて表を見せながら言うのだけれども、なんともいえない風格のある人だった。敗戦の後「日本は負けましたけれどお世話になりました」と言ったら、「困った」という。というのは、日本が負けると、それまでわりと治安状態のよかった日本の支配地区に入ってくる地方軍閥の軍が、略奪したりするというわけである。
  《伊藤桂一(作家・中国戦線に長く従事)
            文芸春秋2006/9月号》


●「わしは地主なんだが、財産はそのうち全部とられてしまう。最後の行き止まりに共産党の天下になったら、首を刎ねられるかもしれんな」と、覚悟しているという。楊さんは声をひそめてこう言う。「これまでのよしみで、拳銃を一丁に弾丸を添えて用意してくれませんか。それで敵と戦うわけではないけれども、護身用として持っていれば心強いのです」と。

●僕は飛んで帰って、兵舎から24年式拳銃一丁と弾丸百発を持ってきて、「こんなことくらいしかできないけれども、勘弁してください。我々も明日から武装解除で、2,3日もすれば集中営(捕虜収容所)に入らねばなりません。お元気で」そういって握手して別れた。
      《伊藤桂一 諸君!2007/10月号》 


●反日や抗日は都市部で叫ばれるものであり、一般大衆や農民にまで反日意識が広まっていたかといえば、決してそうではない。たしかに農村では、日本人とは略奪・虐殺を好む禽獣にも劣る連中だといった中共の政治宣伝を鵜呑みにし、日本人を恐がり、あるいは憎悪した人々も多数いたが、それと同様に日本軍の宣撫工作によって、日本軍を解放軍として大歓迎した人々も大勢いたのである。
      《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》


●中国では戦時中の日本の占領区域を「淪陥区」と言う。これに対して国民党が支配していた地域は「国統区」、共産党のそれは「解放区」と言った。現在の中国では淪陥区は「地獄」だったと言われているが、私はいろいろ調べたり、当時の生き残りの人に話を聞いたりしたが、当時を知っている人は淪陥区の方が、解放区である延安や国統区の重慶よりも安全で住みやすかったと言う。現在中国の二大都市となっている上海・北京はともに淪陥区である。

●淪陥区では中国語による授業も行われていたし、修学目的で日本占領区を離れたいという人には国統区へ行くことも許された。事実、北京は中国国内最初の淪陥区だが、終戦の時に調べたところ、主な大学の設備も蔵書量も教員数も学生数も、全て増大していたという。

●注目すべきことは、淪陥区で言論統制がなされていなかったということである。当時淪陥区で発行された書籍や雑誌を見ると、抗日反日的な内容のものがある。これは反日的言論活動を日本は取り締まらなかったということである。

●これに対して解放区は悲惨だった。延安では共産党幹部が独裁体制を敷き、生活から異性関係に至るまで全て支配していたのである。解放区にいた有名な評論家・王実味は、「野百合」などの文章を通じて共産党の不抗戦・腐敗享受を訴えたため、拷問のあげく頭を斧で割られてしまっている。
    《金文学 「逆検定中国国定教科書」》
 


●大都市が陥落すると、あれほど抗日を叫んでいた市民は後方へ逃げ出すか、あっさり抵抗を放棄して「良民」になった。占領下の大都市では、暴動などは殆ど起こらなかった。治安維持も難しくなかった。中国人には「だめだと思ったらやめたらいいじゃないか」と、非常に現実的なところがある。

日本軍に協力した者はけっこういた。劉震雲の「温故一九四二」という小説がある。1942年、河南省はひどい旱魃で300万人が餓死する有り様だったが、人々を助けたのは国民党政府ではなく、日本軍が放出した軍糧だった。救われた人々は日本軍に協力して、国民党軍を武装解除したという逸話が描かれている。
      《林思雲 Voice2007/8月号》

●僕の知り合いの中国人女性で、彼女の祖父がある村の村長だった。その村に日本軍が駐屯した。とくに住民とは何事もなく平和裏にやっていた。ところが終戦後、彼女の祖父は抵抗しなかった罪で銃殺された。実際には平和共存でやっていたのに、ともかく抵抗しないのはけしからん、となる。そういう形で中国は歴史を書き綴っている。
           《北村稔  〃  》


●中国江西省安義県。昭和14、5年頃の話。奉新という小さな町の駐屯地では、たくさんの難民が毎日鉄条網の外へ来た。中できわだってかわいい15、6歳の女の子が、私の洗濯物を抱えて行き、翌日持って来てくれた。配給の菓子や石鹸を礼にやった。しばらく来なくなったのでその家を訪ねてみた。誰も居ず明るい部屋の真中に、真黒い固まりがあった。近づくとワーンとハエが飛び立ち臭気と共に、一塊の蛆と化した彼女の死骸があった。中国奥地には大変な風土病があった。[森谷周野 新潟県在住]

●中国王家城。昭和15年12月の冬。各中隊は附近に住む難民小牌(子供)を水汲み、飯ごう洗い、風呂の水汲み等に残飯を与えて使用していた。(中略)部隊は其の後移動のため別れの日がきた。小牌は泣いて分かれを惜しみ見送っていた。[島田政雄 富山県在住]

●中国広西省。私ら昭和18年に中国へ行ったんやけど、37、8歳のロートル部隊で、若い兵士たちが戦闘したあとの占領地の警備部隊でしたわ。わしら安全第一でな、民間人には手ぇ出すな、きついことすなって、命令されてましたやろ、だから民間人とも仲良うやってましたわ。(中略)警備していても敵味方のうて、ある時なんか心やすうなった中国人から、今晩誕生日やさかい、家いっぺん来て下さい、と言われてね。その中国人の友人、家族、近所の者呼んでる所へ行てね、豚のまるやきのようなものとか、びっくりするほどの御馳走や、お酒もチャンチュー飲ませてくれて、そういうことありました。中国人みんないい人でしたよ。[国松秀雄 東京都在住]

●中国。昭和19年4月中支南支と転戦し、武昌の街、文かん大学教授陳先生の広大な庭に我が分隊は馬と共に駐屯した。陳先生は温情深い方でした。分隊のみんなの名前も覚えられて親切にして下さった。戦闘に征途と一年を経て武昌に帰った。懐しい陳先生に逢いたくなり、友と外出し陳先生宅を訪問した。帰る時、美しい娘さんが送別の辞を書いてくれた。[西尾鋼三 岐阜県在住]
     《松谷みよ子 「現代民話考(2)」》



●注目すべきことに、日本軍がすでに侵略の歩を進めていた地域について見た場合にも、国際政治の大きな流れについて無知・無関心な多くの人々が存在していた。この問題の優れた研究者の1人によれば、「多くの中国人、とくに農民は侵略者に対して決して敵対的ではなかった」し、戦争の結果に対する民族的関心も「いたるところで欠けている」ようであった。

●1944年の河南中部の戦いでは、農具や粗末な武器で武装した中国の農民たちは、湯恩伯の軍隊が日本軍の前から退去して来るのを襲って、約5万人の兵隊の武器を奪い、うち何人かの殺害さえも行った。(ロイド・イーストマン)

●そして戦争中、原因不明の失踪者は800万人を超えた。軍の土木工事に狩り出された膨大な数の男女・子供たちの苦しみも大きかった。 

《クリストファー・ソーン 「太平洋戦争とは何だったのか」他の著書「太平洋戦争における人種問題」》


●戦乱続きだった中華民国時代において、戦争犠牲者の数が膨大だったのは事実だが、しかしそれよりも自然災害による犠牲者の方がさらに多かったものと考えられる。日中戦争で日本軍の主力が進出したのは殆どが都市部であり、農村にはあまり影響を与えていない。当時人口の9割以上を占めていた農民は、戦災よりも天災によって貧窮のどん底で喘いでいたのだ。

●日本軍の占領地には、中国本部の人口の約4割が住んでいた。そこでは治安の回復・産業の振興・生活の改善と向上が図られた。だから日中戦争中、反日派よりも親日派の方が多かったということはできないだろうか。
もっとも当時を知る中国人は戦後、親日感情の事実については「漢奸」「媚日」「売国奴」のレッテルと粛清を恐れ、あまり語ってこなかった。それよりも何も、中国政府はそうした言論を規制・弾圧してきたというべきかもしれない。

支那事変における最大悲劇の1つは、黄河決壊事件だろう。蒋介石は武漢へと南下してくる日本軍の進撃を食い止めるために、1938年6月黄河堤防を2ヵ所、砲撃で破壊した。これによって水死者100万人、その他の被害者600万人を出したとされている。(日本軍は事件直後、堤防の修復作業のほか、被災民の救助や防疫作業を行っている)

●1938年1月12日、日本軍の攻略が目前に迫った湖南省長沙では、城内の焼き払いが行われ、城民20万人以上が死亡した。敵から我が身を守るためなら、中国軍は水攻め・火攻めという方法で住民を巻き添えにする。

《黄文雄 「日中戦争 真実の歴史」他の著書「「日中戦争」は侵略ではなかった」》


軍紀が正しい日本軍は、中国人民から常に拍手で迎えられた。手に手に日章旗を持って歓迎していると、写真入りで示した。
    《山本夏彦 「
山本夏彦「豆朝日新聞」







湖南省ではあまりにもシナの軍閥が略奪と暴行を行うので、1944年に日本軍が攻勢になったとき地元の農民が敗走するシナの兵隊を襲って、ときには兵士を生き埋めにした。中国人民にとって日本軍は解放軍の面すらあったという。
(「共産党黒書 アジア篇」ステファヌ・クルトワ ニコラ・ヴェルト 恵雅堂出版)
      《渡部昇一 諸君!2005/6月号》


●戦争中には、人民解放軍に徴募されるよりも、日本軍の支配地域に逃れるほうを選ぶ若者はかなり多かった、とも書かれている。(同書による)
      《小堀桂一郎 諸君!2005/6月号》
 


●蘇州は一部が爆撃で破壊されていた他は無傷だった。これは中国軍がこの町で戦闘・破壊・略奪をしないで退却してくれるよう、住民が金を出して中国軍に頼んだ結果である。(住民からの伝聞)
  《朝日新聞東京裁判記者団 「東京裁判」》


●1938年11月12日午前2時、湖南省政府は日本軍が近づいてきているとの情報(事後にこれが誤りであったと知る)に接し、かねてから決めていたように「焦土作戦」に打って出て、長沙の街に自ら火を放った。省の警備団が動員され、彼らは石油・灯油・綿花・木炭・爆薬・手榴弾を使い、門を閉じたまま焼き払ったのである。

●もちろん事前の通知などなく、民家の住人たちは深い眠りの中で、目覚めると同時に火の海に叩き込まれた。そして殆どの者が生きたまま焼かれ、また窒息死し、ある者は水に飛び込んだまま茹でられてしまった。やっと家の中から飛び出した者も、狂ったように逃げる人の波に踏みつけられて圧死し、河で溺死するという悶絶死をとげたのである。

●李宗仁は回顧録の中で、抗日戦の期間、彼は河南で地元の人々が「敵軍に焼き殺されようとも、湯軍が駐留するよりはまし」と歌っているのを聞いたと書いている。湯軍とは、蒋介石の直系の湯恩伯が率いる部隊のことである。

内紛が往々にして外国勢力と戦う場合よりも激烈で残酷であることは、その後に起きた国共内戦や文革によって十分証明されているはずだ。
      《趙無眠 文芸春秋2006/11月号》


●村の治安の維持が駐屯地の大事な役目だった。山中に潜んでいる中国兵(正規兵や雑軍といわれる不正規兵もいた)が時々下りてきては、村々から糧秣を奪っていく。近くの村々には小銃を持った自警団があって、追っ払うのだけれど、いよいよ危なくなると助けを求めてくる。そうなると夜中でも飛び起きて、厩舎に駆け込み、鞍を置いた兵隊から順に出動した。そういう明け暮れだった。命がけだった。 
       《伊藤桂一 諸君!2007/8月号》


●日本軍占領地域は軍紀厳正であったので、ここは日本軍の占領地域だということを示すため、現地の中国人がみんな自分の家の前に日章旗を立てるということもあった。それを見た日本の師団長が「勝手に日章旗を立てないでくれ」と禁止をしている。
    《岡崎久彦 「 国家は誰が守るのか」》

●ニューヨークタイムズのダーディリン記者も、「やっと日本軍が入ってきて、中国軍の暴行略奪が収まったので住民はホッとした」という趣旨のことを書いている。
           《藤岡信勝  〃  》


●下村海南の「終戦秘史」によれば、河南省の一部隊の挿話として、敗戦後は日本軍と現地民が共同生活をして、「21年の4月まで、どこに戦争があったのか、誰が勝者であるか、誰が敗者であるか。まことにおだやかな九ヵ月の月日が流れた、中国の田舎のお百姓が、豚を殺した、鶏を絞めたと肉の皿に地酒を添えて持参する。卓を囲み、『もう戦争はこりごりだ。これからは本当になかよく親しくつきあうヨロシイ、乾杯乾杯』と杯をあげる」雰囲気であると書いている。

●日本軍が惜しまれながら去ったという話もある。日本軍とどうにかやっていくことを覚えた住民としては、その後にどんな軍閥土匪がくるかわからないからである。また、共産軍を迎えた地域の多くでは、中産階級は根こそぎ殺戮されている。日本軍が去った将来について、住民が不安を感じたのは想像にあまりある。

もし、日本軍が暴虐の限りを尽くし、中国人民の怨嗟の的だったならば、中国人民による相当規模の報復的行為がなかったはずがない。
     《岡崎久彦 「吉田茂とその時代」》


●日本兵と中国民間人との交流…
 ◇中国人が奏でる胡弓を兵士は聞いていた。
  演奏会で哀愁の音にしんみり。
 ◇兵士と民衆との合同運動会もあった。
 ◇日本の衛生部隊は、中国人をよく治療した。
 ◇都市へ入城した兵士には、中国人の物売りが
  集まってくる。
            《「大日本帝國軍隊」》


中国での日本軍は日の丸で歓迎されていた。
●『アサヒグラフ』1939年11月22日号によると、「私たちは今限りなく幸福なのだ。和やかにそよ吹く風。美しい姑娘の手によって掲げられた日華両国旗が翻る」というキャプションで中国・広東での写真が掲載されている。

●同誌1938年1月5日号には、南京陥落から2日後に、陥落を祝って5万人の中国人が参集している北京での写真が「天安門前の慶祝市民大会に殺到した群衆」というキャプションで掲載されている。

●同じく同誌1939年2月8日号には、「両側はドッと上がる歓声の渦 反蒋大会デモ行進の一場面」として、蒋介石が当時、ほとんどの中国都市部で嫌われていた証拠写真が掲載されている。
 《水間政憲による写真 Voice2015/3月号》


 ※関連ページ : 「親日のアジア」も参考にして類似性をみて下さい。

【日中戦争】
21ヵ条の要求/中国プロパガンダの第一弾
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