賢者の説得力ホーム日中戦争和平工作

日中和平工作

日中はこの全面戦争の収拾を図るため、
様々な和平工作を企てるが、
日本側の強気な和平条件で
ご破算になってしまったという…


●日中戦争でも、宣戦布告をせずに「事変」から「戦争」へ発展させなかった。国内世論が「暴支膺懲」(暴虐な中国をこらしめる)に傾いて、抑止が利かないほど沸騰しても、和平の道を模索し続けた。(中国を”構う”余裕など日本にはなかったのである)

●日本の和平工作は、蘆溝橋以来、戦争の遂行と並行してずっと続けられていた。(船津工作・トラウトマン工作・宇垣工作等)軍の拡大派も、決して日中全面戦争を求めてはいなかった。

●もっともこれらの工作は全て失敗に終わった。その原因として挙げられるものに、まず和平条件があっただろう。たしかに日本が提示した条件の中には、「日本軍による北支(華北)での保障駐兵」といった中国側の主権を制約を制限するものがあったからだ。しかし、軍事的には日本軍が優勢だった以上、こういった条件をつけるのは当然のことだ。

●蒋はたいてい部下の対日和平交渉を黙認していた。しかし、もしそれが失敗した場合はライバルから足をすくわれかねないから、自分からは積極的に着手しなかった。中国では歴史的に「和平」は「売国」を意味する。和平に動いたという評判が立っただけでも、権力基盤が危うくなるのだから。このような文化基盤も和平工作を妨げた。

●トラウトマン工作では、中国側からは故意に交渉を引き延ばそうとする回答しか得られなかった。
そうした中、日本側の条件が「甚だしく侵略的」だと懸念した参謀本部の要請で、大本営御前会議が開かれた。(1938年1月11日) 席上、参謀総長・閑院宮親王の「戦勝国が戦敗国に対するような過酷な条件は出すな。これ以上、敗者を鞭打つな」という方針で、梅津・何協定や治外法権・租界・駐兵権などの放棄も考慮する方針が決まった。

●しかし蒋はすでに「投降以外に和平はなく、抗戦以外に生存はない」と、和平拒否と長期戦を決意していた。
日本政府は、中国に和平の意志なしとみて工作を打ち切った。

●独駐日大使ディルクセンは「和平交渉の機会を捉えなかったのはむしろ中国側だった。蒋介石はトラウトマンに会おうとせず、日本側の条件についての正式会議も開かなかった」と本国に報告している。

●また蒋は、アメリカの対日参戦による中国の勝利を信じていた。彼は日米開戦以前(1940年9月28日)に早くも、「三国同盟がついに現実をみた。抗戦必勝の局勢はすでに定まった」と日記に書いている。この頃、蒋にはすすんで日本と和平を結ぶ必要はなくなっていたといえる。

《黄文雄 「日中戦争知られざる真実」
 他の著書「「日中戦争」は侵略ではなかった」》



●トラウトマン工作も、日本は講和の条件として賠償の放棄というところまで譲歩しているのに、中国は乗ってこないと怒っている。
        《保坂正康 「昭和史の論点」》


●トラウトマン工作は失敗した。
◇蒋介石としては日本側の提示を承認なんてしたら、毛沢東に中国をとられてしまう。

◇和平に失敗して近衛は「国民政府対手にせず」の声明を出したが、そういっておかないと収まりつかない。近衛の政府内でも政権をひっくり返そうと待ち構えている(平沼騎一郎・末次信正等)のがいるのだから。新聞も勝った勝った、提灯行列だと沸いている時に下手に手打ちなんかしたら、国民も納得しない。(日比谷焼き討ち事件のようなことが起こる)
    …どちらも悪い。
《坂野潤治 「大日本帝国の民主主義 ―嘘ばかり教えられてきた!」》


●蒋介石の顧問だったW・H・ドナルドというオーストラリア人が、ニューヨーク・タイムズのインタビューに答えた内容。(1945年1月)…日本は1938年から1941年の間に、中国側に対し12回も和平提案を行った。しかもその条件は中国側に有利なもので、中国に対する領土的要求は含まれていなかった。(ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」より)
   《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史4」》


●蒋介石が平和主義的対応を取る中で、毛沢東は「抗日政策」ということを言い出した。そして学生たちを煽動して、蒋介石は消極的な抗日しかしていない売国奴だ、我々共産党こそが本当に人民のために抗日をしているんだ、と言って人民たちの関心を惹き、日本製品の不買運動など様々な反日運動を始めたのである。
…蒋は売国奴にされるのが怖くて、結局日本と戦うことになってしまった。
     《金文学 「逆検定中国国定教科書」》


●日本政府は、敗北した国民党政府が妥協せず、奥地の重慶に臨時首都を移して徹底抗戦の構えを崩さなかったため、国民党との和平交渉を断念してしまった。その結果、日本政府は政治的な解決を図ろうにも、当事者能力を有する交渉相手を見つけることができず、シナ本土に次々と傀儡政権を樹立せざるを得なかった。
       《松村昌廣 諸君!2007/10月号》


●近衛首相の「爾後国民党政府ヲ対手トセズ」の理由…
当時日本の占領地域には、すでに中華民国臨時政府(北京・首班王克敏)や、中華民国維新政府(南京・梁鴻志)などの自治政府が誕生していた。日本としては何とか事態を収拾したいがため、抗日姿勢を堅持する蒋政権に替えて、「真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待」すると考えたのだ。
    《黄文雄 「日中戦争知られざる真実」》


●1940年に南京に成立した汪兆銘政府に対しては、1943年に租界を返還して日華友好の理念を具体化していた。
《北村稔 「日中戦争」他の著書「「南京事件」の探究  その実像を求めて」》



【日中戦争】
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中国の内戦/日中戦争前の国内混乱状態
西安事件/日中戦争前夜
盧溝橋事件/中国共産党の罠という定説
盧溝橋事件後/中国の暗躍と戦争拡大
上海事変/実は中国の侵略行為
日中和平工作/中国の妨害
日中戦争の実相/意外と緩やかな戦闘
中国の民衆/日本軍を支援した者も少なくない
日中戦争への欧米の介入/中立のはずが中国へ肩入れ