西安事件日中戦争前、中国国内では
蒋介石率いる国民党軍と 毛沢東の中国共産党軍(中共軍)とが 激しい内戦を繰り広げていた。 そんな中、突如、蒋介石が部下である 張学良の軍に監禁される 「西安事件」が起こる… |
●近現代日中交流史の中で、一番重要な意味を持っていたのが「蘆溝橋事件」ではなく、「西安事件」だった。「西安事件」は日中戦争の序曲であり、これなくして日中戦争を考えることはできない。 ●国共戦を野球に例えると…先攻の国民党は、9回表までに9点を取り勝利は確実だと思われていたのに、8回裏、共産党は「西安事件」によって一挙10点を入れて起死回生の大逆転に成功。9回表、国民党は蒋介石釈放によって辛くも1点を入れて同点にはしたが、そのまま果てしない「延長戦」が続いた。 《鈴木明 「新『南京大虐殺』のまぼろし」》 ●東京裁判・ラザラス弁護人…「1935年8月1日、中国共産党は対日戦争をいどむ『8・1日宣言』を行い、事実上戦争の準備を始めた。翌年12月に蒋介石誘拐の『西安事件』が発生した」 《朝日新聞東京裁判記者団 「東京裁判」》 【西安事件】 ●1936年頃、中共軍(中国共産党軍)は掃共戦の結果、極めて微弱な兵力しかなかった。(蒋介石によれば「最後の5分間」) 中共としては国民政府の掃共戦を止めさせ、その矛先を日本軍に向けることが自己延命のために絶対必要だった。 ●そこで、当時掃共戦に従事していた張学良の東北軍に対し、起死回生の策として下士官兵の赤化工作を行った。当時東北軍は、満州事変以来、故知満州に戻れず、望郷の念と抗日気運は特に強い部隊だった。 そこへ「中国人は中国人を打たず」「一致抗日」「我等と連合し闘って満州へ帰ろう」などのスローガンは、いつしか兵士の内部に深く浸透していった。(巧みに心理をついた) ●部下と周囲が左傾化するにつれ、張学良もその心理作戦に屈して掃共戦の意欲を失っていく。 そして1936年夏、延安で周恩来と極秘に会談し「共同抗日」を約した。 ●10月下旬、張の掃共戦を督励するために西安に来た蒋介石を、12月12日早朝、東北軍将校率いる一隊が逮捕し監禁した。そこで張は蒋に中共共同を求めたが、蒋は全く取り合わなかった。 ●12月25日、蒋は釈放された。(釈放条件の有無に関しては、今日でも不明) しかし1937年1月、掃共戦は停止され、「あと5分間」から中共は蘇生した。ここに10年間に及ぶ国共内戦が停止され、対日戦へ転化していった。 《中村粲 「大東亜戦争への道 」》 ●蒋介石が望まなかった日本との戦いに乗り出さざるを得なくなったのは、張学良のクーデターによって強いられたためである。 《福田和也 「第二次大戦とは何だったのか?」》 (他著書「俺の大東亜代理戦争」) ●陝西省の山奥で包囲された中共は、ここで退いたら国境を越えてソビエト側に逃げざるを得ないところまで追い詰められていた。 ●一方張学良は、5年前の満州事変で根拠地を追い出されてからずっと流浪の身で、いつになったら満州に戻れるのか焦れていた。蒋介石が共産党との戦いばかりしていて、自分の虎の子の軍隊がむざむざ消耗することにうんざりしていた。それで包囲したものの、共産党軍に対する攻撃はずっとサボっていた。 …それに業を煮やした蒋介石が、西安に督励のためにやってきた。(飛んで火に入る夏の虫) 《福田和也 新潮45 2005/6月号》 |
【日中戦争】 ★21ヵ条の要求/中国プロパガンダの第一弾 ★中国の内戦/日中戦争前の国内混乱状態 ★西安事件/日中戦争前夜 ★盧溝橋事件/中国共産党の罠という定説 ★盧溝橋事件後/中国の暗躍と戦争拡大 ★上海事変/実は中国の侵略行為 ★日中和平工作/中国の妨害 ★日中戦争の実相/意外と緩やかな戦闘 ★中国の民衆/日本軍を支援した者も少なくない ★日中戦争への欧米の介入/中立のはずが中国へ肩入れ |