盧溝橋事件後の
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●日中戦で現地が「不拡大」から「拡大」へ動いた理由… ①天津と北京の中間で電信線が切断されるという事件がしばしば起き、修理にあたっていた部隊が中国軍に攻撃された。 ②日本軍が北平市内に入ろうとしたとき、広安門で中国軍が機銃掃射した。 …これらによって全面戦争に拡大していった。 《田原総一朗 「日本の戦争」》 ●「広安門事件」=蘆溝橋事件後は北京市内の在留邦人が危険になったので、日本軍が城内に入ろうとしたところ、半分はいったところで門を閉められて、城外に残された部隊が撃たれた。 これに怒った日本軍は北京を占領する。これは当然の措置である。 《岡崎久彦 「日本の失敗と成功」》 (他著書「吉田茂とその時代」) ●7月26日の広安門事件発生で、不拡大の中心であった石原寛爾作戦部長も、遂に不拡大方針を一擲せざるを得なくなった。 《中村粲 正論2005/10月号》 ●元中共軍将校・葛西純一氏の「新資料蘆溝橋事件」(74年 成祥出版社)に記載されている、中共中央委員会が発信した7月23日電文の【葛西注】によると、 「…『蘆溝橋事件』の火が消えてしまうことは、中国共産党にとって死活問題なのであった。従って華北各地に抗日事件を続発させ、よって日本の大軍を必ず華北に誘致する戦略は中国共産党にとって至上命令であった」と解説している。 ●それを裏付けるように7月25日に郎坊事件・7月26日に広安門事件と連続して日本軍を挑発した事件が起きている。 《高森明勅 正論2005/4月号》 ●支那事変の日付に注意してほしいのだが、7月7日に蘆溝橋事件が起きてから実に3週間にわたって、日本側は必死に不拡大方針を取ったのに対して、南京政府は2日後の7月9日には動員令を出している。これだけを見ても、支那事変を準備し拡大していったのは、中国側であることは明瞭。 《諸君!2003/5月号》 ●現地解決交渉中であった事件勃発3週間後、通州で日本人が2百数十名も虐殺されたのだ。(通州事件) 今のアメリカだって、自国人が200人も虐殺されれば軍隊を送り込むだろう。当時の日本だってそうしたのだ。 《渡部昇一「田中真紀子総理大臣待望論『オカルト史観』で政治を読む」》 ●通州事件の時、日本人の遺体の中には性別もわからぬほど、切り刻まれていたのも少なくなかった。 《稲垣武 「日本と中国永遠の誤解」》(他著書「『悪魔祓い』の戦後史 進歩的文化人の言論と責任」) ●「通州事件」=当時の新聞によると、女性は全て裸にされて辱めを受け、男性は局所を切り取られたりしていた。また、鼻に牛のように針金を通された子供や、目玉をくり抜かれた人、さらに腹を抉られたりした人など見るも無残だったという。 《田母神俊雄 「自らの身は顧みず」》 ●東京裁判で通州事件のことが話題になったとき、これを不利な材料と見た人たちは、「あの事件はそもそも日本軍が通州の保安隊施設を誤爆したからだ」と言い立てたが、これは全くの嘘である。 ●たしかに虐殺事件の直前に誤爆事件があったのは事実である。盧溝橋事件が現地協定で休戦になったにもかかわらず、北京周辺では国民政府軍が日本軍に対して攻撃を仕掛けるという事件が何度も起った。日本軍はこの国民政府軍の兵営を爆撃することにした。 ●通州を支配していたのは親日的な冀東防共自治政府で、だからこそ日本人の居留民が住んでいたのだが、同じ通州には反日的な国民政府軍の駐屯地もあったのである。 こうした複雑な状況が不幸な誤爆を生んだ。というのは、関東軍の爆撃機が国民政府軍の兵営を爆撃するつもりで、その隣にあった通州の保安部隊の施設を誤爆したのだ。この結果、数名の保安隊員が死亡した。 ●だが、ただちに関東軍の責任者が冀東政府の高官を訪問して陳謝したので、一件落着となった。 関東軍は遺族のところにも足を運んでいるし、また保安隊をも訪問して、事情を話して理解を求めている。事後処理に手落ちはない。だから、誤爆事件が虐殺事件の引き金になったという見方は事実ではない。 ●そもそも、誤爆程度のことで住民全体を虐殺したというのであれば、それは保安隊の神経の方がおかしかったということになるではないか。 ●それではなぜ、通州の保安部隊が日本人居留民を襲ったか。 要するに、誤爆事件以前から彼らは反日側に寝返って、虐殺をやる気でいたのである。国民政府に寝返ったという説もあるし、中共に寝返ったという説もある。 《渡部昇一 「昭和の大戦への道」》 (他著書「封印の近現代史」) ●7月9日 現地で停戦協定が結ばれた。しかし中国側は撤退しないどころか、攻撃を続行した。しかも中央軍の北上の情報もあったため、日本政府は三個師団の派遣を閣議決定。 ●7月11日 現地では再度停戦協定が結ばれたため、派遣は見合わされた。 だがその後、細目協定が協議される中、中国軍はまたしても停戦協定を破り攻撃を始めた。そこで日本軍もついに攻撃を開始し、政府も再度派遣を決定したが、中国軍が撤退を始めたためこれも見合わせになった。 →7月26日 広安門事件発生。 →7月27日 日本政府は3度目の動員命令を下した。 →7月28日 日本の天津軍が中国側に開戦を通告し、北京と天津の敵を掃討した。 →7月29日 通州事件発生。 →これが日本国民を激昂させ、「暴支膺懲」が合言葉になっていく。 《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》 (他著書「『日中戦争』は侵略ではなかった」) |
※関連ページ 日本人の被害の「中国本土での被害」も参考に |
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