賢者の説得力ホーム東京裁判不当な裁判

 

不当な裁判

東京裁判における、数々の不当さ、
不公正さを列挙してみる。


●「勝者が敗者を裁く」ことは、ハーグ条約で禁止されていた。(正義よりも復讐であると考えられるから)それにも拘わらず東京裁判を行い、戦争責任の一切を日本に押し付けた。東京裁判そのものが、国際法を無視した違法である。
   《藤岡信勝 湊川栄太 「歴史の本音」》


●本来なら戦勝国が原告、敗戦国が被告となり、スイスやスウェーデンのような中立国が裁判官になって初めて公正な裁きが可能になるのに、東京裁判では戦勝国が検事と裁判官を兼ねてしまった。
        《鳥海靖 諸君!2005/8月号》

●石原寛爾はアンチ東條だという理由で、占領軍は石原を尋問はしたが捕まえなかった。これ1つとってみても、東京裁判は実にいい加減だ。
           《平川祐弘  〃 》


●アメリカは、日本の戦前の体制は、ヒトラーのナチズム・ムッソリーニのファシズムと同質のものであると誤解していた。だからニュルンベルグ裁判と同じ枠組みで、日本を裁くことが可能であると考えていた。そのためにヒトラーやムッソリーニと同等の独裁者として、東條英機という人物を引っ張り出し、ナチズムやファシズムといったイデオロギーの替わりに国家神道を持ち出した。

●しかし、やがて日本の戦前の体制はナチズムやファシズムとは全く異なる構造であったことに気が付いた。その誤りはGHQ自身が認めている。1952年にマッカーサーとトルーマンが太平洋上のウェーク島で会談するが、そのときマッカーサーは東京裁判は誤りであったと明確に語っている。
    
 《田久保忠衛 文芸春秋2005/8月号》


勝った国には戦争犯罪人が1人も存在せず、負けた国だけに千人もいるということ自体おかしい。
  《上坂冬子 「歴史はねじまげられない」》


●7月26日のポツダム宣言を受け入れた日本が責任を問われるとすれば、太平洋戦争についてのみのはずである。だが東京裁判では、すでに決着済みの過去の日本の行動までもが罪に問われた。
◇満洲事変…満洲国は多数の国によって承認された。停戦協定も締結済み。
◇張鼓峰・ノモンハン事件…1939年に日ソ間で協定を結び決着済みである。 など
《櫻井よしこ 「GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く」》


考えてみれば、2年半を要したとはいえ、平時ならばたった1人の殺人犯を裁くのにもそのくらいはかかるし、死刑にするにはその数倍もかかる。それなのに15年に及ぶ世界の動乱の時期における、数十名の指導的地位の人々のそれぞれの責任を論じて、7人を処刑するようなことが、そんな短期間でできるはずもない。

●それが可能な唯一の方法は、最初に筋書きを書いておいて、形式的な手続きだけは進めて、都合のよい証言だけを揃え、都合の悪い証言は却下して、その筋書き通りの結論を出すしかない。
      《岡崎久彦 中央公論2006/1月号》 


●ウェッブ裁判長はあからさまに「本法廷は日本の指導者を裁く法廷であって、連合国が犯した非道は、われわれの権限の外である」と宣言し、そのような証拠も証言も一切却下した。

●法廷は、インド・オランダ・フランス・フィリピン・オーストラリアの各判事の少数意見の判決を認め、これを法廷記録に集録しながら、多数派意見をもって全裁判官の判決なるがごとき形式を装い、これのみを公開の法廷において宣告し、少数意見の宣告はしなかったのである。これは公開の原則ならびに宣告の原則を無視した違法手続きであった。
  《田中正明 「パール判事の日本無罪論」》


●インドのパルやオランダのレーリンクのような優れた判事もいたが、米国が派遣した法律家は二流や三流の人たちだった。
 《リチャード・マイニア 朝日新聞2006/5/3》


●オランダ代表判事レーリンク博士は「東京裁判とそれ以後」という著書の中で、次のように述べている…
「自分が任命されたのは、偶然なことだった。私がユトレヒトで裁判官をしていて、同時にインドネシアの刑法の特任教授であったことが、そうなった理由だ。私がアジアと多少関係しているというので、極東でこの任務に就くのが良かろうと勧められた。私は国際法学者ではなかった。その当時、私は国際法について何も知らなかった」

●実際には、判事に指名された11人のうち、国際法の知識はおそか、法律学一般の素養さえも十分ではないと危惧される者が少なくなかった。 厳密な意味での法律学者といえるのは、おそらくレーリンク博士とパール判事の2人だけであったろう。そして、裁判に不可欠な国際法の知識はパール判事によってのみ、十分に具備されていた。
   《佐藤和男 「世界がさばく東京裁判」》


●ウェッブ裁判長は、かつてニューギニアにおける日本軍の不法行為を調査し、オーストラリア政府に報告していた。事件の告発に関与した者は、その事件の裁判官になれないのは近代法の常識である。

証人が被告人に有利な証言をしようとすると、その都度、裁判長が発言を阻止するので、スミス弁護人が「法廷は弁護人の審理に対して不当なる干渉をしている」と発言すると、ウェッブ裁判長はスミスを裁判から外した。
    《小林よしのり 「いわゆるA級戦犯」》


●勝ち組が敵将を「さらし首」にしたり、死体を引きずり廻したりすることが勝利の「美酒」と思っていた。しかし、それが恨みとなり次の戦争の火種になると気付いた人類は、勝者が敗者を裁くことを国際法で禁じた。
        《中條高徳 正論2002/9月号》


●東京裁判は「文明の裁き」と言われた。これはキーナン主席検事の「この裁判の原告は文明である」という発言によるものである。「文明」とは何か?「正義」とは何か?それは哲学・思想・宗教の分野で取り組むべき問題であり、法律家の領域ではない。法律家が裁判という場で裁く場合、従うべきものは法の真理だけである。人間社会が長い年月、論理を積み重ね、慣習、判例によって実効性を獲得してきた法律という「形式」以外に、法律家が判断基準を求めては決してならない。
    《小林よしのり SAPIO3/26号》


●北岡俊明氏の著書「ディベートから見た東京裁判」(PHP研究所)が指摘しているように、裁判の管轄権ディベートは東京裁判冒頭の歴史に残る名場面であった。日本側の論理的な反駁に判事団も検察側も押されっぱなしであった。 東京裁判法廷には、日本を裁く資格はないという弁護団の主張は、あと一歩というところまで検事側と判事団を追い込んだ。法廷で連合国を相手に一歩も退かず、2年半にもわたって堂々たる論陣を張り、血みどろの戦いを繰り広げた弁護団がいたのである。
    《福井雄三 「司馬遼太郎と東京裁判」》


ニュルンベルク裁判・東京裁判以前には、戦争そのものを違法とする考え方は国際法にはなかった。ところが、この2つの裁判においてはいきなり「侵略戦争違法論」が適用されてしまった。(事後法で)
しかし裁判が終わってしまえば、侵略戦争の違法性などというものは、今日まであらゆる大国から全く無視されている。(明らかな侵略行為でも、そうでないと言い張るのが常である)後にも先にも、それが侵略戦争だと認定されたのはこの時だけである。つまり、ドイツと日本のためだけに特別に誂えられた「オーダーメイドの囚人服」だった。
   《佐藤貴彦 「ぼくらの『侵略』戦争」》


野球の審判が「これから盗塁はできないことにする。だから今走ったランナーはアウト!前の回に盗塁した結果入った得点も取り消す」と言い出したらどうするか。これが東京裁判である。(野原清嗣・岐阜県立本巣高校教諭)
《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史」他の著書「NOといえる教科書 真実の日韓関係史」》


●不戦条約を引用して事後法ではないという議論もある。しかし日本は、それが自衛戦争か否か自ら判断する権利がある。また仮にそれが自衛の範囲を逸脱していても、予想されている罰はせいぜい国際世論による批判である。

●ソ連がバルト三国とフィンランドを攻撃して国際連盟から除名され、ハンガリー・チェコ事件により国際連合で糾弾されたのがその例である。その場合も非難されるのは国家であって、個人ではない。
戦争のあとで敗戦国の指導者が個人の責任を問われて処刑されるなど、不戦条約のどこを読んでも、予想しうべくもない。
     《岡崎久彦 中央公論2006/1月号》


●遡及的立法の禁止の原則は、アメリカの憲法の第一条にも定められており、「法ナケレバ罪ナク、法ナケレバ罰ナシ」というラテン語の法諺で表現されている。
  《江崎道朗 「「世界がさばく東京裁判」》


●連合国がニュルンベルク裁判でドイツに適用しようとした「平和に対する罪」は、事後法という理由によってドイツ弁護団から猛反撃を喰らい、大幅に撤回せざるを得なかった。これは、まともな法律学の知識を身につけた者から見れば、当たり前すぎるくらい当たり前のことである。

●結局、ニュルンベルク裁判で最終的にドイツが断罪された主要な罪状は、ユダヤ人への大迫害を理由とする「人道に対する罪」であった。世界の普遍的な法律知識から考えても、ドイツを重点的に裁く理由がこれ以外に見つからなかったのである。その結果、ニュルンベルク裁判では「平和に対する罪」、すなわち侵略戦争罪は主要な犯罪要因としては重点的に適用されなかった。ドイツは戦争責任そのものを主たる要因としては裁かれなかったのである。 
   《福井雄三 「司馬遼太郎と東京裁判」》


●実際に裁判では取り上げなかった膨大な量の供述や資料が、山ほどあるのだ。裁判では、裁かれる事項に対して検察側と弁護団側が独自に調査を行って、証言や資料を集める。裁判の実態をつかむためには、その両方を把握しなければ解らない。まして戦勝国が敗戦国を裁こうという裁判においては、裏面工作は臆面もなく行われ、真実を追究することは至難の業である。
  《佐藤早苗 「東条英機封印された真実 」》


●裁判の中で日本側弁護人ブレークニーが、アメリカの原爆投下の非を責めた時、法廷では突如として同時通訳がストップし、そのコメントが日本語に翻訳されなかった。他にも日本側が提出した数々の弁護側資料が、理由もなく問答無用とばかりに却下されていた。
           《諸君!2002/2月号》


日本に有利な証拠の数々は約32%(約2千件)が却下された。それは下記のようなもの…
①日本政府・軍部の公式声明全てが却下
②日本の正当な権益を脅かした組織的な排日運動の事実は全く無視(中共に関するもの)
③満洲事変以前に、満洲人の自発的な独立運動があった資料は全て却下
④連合国側の違法行為(原爆など)は大量に却下

…これに対して検察側の証拠は、たとえ伝聞証拠であっても殆ど法廷証拠として採用され、却下されたのはわずか3%のみ。さらに偽証罪は適用されなかった。検察側は言いたい放題だった!
 《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史」
 他の著書「中国はなぜ尖閣を取りに来るのか」》






●岡本敏男弁護人の担当にかかる冒頭陳述の後半部分では、満洲帝国成立の導入とも基礎ともなった廃帝溥儀の復辟運動が、決して関東軍の陰謀的工作に発するものではなく、満州人の間から自発的に生じた民族的念願の表現だったことが論ぜられている。

●しかしこの主張の裏付けをなすべき証拠史料の大半は、法廷証としては採用を拒否され、溥儀の「自分は関東軍の傀儡だった」という悲鳴の如き叫びばかりが世に記憶され、やがて定説と化す。

●ラザラス弁護人の冒頭陳述第二部は、当時の中華民国における排日運動を作り上げたのは共産党の工作だったことを痛論している。特に1935年のコミンテルン第7回総会の党綱領の拡張議定を受けて中共が発したいわゆる「八・一宣言」は、対日戦争を挑む方針の公表であり、事実これを以て中共の戦争準備が始まったこと、西安事件はこの結果として生じたもので、且つそれが蘆溝橋事件にも緊密に連関したものなることを、明白に、誰憚ることなく主張している。そして、これらの主張を菟荒づけるための証拠はやがて提出する、自分の見解は史料によって立証されよう、と断言する。
ところが肝腎のその証拠は、裁判長と検察官の恣意的な採否権濫用によって次々と却下された。

法廷証としての採用を拒否された、いわば「却下率」の最も高かったのが、この排日・侮日の暴力行為の淵源は中共にあり、とする弁護側の反駁的立証部門である。
◇排日運動関係では、提出された74点の中、法廷証として採用を認められたのは僅か7点のみ。
◇中共の活動自体についての弁護側反駁証拠に至っては、75点中、唯1点しか採用されていない。

…これでは第一~第六部までにわたって果敢に展開されたラザラスの陳述も、裏付けを欠いた個人的見解の水準に落とされてしまう。    
     《小堀桂一郎 「東京裁判の呪ひ」》


●清瀬弁護人…「それ(却下された証拠書類)は膨大なものです。なかでも日本政府の声明、これはセルフ・サービング、つまり自分で自分を弁明するものだといって初めから却下されてしまうのです。中国との戦争、これは日本では事変と言っているが、あの時分の蒋介石政府なり汪兆銘政府との間の合意によってできた声明、これも歴史上の記録ですが、みな却下です。おそらく弁護団側の出した証拠は十通のうち八通まで却下されたと思うのです」(「日本週報」昭和31年4/5発行)
   《江崎道朗 「世界がさばく東京裁判」》
 


●田中隆吉は「あれもやりました」「これもやりました」と、いろいろな人から聞いた話を証言した。彼に対するパルの見方は次のようになる…

「検察側提出の証拠中にありうると思われるすべての穴を埋めるために、検察側によって思いのままに奉仕を要求された田中隆吉証人が登場する。ここに一人の男あり、かれは日本の不法行為者どもの一人一人にとって非常に魅力ある存在であったと見えて、それらのものどもはその行為をなした後に、どうにかして、またいつかこの男を探し出して、その悪行の数々を打ち明けたのである」

●張作霖殺害の中心人物とされた河本大作大佐が1935年に計画の全てを打ち明けた他に、長勇大尉、橋本欣五郎中佐、大川周明、建川美次少将からも話を聞いたと田中は言う。

●河本大佐は東京裁判当時は生存していたが、なぜか法廷に召集されなかった。田中の証言だけで済ませたことは、田中の証言の信憑性を考える上で重要なポイントである。
     《渡部昇一 Voice2008/1月号》


●田中隆吉は、関東軍参謀・陸軍省兵務局兵務課長などを務め、大東亜戦争になってから東條陸相と、戦争指導上のことで衝突。それが原因とは思われないが、退役したという人物である。

●田中はキーナン主席検事が住んでいた野村生命社長邸に、なぜか裁判前の尋問のときから投宿していた。東京裁判関係者の間では、彼には食料品を始め生活必需品等も検事側から与えられているなどの話で持ちきりであったとか。

●田中は先見性のあるいわゆる賢い人間で、裁かれる日本国に見切りをつけ、自発的に占領軍側に協力し、日本側の資料などを提供していたといわれている。これも当時関係者の間では有名になっていた話らしく、私も複数の関係者から聞いている。

●田中は張作霖爆殺事件について、次のように証言した…「この事件は当時の中央政府の張作霖政策に不満を持っていた関東軍参謀・河本大作大佐以下十数名の計画に基づいて決行したものであった」

●さらに柳条溝事件に関しては、満洲侵略の口実を作ろうとする日本陸軍の陰謀であり、その主要関係者は陸軍中央では建川少将・橋本中佐・長大尉、民間では大川周明、関東軍では板垣大佐・石原中佐であったとして、これらの人々の事変勃発前後の行動について詳細に証言したのである。

●この田中証言に対しては、田中の行状を知っている弁護団から…
 ◇「証人は検察側から報酬をもらって、情報を
  売り込んだのではないか」
 ◇「証人は神経衰弱、精神異常のため入院した
  ことがあったのではないか」
 ◇「証人は麻薬を吸ったことがあったのではな
  いか」
…などという質問も飛び出した、と「極東国際軍事裁判速記録」にも記されている。
  《佐藤早苗 「東條英機 封印された真実」》


●被告の選定はきわめて政治的だった。恐らく陸軍兵務局長だった田中隆吉などが、「武藤章憎し」ということで立ち回ったのだと思う。
       《牛村圭 文芸春秋2006/9月号》 


●裁判にソ連側は、6名の日本人捕虜を証人として出廷させた。(草場辰己中将・村上啓作中将・松村知勝少将・瀬島龍三中佐・松浦九州男少佐・武部六蔵少佐)捕虜はソ連の支配下にあり、ソ連政府に有利な証言を命令されていた。(KGB文書に載っている)

●ブレークニー弁護人…「われわれの見るところ、背中に銃をつきつけられている人物から、その人物をとらえている者たちの考えに反する好意的な証言を得ることはまったく期待できない」(7月9日の法廷で)
        《アンドレイ・イーレシュ
          「KGB極秘文書は語る」》


東京裁判では、証人に偽証罪を問わなかったから、南京での20万人虐殺などという主張が確たる証拠なしにとび出した。
      《藤原正彦 文芸春秋2010/7月号》



【東京裁判】
公正な裁判とは/東京裁判と比較
不当な裁判/裁判の体をなしていない茶番
戦犯とは/ABCランクの意味 
A級戦犯/誤解されている人物像
侵略戦争とは何か/いまだに定義されていない事実
パール判事/唯一理性的だった判事
日本への弁護/近年の東京裁判に対する世界の評価
東京裁判の本質/誰も評価していない単なる復讐・見せしめ裁判
東京裁判受諾/誤解されているその意味
B・C級戦犯とは/その区分と悲惨さ