賢者の説得力ホーム東京裁判パール判事

 

パール判事

東京裁判で唯一、国際法の専門家といわれる
インドのパール判事。その主張とは…


私はある国際法律学者から、東京裁判の判決および判事の行為で、今日、法学的に意味があるのは「パル判決書」だけだということを聞いたことがある。
 
 《渡部昇一 「日本は侵略国家だったのか」》



●東京裁判では、たった1人、パル判事の判決書は読み上げられず、しかもその出版も禁じられていた。
   《渡部昇一 「こんな日本に誰がした」》



●少数意見として葬り去られたパール判決文は、英文にして1275ページ、日本語にして百万語に及ぶ厖大なものである。多数派の判決の分量を上回る。

●博士は、カルカッタ大学総長の職を辞して、東京裁判のインド代表判事に着任した。着任してわずか2ヵ月、他の十判事が共に談ずるに足りないと悟るや、彼らと一切の交渉を断って帝国ホテルの自室に閉じこもった。
彼らが観光旅行や宴席にあるとき、博士は部屋にこもったまま調査と著述に専念した。ことに資料の収集には力を注いだ。カルカッタの自宅から何度も著書を取り寄せ、米英の友人からも資料を送ってもらった。博士が2年半に読破した資料は4万5千部、参考書籍は3千冊に及んだ。

●博士が再度訪日した時、朝野の有志が帝国ホテルで歓迎会を開いた。その席上ある人が「同情ある判決をいただいて感謝にたえない」と挨拶したところ、博士は直ちに発言を求め「私が日本に同情ある判決を行なったと考えられるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したものでもなく、西欧を憎んで判決したものでもない。事実を事実として認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したにすぎない。それ以上のものでも、それ以下のものでもない」と述べた。

●その後博士は、国連の国際法委員会の委員長として活躍した。日本にも度々来日し、日本国民が東京裁判史観に惑わされて、自虐・卑屈にならぬよう日本全国を遊説した。博士はインドにおいては最高勲章を、日本からは勲一等瑞宝章を授けられた。

●パール判事…「1950年のイギリスの国際事情調査局の発表によると、東京裁判は結論だけで、理由も根拠もないと書いてある。ニュルンベルグにおいては、裁判が終わって3ヵ月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由書とその内容を発表した。しかるに東京裁判は判決が終わって4年になるのに、その発表がない。他の判事は全部有罪と決定し、わたくし1人は無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠もなんら明確にしていないのである。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全文はいまだに発表されていない」(1952年 広島弁護士会にて)
   《田中正明 「パール判事の日本無罪論」》



●パールは日本に対して無罪とはいっていない。ただしA級戦犯が「平和に対する罪」を犯したとして処刑されたことに、真っ向から反対した。「平和に対する罪」は犯罪ではないというのである。当時の国家にはそれぞれ交戦権があり、他国に対する武力行使を犯罪とする国際法は存在しなかったからだ。

●これに対して検察側は、日本は不戦条約(国策の手段としての戦争放棄)を破ったのだから犯罪に値すると述べたが、パールは不戦条約締結後、第二次大戦までの間に条約に違反して武力行使を行い、犯罪とみなされた例は無いと反論している。
まして、その指導者の個人的責任を問いただした例は皆無だとして、日本のみがこのような法廷に被告として立たされ、罪状を科せられるのは不当だとしたのである。

●博士の労作「パール判決書」は、勿論法廷で読まれることもなく、占領政策に有害として発禁の扱いを受けている。日本で正式に発行にこぎつけたのは、東京裁判開廷20周年に当たる1966年だった。
   《上坂冬子
    「戦争を知らない人のための靖国問題」》


●コルカタ、ムンバイ(ボンベイ)の高裁長官を務めたA・M・バタチャルジーがパルから聞いた話…「当時、ネルー首相から『インドと友好関係にある連合国の意を損ねるようなことはしないでほしい』と求められましたが、『首相ができることは私を交代させることだけであって、仕事の中身まで指示してはいけません』と答えたのです」
      《隅田佳孝 朝日新聞2006/7/14》 


●確かにパール判決書には、張作霖爆殺事件を「無謀でまた卑怯でもある」とか、満洲事変を「たしかに非難すべきものであった」とする表現もある。だがそれは、日本の戦争を正当化しないものなのか?

●左翼学者の中には、イギリスに蹂躙されていた国であるインドのパール判事は、西洋帝国主義の「白人の優越」に対して反感を持っていたと指摘し、「パールは中立的立場ではなかった」と言い始める者までいる。動機よりも法感覚の方が重要なはずだが、パールの国際法感覚を疑うことができぬ以上、インド人であるパールの人種的動機を疑うことから、東京裁判を全面否定する根拠を失わせようとする戦略に出るわけだ。
    《小林よしのり 「いわゆるA級戦犯」》 


●朝日新聞は2006年7月12日朝刊第一面で、「『日本無罪論』パルの真意は」と題した記事を載せ、さらに3ページも使った大特集を組んだ。
朝日は躍起になってこう唱えるのだ。パール氏の判決書は「日本無罪論」ではない!東京裁判を全面否定すべきではない!

●だが滑稽というか正直というかこの記事、「日本無罪論」という題名は田中正明氏がパール判決の解説書を出版する際、パール氏本人の許可を得てつけたと書いている。にもかかわらず、どうやって朝日は「日本無罪論ではない」と強弁しようというのか?

●記事では国際日本文化研究センターの助教授・牛村圭が、こんなことを言っている。「読まない人たちによる“伝言ゲーム”が続いている。たとえばパルは東京裁判当時は国際法の専門家ではなかったのに、国際法の権威だったと奉るようなことだ」

●パール氏は既に1937年にハーグで開かれた国際法学会の総会において、インド人で初めて議長団の一員に選ばれ、国際法学界における名声を高めていた。
    《小林よしのり 「ゴー宣・暫(1)」》

…笑える!まるで漫才だ。(管理者)



インド代表判事パルは、のちに国際法の世界的権威と呼ばれるようになる。
  《大岡優一郎
    「東京裁判フランス人判事の無罪論」》


        



●筆者は太平洋戦争の開戦へいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかでもゆるす気になれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英智と洞察力がこめられているとおもっている。
       《司馬遼太郎 「坂の上の雲」》


パール…「勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うということは、敗戦者を即時殺戮した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの、数世紀にわたる文明を抹殺するものである」
      《岡崎久彦 中央公論2006/1月号》


●パール判事は、日本は国際法的に無罪という判決を出しているのに、中島岳志という学者は「パールは道義的責任があると言っている」と主張する。

●でも、パールの書いたものの中に、そんなことを言っている箇所なんか一つもない。あるわけがないんだ。だって、裁判官は法律に基づいて裁くのだから。道義的な責任があるかどうかは、一人ひとりの日本人が考えることであって、それはもう個人の良心の問題。あるいは、倫理的に神の領域になってしまう。
    《小林よしのり 「誇りある沖縄へ」》



●東京裁判のインド代表の判事であったラダ・ビノード・パールは、国際法学者として、この裁判が戦勝国による「儀式化された復讐」であるとして、11名の判事のなかで、ただ1人、日本無罪論を主張した。

●また、同判事は、昭和27年11月に、広島高等裁判所の講演で、「日本の子弟が(東京裁判によって)歪められた罪悪感を背負い、卑屈、退廃に流れるのを見逃すことはできない」と語った。
    《富岡幸一郎 「新大東亜戦争肯定論」》






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