日韓併合へ日本は武力で威嚇し、強引に朝鮮半島を
植民地化してしまったという。 そして、今でもこの併合条約は無効であった という主張が韓国内には多い。 |
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●併合当初たしかに反抗はあったが、それは少数派であった。韓人にはそれまでの両班(朝鮮の文武両官)支配に終止符を打ちたいという気持ちもあったからである。 《有馬学 「日本の近代(4)」》 ●日本が朝鮮半島に手を出さないと、ロシアと中国が争い、結局朝鮮はロシアが取ることになっただろう。すると日本はロシアの制海権下に入ることになる。極東がロシアの制海権下に入ることをイギリスは絶対阻止するはず。すると極東で英露戦争が必ず起きる。 《坂本多加雄 「昭和史の論点」》 (他著書「問われる日本人の歴史感覚」) ●韓国では、当時の一族支配の腐敗政治に危惧した改革・文明開化派は百万人を超える「一進会」となり、日本と連帯して併合を進めた。 ●台湾では、台湾総督府の民政局長として活躍した後藤新平を「近代台湾の父」と仰いでいる。両国が同時代、同じ性格の日本統治を経験しながら、この差は何であろう。 ●中国の歴代王朝が朝鮮を直接統治しなかったのは「独立精神が強かった」としているが、これは間違い。気候が良いわけでも土地が肥沃なわけでもなく、資源が豊富でもなかったために、あえて占領する必要がなかったのだ。 ●19世紀末、ロシアが朝鮮を欲したのは、軍事目的として不凍港を必要としていたに過ぎず、日本にとっても朝鮮はロシアの脅威を防ぎ、大陸に進出するための橋頭堡であることの他には、特別魅力のある土地ではなかった。(帝国主義が植民地を獲得しようとした背景には、地下資源やゴムのような原料を獲得するという明確な目的があった) ●日本は朝鮮経済を速やかに発展させ、日本経済と統合して市場規模を拡大させ「規模の経済」を実現するという長期投資で望まざるをえなかった。 《金完燮 SAPIO2002/7/24》 ●当時の朝鮮半島においては日本は唯一の革命勢力であり、韓国サイドの言う売国奴である「親日派」は、国の近代化革命のためにその日本と手を結び、頑迷な守旧派と果敢に戦った改革派であり愛国者である。 ●よって現在の公式歴史教育で民族主義者・愛国者とされている人々は、逆に時代の流れにそむいた反動・反革命分子ということになる。 …「民衆の立場」でみれば、日本支配は善だった。(支配層にとっては悪) 《金完燮 正論2002/9月号》 ●李朝末期、改革派による近代化が閔妃ら守旧派によって悉く潰され、国が滅びる直前までいった時、唯一の選択肢は日本との合併であり、それによって朝鮮は短期間に近代化を遂げることができた。 《諸君!2003/5月号》 ●米・英・仏・露も併合を支持した。しかし清国のみが非難した。アメリカは「日本の韓国併合はよき意図をもって行われ、韓国民の幸福のためになる」という声明を出した。
●李朝の518年間が中国の属国だった。この民族が身分構造から逃れ近代化が図られたのは、日韓併合によってである。
《金完燮 「親日派のための弁明」》 ●外交官・李成玉(全権公使として米にも行った人)… 「現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての対面を保つことはできない。亡国は必至である。亡国を救う道は併合しかない。そして併合相手は日本しかない。 欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本人は違う。日本人は日本流の道徳を振り回してうるさく小言を言うのは気にいらないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。 そして日本は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外にわが朝鮮民族が豚の境遇から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。日韓併合が問題になるのは変な話だ」 《小林よしのり 「『個と公』論」》 ●「韓国併合」が「大きな力の差を背景とする双方の不平等の関係の中で」と言うが、この時代は不平等条約の時代なのである。「力の差」という理由によって条約の法的効果がないとするならば、殆どの条約は無効になってしまう。引き分けという戦争は滅多にないから、講和条約は大概「力の差を背景とする不平等な関係」に中で結ばれるのではないか。 《小室直樹 「これでも国家と呼べるのか」》 (他著書「国民のための戦争と平和」) ●併合はお節介だったかもしれないし、愉快ではなかったこともたしかだろう。しかしだからといって「蛮行」のひとことで括られてはたまらない。 《新田均 「日本を貶める人々」》 (他著書「子供たちに伝えたい日本の建国」) ●当時の朝鮮が明治政府や、また民間人の立場からの福沢諭吉たちの切なる勧告を受け入れて近代化政策を進めていたら、日本は日清戦争も日露戦争も戦わなくてもよかったのである。いわんや併合する必要など全くなかったのだ。
《渡部昇一 「渡部昇一の時流を読む知恵 歴史力を身につけよ」》 ●日本は韓国を併合したのであって、植民地にしたのとは違う。併合というのは、日本人と同じ待遇にするということ。 《屋山太郎 「なぜ中韓になめられるのか」》 (他著書「安倍晋三興国論」) ●当時の国民も、日本に併合されることに屈辱感を抱いていたわけではない。 《崔基鎬 SAPIO2006/6/14号》 ●ソウルを占領した清国軍を追い払ったのは日本軍で、朝鮮に侵入したロシアを撃退したのも日本軍だった。その時、自国であるにもかかわらず韓国人は戦わなかった。だからこそ、日本の韓国併合にアメリカもイギリスも反対せず、国際社会は了承したのである。 ●韓国大統領の全斗煥は、1981年の光復節の演説で次のように語っている… 「我々は失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど我々自らの責任を厳しく自責する必要がある」 《竹内睦泰 「日本・中国・韓国の歴史と問題点80新装改訂版 これだけは知っておきたい」》 ●日韓併合に最も果敢に闘った崔益鉉は、ゴリゴリの封建主義者・反民主主義者であった。 《呉智英 「インテリ大戦争」》 (他著書「愚民文明の暴走」) ●樽井藤吉「大東合邦論」…「ドイツがプロシアを中心に連邦を組んだように、日本と韓国が合邦し支那と連合して欧米にあたらねばならない」 (ドイツは19世紀初め多くの小国に分裂していたが、フランスの圧力に対抗するため連邦を組み、1つの国としてまとまった) 《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史(4)」》 (他著書「通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか」) ●併合した時期には、世界の常識として帝国主義が悪いということはなかった。むしろ帝国主義というのは前向きな言葉として使われている。それが悪い言葉になるのは、第一次大戦が終わる直前、ウィルソンの14ヵ条からである。 《田原総一朗 出典不明》 ●実は安重根は、後から伊藤を殺したことを「私は間違ったことをした」と言って後悔している。 《金文学 「逆検定中国歴史教科書 中国人に教えてあげたい本当の中国史」》 ●2001年11月末に、ソウルで国際学術会議が開かれた。ハーバード大学アジア・センターの主催で、韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に支援し、会議は韓国の学者が主導して準備されたという。 ●最大の争点は歴史問題、とりわけ1910年の日韓併合条約は合法か否かだった。韓国の主導で開かれた会議であるにもかかわらず、同会議では「不法ではなかった」との意見が相次いだ。 ●韓国側からは「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法だとの意見が出されたが、英国の学者らから、国王の署名や批准がないことが必ずしも国際法上問われるわけではないとの反論が出された。 《櫻井よしこ 「国売りたもうことなかれ」》 ●アメリカのポーツマスで日露講和条約が締結されたことによって、日本の朝鮮半島支配は国際的に認められていた。1つの証拠として、これらを機にアメリカやイギリスをはじめ諸外国は、1906年以降、朝鮮半島から公使館を引き上げている。 《上坂冬子 「思い出すだに腹が立つ」》 (他著書「死ぬという大仕事」) ●韓国は文化も文明もあったが、しかし帝国主義時代をあの程度の独立国では生き延びられない。 タイとペルシャだけは帝国主義国の便宜上、勢力圏が分割されたため独立が許されたが、それ以外は全て直接・間接に支配された。 《岡崎久彦 「日本の失敗と成功」》 (他著書「吉田茂とその時代」) ●「日韓併合条約は無効である」…ウィーン条約第51条には、条約締結交渉にあたって国家の代表個人に強迫を加えて締結した条約は当然に無効である、とある。また第52条には、国際法上違法な武力の行使と威嚇を用いて締結された条約については無効とする、ともある。 しかし、そもそもこの「ウィーン条約法条約」が成立したのは1969年であり、日韓併合条約が締結された1910年はその遥か昔である。 ●それでは当時のルールはどうだったのかというと、国際法の大家たちが等しく認める通り「強迫による条約は一般に有効なものとして、扱われてきた」(山本草二「国際法」)という事実がある。 ●条約を締結する際の状況が、果たして「強迫」と言えるものだったのか。 1910年8月16日、李完用総理大臣は、初めて正式に寺内正毅朝鮮統監を官邸に訪問し、併合の交渉が開始されたのである。その際、寺内は条約案を李に示した上で、「韓皇帝陛下は時運の趨勢に鑑み自ら進んでその統治権を我が天皇陛下に譲与せられ、その位を去って将来万全の地位に就かる」べきことを進言した。 ●これに対し、李からは「併合」後の国号と韓国皇帝の称号について異論が唱えられただけで、本質的な反論はなかった。 ●李は日本側提案を持ち帰り内閣に諮ったが、その際異論を唱えたのは、朱子学上の「体面論」を主張して譲らない李容植学部大臣だけであった。 そこで李総理は李学部相を外して閣議をまとめるために、韓国皇帝の許可を得て「日本における洪水被害見舞いのため」李学部相を日本に派遣した。その結果、李朝及びその内閣には反論を唱えるものはいないこととなり、李総理は同20日、寺内に条約案への同意を内報した。 それを受けた寺内は、同22日李総理と共に日韓併合条約に調印したのである。 《原田武夫 諸君!2006/4月号》 ●朝鮮に対しても、後の歴史を知っていると、最初から属国化を狙っていたと考えてしまうかもしれないが、それも大きな間違い。1890年、時の首相山縣有朋が目指していたのは「朝鮮半島の永世中立国化」なのである。関係国とも外交交渉を始めた。 ●福沢諭吉の「脱亜論」ほど誤解されている議論はない。一般的には、「亜細亜東方の悪友を謝絶する」という一文から、アジア侵略宣言と捉えられている。ところがもともと福沢は、朝鮮と連帯し欧米列強と対峙すべきと考え、そのため金玉均をはじめとする改革派への支援を惜しまなかった。 それにもかかわらず、現実の朝鮮は、壬午事変で清の介入を招き、甲申事変では親日派の改革勢力が一掃されてしまう。「脱亜論」は朝鮮近代化の夢が破れた福沢の「敗北宣言」だとの説も有力。 《井上寿一 文芸春秋2014/7月号》 ●その金玉均は、甲申事変でクーデターに失敗し、日本に亡命して、福沢と二人号泣したとも言われている。 《中島岳志 〃 》 ●1951年に歴史学者の遠山茂樹の論文で初めて「侵略論の嚆矢」として取り上げられた。「脱亜論」が注目されたのは、戦後になってからなのである。「脱亜論」が重要であるのならば、戦前からすでにもっと有名だったはず。 《井上寿一 〃 》 ●同感です。この文章は大東亜戦争の敗北の後、日本の侵略を思想的に位置づけるため「発見」され、利用されてきたが、福沢はアジアとの連帯を目的とした「アジア主義」の系譜としても重要な存在だと考えている。 《中島岳志 〃 》 ●日米韓の錯綜した外交では、日米の親韓政策が大きく変えられた歴史がたしかにあった。 1905年の桂・タフト協定(秘密協定)である。日米両国はそれまでは、朝鮮王朝を独立国として扱い近代化に協力した。 ●だが、朝鮮王朝のロシアや清国を利用した二枚舌外交にセオドア・ルーズベルト大統領が怒りを爆発させ、日本に朝鮮を任せることを決めた。 ●ルーズベルトはニューヨーク州知事だったころから、朝鮮を信用せず、「朝鮮は日本に任せたい。ロシアを牽制できるのは日本だ」(1900年)と考えていた。 《渡辺惣樹WiLL2016年5月号》 ●日韓併合は、考えてみれば欧米に朝鮮半島を押しつけられたという見方もできる。 《西村幸祐 チャンネル桜2017/5/27》 |
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