教 育日本人は韓国人から言葉や文字、文化を
奪ったといわれているが… |
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●日本は韓国に対して、京城帝国大学(学生の半分は日本人、現ソウル大学)まで作っている(大阪に帝国大学を建てる前)が、こんなことをやった宗主国はない。支配するには、そこの人民を無知にさせるのが鉄則だから、常識破りをやっている。 《小滝透 「日本人はなぜかくも卑屈になったのか」》 ●日本の総督府は、学校を可能な限り朝鮮全土に設置する方針をかため、1943年には小学校は4,271校、就学児童は日本人が約10万人・朝鮮人が約194万人に達していた。(保護国とする1905年以前はわずか9校、それも首都の漢城<のちの京城>にしかなく、入学者数は合計187名だった) …台湾と韓国が戦後のアジアでいち早く目覚ましい経済発展をとげた最大の理由は、学校教育の普及にあった。 《石井竜生 井原まなみ 「壁のない密室」》 ●伊藤博文は教育事業に多大な関心を寄せ、それを最優先させて千を超える各種学校ができた。(当初は小学校は40にも満たなかった) 《金完燮 SAPIO2002/7/24》 ●韓国は併合前、就学率は総人口の1%ほどだったが、昭和18年には61%にまで達している。 《黄文雄 「捏造された日本史」他の著書「中国・韓国が死んでも教えない近現代史」》 ●ハングルは15世紀に作られた人工語だが、それまで漢字漢文を正書とする両班から軽蔑され相手にされない文字であったたがために、実用化に至っていなかった。日本総督府時代が初めてハングルを普及させ小学校教育に導入した。 《西尾幹二 「国民の歴史(上)」》 ●一般には、昭和13年の朝鮮教育令改正が「朝鮮語抹殺」の1つの例とされている。しかし総督府は、朝鮮語の辞書や教科書も作って教えていた。 《荒木信子 諸君!2006/4月号》 ●筆者が当時朝鮮で暮らしていた人から伺ったところでは、電車の切符は朝鮮語で買えたそうである。 また昭和9年の西平壌駅の駅名票には、漢字・ひらがな・ローマ字・そしてハングルの4種類の文字が見える。(「別冊1億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮」毎日新聞より) 一方、お巡りさんは日本人でも朝鮮語ができなければ仕事にならず、制度として朝鮮語の講習を受けることになっていた。 …こういう事実からしても、当時の日常の生活語は朝鮮語だったといえるのではないだろうか。 ●昭和18年製作「望楼の決死隊」という東宝の映画がある。舞台は昭和10年、満浦(現在の慈江道満浦市)という国境の町にある駐在所、つまり国境警備隊である。その中で気がついた点を列挙する… ◇映画の始まりで「演出今井正」、その下に「演出補崔寅奎」と朝鮮人名が見える。高田稔、原節子ら日本人の俳優に続いて「秦薫、沈影、朱仁奎、田澤二、金賢、金信哉、金玉」という名が見える。 ◇駐在所の宴会で、金さんが朝鮮語で民謡を歌い、その場にいる日本人がリズムをとって楽しんでいる。 ◇日本人の巡査二名が部落内の様子を訊いて回る際、住民と朝鮮語で会話している。 …つまり、大戦の最中である昭和18年時点で、朝鮮の文字や言葉、人名そして風俗を映画に出すことに何の問題もなかったのである。 《荒木信子 「韓国・北朝鮮の嘘を見破る」》 ●日本語は当時のアジアでは、いわば国際語だった。今の英語より有用だった。だから江沢民だって日本語を覚え、日本語訳されたマルクスからゲーテからディケンズまで、思想から医学・科学・建築分野まで学べた。朝鮮の学校では日本語を強制されたともいうが、今、英語で授業をやっているのと同じことだろう。 《高山正之 正論2006/9月号》 ●アジアの国々に日本語を押し付けたと非難するが… 植民地の人々が独立を志し、あるいは近代化への道を歩むための教育を受ける機会は皆無だった。よって日本に留学するアジア人は多かった。 ◇1887年には朝鮮から60人の留学生が訪れている。 ◇1905年には東京だけで8,600人、日本全土で1万人をはるかに超える中国近隣の留学生であふれた。(孫文・魯迅もいた) ◇同年、仏印から3人のベトナム人が日本に留学し、その数は数年で300人まで増えた。 …など ●なぜアジア各地から日本をめざす留学生がいたかの理由について、中国・張之洞の勧学篇に詳しく記している。彼は言う。アジアで近代化を成し遂げた日本には、中国には得られない世界の文献が揃っている。日本に行き日本語を学べば、そういった文献は全て習得できる。 ●安易に日本非難に乗るアメリカ人に対して「では、フィリピンで米語を教えるのは悪いことではないのか。あるいはシンガポールで英語が公用語として根付いているのは、英国が悪いことをしたということなのか」と質問すると、それに対する答えは返ってこない。 …日本語を教えるというのは、かつては知識を教えるという重要な意義を持っていた。 《高山正之 「情報鎖国・日本」他の著書「変見自在偉人リンカーンは奴隷好き」》 ●先日から朝日新聞が「百年の明日・ニッポンとコリア」と題する連載を始めた。「ハングルは15世紀に世宗のもとで考案され、広められたが、日本の統治時代はこの民族固有の文字は厳しく弾圧され、日本語を強制された」と1回目は書きだされている。 一読、驚く。だいたいハングルとは今、南北朝鮮で使っている表音文字をいう。世宗が日本の仮名を真似て創った諺文がそのオリジナルだ。 ●朝日は「広められた」としているが、これも嘘。世宗のあと、李朝の王らは諺文の使用を禁じ、漢語漢字こそ神聖だとやった。朝鮮のオリジナル語もほぼ8割方が葬られてしまう。諺文が息を吹き返すのは、朝日のいう「日本の統治時代」で、福沢諭吉が諺文と識字率を高める学校教育の普及を説いた。彼の門下の井上角五郎が諺文の活字を作って朝鮮に持ち込み、今のハングルの礎を作った。 ●因みに日本は、たった数百校だった小学校を約4千校に増やし、学校に行けなかった常人(小作人)や奴卑の子供も通えるようにした。のちに大統領になる朴正煕もその一人で、「日本の役人が親を説得して小学校に通えるようになった。頭がいいからと授業料のいらない師範学校に進学させてもらい、陸軍士官学校にも入れた」と語っている。 …これがどうして「民族固有の文字が弾圧された」になるのか。 ●朝日はさらに「日本語を強制した」と、まるで悪い事みたいに書く。 そうじゃない。朝鮮の民は日本のおかげで読み書きができるようになった。でもそれではトルストイやカントは読めない。なぜなら諺文訳の「戦争と平和」などないからだ。読むには英語や独語、露語を全て学ばねばならない。 ●ただ日本語を学べば全てが読めた。世界中の古典を一つの言葉に訳した「世界文学全集」は、あの時代も今も日本にしかなかった。あの時代、文明に通じる道は日本語だった。だから支那人もビルマ人もベトナム人もみな、日本に留学して世界を学んだ。アジアでは英語に相当したのが日本語だった。 《高山正之 週刊新潮2010/5/20》 ●朝鮮総督府は「一面一校」(面は村の単位)を目標に小学校を次々に開校していった。1943年までに4,271校を設置して「一面二校」を実現した。それらは当時日本国内にもなかったコンクリートやレンガ造りの三階建て校舎などだった。 ●日韓併合当時、朝鮮に公立学校は約100校しかなかった。外国修道会やキリスト教系学校も設置されていたが、2桁を超えるまでにはなっていなかった。かわりに多数存在したのが「書堂」(寺子屋)だが、それらは学校と呼べるレベルに達していなかった。 《水間政憲 SAPIO 2013/10月号》 ●1940年、ソ連は占領下のポーランドで将校やインテリ層2万人を虐殺した(カチンの森事件)。 統治に邪魔な存在だからだ。ポルポト政権はこれにならい、さらに徹底し、教師、医師、公務員、芸術家などインテリ層のほとんどを収容所で処刑した。眼鏡をかけていたり文字を読んでいただけで収容所に入れられたという。だからカンボジアは現在も教師、医師、弁護士などが極めて不足している。「今は民主主義でしょ」「でも、国民が無知なほど治めやすい」。ガイドは諦めのまじった笑みを浮かべた。現政権もかつての宗主国フランスにならったのだろう。 ●日本は韓国を併合した当初、読み書きのできない民を本土並みにしようと、100校ほどしかなかった小学校を30年かけて4千校以上に増やした。学問の府として京城帝大まで設立した。阪大や名大より先である。 日本人にとって愚民化政策などという酷い考えは脳内に存在しないからだ。 《藤原正彦 週刊新潮2013/4/11》 |
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※関連ページ : 朝日新聞の「虚報体質」も参考に | |
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