創氏改名日本政府は、いやがる韓国民衆を
強制的に日本人風の氏名に改名させた といわれる、悪名高き「創氏改名」。 その実態は… |
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●朝鮮人は日本と同化したかった。「創氏改名」も当時、日本人を気取りたいという感覚があった。 《金完燮 諸君!2003/1月号》 ●朝鮮では日本名を希望する人が相当数いたため、政府が「希望するなら改名を許そう」と考え通達を発したのが発端だった。建前は決して強制ではなく、当時の総督・南次郎も「3回も強制してはならない」と訓令を出した。
●しかし地方の行政機関が創氏改名者の数を増やそうと競争した結果、事実上強制になってしまった。極端な例としては、学校の校長が生徒を呼び「君の家は創氏しないから学校に来てはならない」というようなものもあったという。この結果、半年の届け出期間に79%の人が届け出た。
《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史〈4〉」》 (他著書「通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか」) ●当時、朝鮮人側から改名の要望がかなりあったことは事実であった。要望は主に満州に移住した朝鮮人から出されたもので、朝鮮が歴史的に中国の属国の位置にあったことから、中国人から不当な扱いを受けることが多く、「我々も日本国籍をもつ以上日本名を名乗らせて欲しい」という要望が総督府にたびたび寄せられていたのである。 ●その結果、創氏改名が行われたのは1940年からのこと。35年にわたる日本統治の歴史の最後の5年間のことだった。 《呉善花 諸君!2003/7月号》 ●朝鮮総督府では三橋警務局長が、朝鮮人に日本名を名乗らせると日本人か朝鮮人か分からなくなるから困るといって大反対し、南次郎総督から「創氏改名は強制しない。警察も協力しなくてもよい」という言質をとっている。 《新田均 正論2005/6月号》 ●いわゆる「創氏改名」は強制ではなく、志願や勧奨によるものだった。それが事実であることは、日本の陸軍士官学校を出て将校となり、日中戦争の勲功によって朝鮮出身者として初めて金鵄勲章を授与された金錫源将軍が、創氏改名をしていなかったという一例を挙げれば明らかだろう。強制ならば、それを拒んだ者に勲章が与えられるわけがない。 《崔基鎬 SAPIO2006/6/14号》 ●よく考えてもらいたい。創氏改名などはなぜ問題が起こったか。それは日本人が朝鮮人について「外見上区別がつかないし、中身も同じだ」と思い込んだからこそである。差別するつもりなら、日本と見分けのつかなくなる「創氏改名」など絶対にしない。 《井沢元彦 「なぜ中国人、韓国人に媚びるのか」》 (他著書「日本史集中講義 点と点が線になる」) ●創氏改名でも、「日本書紀」を見れば朝鮮人は「ミシコチハトリカンキ」とか「モクラコンシ」というのが本来の名前であるのに、なぜ「金」や「李」といった一字姓を音読みする支那姓なのか。支那人に差別されるのは許し、それを誇りにすらするのに、日本人に差別されるのは許せんという。 《呉智英 「ぼくらの『侵略』戦争」》 (他著書「愚民文明の暴走」) ●「創氏改名」は、「皆が変えるから」と右へ倣えで改名したり、満州で漢人からの迫害を恐れて日本名を名乗りたいということで、村ごと全員改名したところもあった。 《三宅久之 「『日本の問題点』をずばり読み解く」》 (他著書「三宅久之の書けなかった特ダネ」) ●韓国では日本が戸籍を作るまで、女性には名が無かった。「雌鳥が鳴くと家が滅ぶ」というように発言権もなく、食事も女と男とは別に台所で食べる。 《高山正之 週刊新潮2006/6/29》 ●台湾の蔡昆燦氏から聞いたことだが、同じ日本統治下の台湾では創氏改名は許可制で、なかなか許可が下りず、「朝鮮と差をつけられた」とみんな怒っていた。 ●アメリカに留学中の僕の娘が、「今度、キャサリンとドロシーが遊びに来る」という。どんな碧眼金髪娘かと思っていると、外見も中身も100%韓国娘が登場する。ロサンゼルスに在住する60万の韓国人が、喜んでメアリーだのジョンだのマイケルだのと名乗るのとそう違いはないのだ。 《高山正之 「情報鎖国・日本―新聞の犯罪」》 (他著書「歪曲報道 巨大メディアの『騙しの手口』) ●「創氏」そのものは法的なレベルにおいては、全き「強制」である。1940年2月11日以降においては、王公族を除く朝鮮人も一律に「氏」を設定することが6ヶ月間の猶予期間をおいて義務化された。法的な強制とは全てそうしたものである。 ●例えば、日本人の男女が婚姻関係を結ぶ際、民法の定めに従い新たに戸籍を作り、また配偶者どちらかの氏を名乗る必要があるのも強制である。ただ、「強制」の語がイメージさせる暴力的なニュアンスはここには存在しない。 ●なお、「改名」に関しては許可制であったので、必ずしも本人の意思に添った改名ばかりではなかったことは、事務手続き的にはありえた。しかし、これも使ってはならない字を避けさせることが主目的の行政指導であった。ともかく、「創氏」と「改名」とは別次元の法的手続きを伴うものであることは、強調しておきたい。 ●おそらく今日においても、かなりの誤解を含みつつも議論がなされるのは、「創氏/改名」の際に「日本風」の氏名にすることが強制されたか否か、の点についてであろう。そこで、朝鮮人知事たちの「創氏改名」状況を見てみよう。 ●氏・名とも日本人風に改めつつも旧名の一文字を残しているのが、増永弘(旧名・朴在弘、以下同様)であり、また草本然基(鄭然基)・烏川僑源(鄭僑源)はそれぞれ亜日本風(?)に創氏した上で、従来の名を使用した例である。当時の史料を見ると、このパターンが最も多いようである。 ●すると、孫永穆と金大羽は創氏も改名もしていないのであろうか。両名とも官歴の長い、今日の韓国・北朝鮮で忌み嫌われる「親日派」の代表選手みたいな総督府官僚である。 ●答えは極めて簡単である。孫永穆と金大羽はそれぞれ「孫」と「金」とに創「氏」したのである。つまりは、朝鮮在来の「姓」、つまり儒教的な男系の相続集団としての”孫” ”金”ではなく、新たに「氏」としての”孫” ”金”が法的創氏されたことを意味する。 ●この場合の「氏」とは、日本内地式の「イエ」の概念、すなわち養子による血統の断絶や、入婚による女子の実質的な家督相続すら容認する家族制度を示す。 よって、従来の「姓」と、新たな家族集団の単位をあらわす「氏」とがたまたま一致したに過ぎないし、また「姓」そのものは旧慣保存の立場から戸籍にはきちんと別記されてもいたのだ。少なくともこの時期、朝鮮においては創ったり、あるいは変わったりしうる「氏」とは別に、不変の「姓」が存続していた。 ●すると、創氏政策と「民族名≒姓」というものは、少なくとも法の次元では共存するものでありこそすれ、矛盾するものではなかったのである。 《永島広紀 「韓国・北朝鮮の嘘を見破る 近現代史の争点30 」》 |
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