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併合前の朝鮮

併合前、韓国(大韓帝国)は
揺るぎない独立国だった。
それを日本は朝鮮王朝の実力者である
皇后・閔妃(ミンビ)を殺害して
朝鮮を侵略しようと画策した、
といわれているが…


●「韓国を日本が収奪した」という歴史観は、日本のマルクス主義者たちが彼らに教えたものだったが、貧窮の朝鮮には収奪するものがそもそもなかった。労働を知らない彼らに労働の価値や意義から教えなければならなかったことが、日本のやった第一の「改善」であった。
         《古田博司 正論2014/1月号》


●どの国でも、新しい情勢に適応する動きが起こって、それが発展の原動力になるのだが、韓国の場合は逆に抑制する要素が強かった。
それが両班と呼ばれた貴族たち。

●彼らは大地主であり宮廷の高官だったが、伝統的に身体を使うことを嫌い、むしろそれを恥としてきた。だから本当の両班は、子供のように小さな足をしていた。四書五経を読み、儒教の祭りをし、宮廷での行事に毎日を過ごして、少しも働こうとしない。社会の基盤が有史以来殆ど変わっていない。鎖国状態のままで、古代の貴族社会がそのまま継続していたに近い。

●両班は農村の経済発展になんの興味もない。収穫の6割が小作料として入る。地主には豊作も凶作もない。飢えるのは農民。特権階級の両班にとって、こんなに都合のいいことはなかった。

●小作料として穀物を差し出すと、農民は春の彼岸まで食べるのがやっとで、それを過ぎると次の麦の収穫まで野草を食い、木の根を噛んで命をつなぐ。今の北朝鮮の状況と同じ。 

  《長谷川慶太郎 「歴史頭脳を持っているか」》
      (他著書「日本の難題」)


●日本の第二師団は農村出身者が多かった。それが韓国を通って満州へ進軍するのだが、韓国の農村のあまりの不潔で貧しい様子に呆れてしまったという。耕せば耕地になるようなところがたくさんあるのに、何もしていない。ときたま牛を追いながら耕しているが、それもずいぶん能率が悪い。

●自分たちならもっと効率よくできる、見てはおれんとなったのだ。それは満州に行っても同じだった。(多門二郎・第二師団長「日露戦争日記」より)

       《谷沢永一 「時勢への証言」》
(他著書「歴史が遺してくれた 日本人の誇り」)


朝鮮は典型的な奴卑社会であった。全人口の30%以上が奴卑であり、奴隷はモノのように売買され、主人のため生涯奉仕しなければならなかった。
平民は奴卑に比べて若干自由があったが、貴族や官吏たちに略奪される立場にあるのは同じだった。両班とも呼ばれる貴族たちは、無為徒食しながら下の階級に対し無慈悲に権力を振るった。(20%のヒルが残りの80%の血を吸う構造)

●官職は公然と売買され、官吏は全く仕事をしなかった。1894年の改革以降も、地方の官吏が3ヵ月ごとに交代し、1年の予算の半分が彼らの年俸に費やされたという。官職が頻繁に交代するのは、たった1日でも官職につけば退任した後にもその地位が一生保たれるのだ。
     《金完燮 「日韓『禁断の歴史』」》



●驚くべきことに19世紀末の朝鮮は、人口の半分以上を両班が占めるという異常な事態になっていた。
勤労を蔑む者が半分を占め、残りの半分がその収奪を受けるような社会が、まともな国として成り立つわけがない。(両班の身分は実質的に世襲化していた。また官職の売買も公然と行われていた)

なにしろ国家予算の半分が宮廷費用だったぐらいだから、産業に必要なインフラ整備も行われない。李朝下の500年間、朝鮮には人間が通れる安全な道路は全くなかった。殆どの河川には橋がなく、鎖国政策をとっていたため港湾施設も皆無に等しい。

●秀吉の壬辰倭乱が産業基盤を破壊し、韓国の近代化を遅らせたと言うが、そもそも李氏朝鮮は近代産業国家に必要な準備を一切行っていなかったのだ。

●李氏朝鮮は外国からの情報を遮断し、近代化の必要を感じて行動を起こした開化派は守旧派に抹殺された。このような国が自らの手で近代化を達成できたとは思えない。日本がロシアに勝利し、朝鮮の内政改革に乗り出したからこそ、近代国家としてのスタートを切ることができたのだ。
      《崔基鎬 SAPIO 2006/6/14号》



●李朝の官僚(文官と武官で、総称「両班」)は、名目上科挙によるものだが、実質的には世襲され身分階級の頂点を極めていた。そのため、両班の横暴には目に余るものがあり、下の階級の者に対し生殺与奪の権を持っていたとさえいわれている。

朝鮮民族は、日本統治時代になって日本警察による両班取り締まりを大いに感謝したほどだった。ただし、朝鮮人の補助憲兵や巡査が日本の権力を借りて、今度は宿怨を晴らす怖ろしいシーンを展開した。
…これが後の日本に対する悪感情を生んだ。
       《西尾幹二 「国民の歴史」》



併合前の朝鮮の社会経済状態は、日本や欧米に比べて百年以上遅れていた。
     《金完燮 「親日派のための弁明」》


●李朝は、中国から王位と国号の承認を得て国をはじめ、毎年冬至の日に定められた朝貢を欠かすことなく、新たな国王の即位・立后・立太子があるたびに中国の承認を得、外交上の問題が発生すれば中国に意見を請うた。

●中国人使節は朝鮮国王より上位の品階にあり、朝鮮国王は中国使節を迎える時にはソウル城外に出て、つつしみをもって迎えなければならなかった。しかも朝鮮国王は、使節が入城した門を通ることを許されず、別の門を通ってソウル城内に入らなくてはならなかった。
 《呉善花 「『日帝』だけでは歴史は語れない」》
(他著書「反日をやめたら成り立たない国・韓国 」)



●韓国で権威のあると言われる「韓国史大辞典」(高麗出版社)には、「韓国は中国の属国だった」と書いてある。
  《小林よしのり
    「なぜ中国人、韓国人に媚びるのか」》
    (他著書「『誤解』の日本史」)


●朝鮮半島が防衛の要となった理由…
①7世紀に唐と新羅が共同して日本に攻め入ろうとした。(白村江の戦い)
②元寇のときも、朝鮮半島を通ってやってきた。(元の軍の半分は朝鮮人)

●歴史的にみても、日本が独立を守るためには、朝鮮半島が大国の支配下にあるということは、とても危険だった。

●日本は清をなんとか押し返して朝鮮から追っ払ったが、今度はロシアが満州から朝鮮に下がってきてしまった。日露戦争。この時、日本がロシアと戦わなければ、朝鮮はロシア領になっていた。そして日本もロシアの属国になっていた。(ヨーロッパ側も、ポーランドやフィンランドが併合・属国になったことが証拠)
      《福田和也  魂の昭和史」》


●伊藤博文は「韓国を植民地にはしない」と内外に言っていたのに、朝鮮人はそれを暗殺しその犯人を英雄視している。これは日本人がマッカーサーを殺すことと一緒である。文句があったなら、暗殺とかデモとかそういうことではなく、日本のように(日清・日露・大東亜)正々堂々と戦争をすればよかろう。 
  《渡部昇一 小室直樹 「封印の昭和史」》
    渡部昇一(他著書「決定版人物日本史」)


●伊藤博文の本音・信念…「日韓は兄弟であり、韓国を決して他国に蹂躙させない。独立はしっかり守る」と強調し、韓国皇帝はこれを承認した。

●日本は、清をはじめ大国が朝鮮半島を支配下におかず、半島は独立して親日的な政権でいてくれればいいと考えていた。
      《田原総一朗 「日本の戦争」》



●明治維新後、日本はいち早く朝鮮との国交を求めて外交官を派遣したが、当時の李王朝(李氏朝鮮)はこの申し出を冷たく扱った。朝鮮の人々は、中国を世界の中心とみる「中華思想」と、そこから隔たるほど野蛮な国であるとする「華夷秩序」にどっぷりと浸かっていた。

その朝鮮からみると、日本が列強の圧力から独立を守るため必死の思いで明治維新を成し遂げ、近代化の道を歩みだしたことの意味がまるでわかっていなかった。そのため、西洋のマネをした日本人を、自国の伝統を捨てた唾棄すべき行いとして軽蔑し、日本の使節を追い返した。              

●日露戦争後、日本は朝鮮の外交権を奪い日本の従属下においた。それは朝鮮がロシアと結びつくことのないようにするための日本の安全保障にはやむを得なかった。
   《藤岡信勝 湊川栄太 「歴史の本音」》
 


●ニューヨーク・タイムズ…「日本人が話し合いを持とうとした試みを、朝鮮人が非友好的な横柄さであしらった結果、両国の関係は日々険悪となっている」(修好を求める明治政府が出した国書を、朝鮮がなかなか受理しない状況を見て)
    《藤岡信勝 「教科書が教えない歴史」》
(他著書「通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか」)
 


韓国があの時点で近代化の努力をしていれば、日本はわざわざ植民地にしなくてよかったし、日露戦争だってしないで済んだ。そもそも日露戦争の原因は、李朝が外国勢力を排除した自立をするのではなく、清国派・ロシア派・日本派に分かれて外国勢力を導入して、主導権を握ろうと闘争に明け暮れていたことが極めて大きい。
        《福田和也 「この国の仇」》
          


●当時の朝鮮は、農民一揆(東学党の乱)も鎮圧できないほど無力であった。やむなく清の軍隊を引き入れて治安を回復してもらう体たらくだった。こんな独立国がありうるのか。

●その後朝鮮は清軍と日本軍の抗争の場となったが、朝鮮の人々はただ傍観しているだけであって、日清両軍を国外に追えなかった。
  《小室直樹 「これでも国家と呼べるのか」》
    (他著書「国民のための戦争と平和」)


●閔妃暗殺計画は、朴泳孝と大院君も進めていた。日本がやったことは彼らのサポートだった。三者連合である。
 《金完燮 「なぜ中国人、韓国人に媚びるのか」》

閔妃が生きていたら、彼女の思惑が成功していたら、朝鮮半島はもっと未開のままで終わっていた。
        《井沢元彦 〃 》
    


●閔妃は、改革の障害として朝鮮側の革命派の間ですでに暗殺計画が存在したということは、歴史的によく知られている。
         《金完燮 正論2002/9月号》


●閔妃は無知で欲深く利己的だった。朝鮮を滅ぼした亡国の元凶だった。中国の西太后と肩を並べる人物であったといえる。全ての朝鮮人にとって呪いの対象だった。
    《金完燮 「日韓『禁断の歴史』」》


日本にとってのあい首は朝鮮半島になる。ところが統治する李氏は清国のスカートの陰に隠れ、独立も、まして近代化する意志もないと公言する。それで日本は清を戦争で負かして朝鮮を独立国と認めさせた。

ところが朝鮮は、日本がその進出を最も警戒しているロシアに泣きつき、ロシアに港まで提供しようと言い出す。愚かを絵に描いたような李氏の妄動のおかげで、今度はロシアと国家の存亡をかけて戦う羽目になる。 
    《高山正之 週刊新潮2005/5/5.12号》


●日本の歴史を見ると、常に大陸からの脅威に対して「いかに対峙するか」ということが外交問題であり続けた。聖徳太子のときからそうである。今の日本とて、全く同じ。

●そのために、日本に近い朝鮮半島の安定化をいかに確保するか、大陸からの脅威に対する緩衝地帯にするかがポイントだった。明治時代には、日清・日露を戦い、朝鮮半島の中立を守った。
島国である英国が、大陸にあるベネルクス三国を支配する国が出てきたら戦う、というのに似ている。
        《葛西敬之 正論2008/3月号》


     



●日露戦争後、日本は朝鮮をまず保護国とした。ルーズベルト大統領は、もう朝鮮は日本のものと、公使館の閉鎖を決めた。

●アメリカが公館を閉めて、朝鮮はびっくりする。ルーズベルトに再考を促すが、大統領は「朝鮮は自主統治も自衛能力もまったく無能だったことがはっきりした」と訴えを退けた。(ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」より引用、米国国務省の資料にもある)

    《高山正之 週刊新潮 2005/11/24》


●近代金融制度が未整備だった朝鮮では、第一銀行韓国総支店(1878年設立)が1902年から第一銀行券を発行し、「大韓帝国」(同年に李氏朝鮮が国号を改めた」の紙幣として流通した。実質的な中央銀行の役割を日本の民間銀行が果たしたのだ。

それ以前は基本的に物々交換だった。李氏朝鮮時代には何度か貨幣が鋳造されたが、額面より実際の流通価値が低かったり、通用が禁止されたりして、普及しなかった。かわりに用いられたのが米や麻布、綿布などであった。

●貨幣経済が未発達で商品の流通が円滑にいかないため、工業や商業はほとんど発達しなかった。工業は農家が副業で行なう手工業程度だった。

●イギリス人旅行家イザベラ・バードが1894年に釜山に上陸して見た近代的産業は、すべて日本人の手によるものだった。
〈銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行なわれている。居留地が清潔なのも日本的であれば、朝鮮人には未知の産業、たとえば機械による精米、捕鯨、酒蔵、フカひれやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った〉
(『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著、講談社学術文庫 以下同)

首都・漢城(現在のソウル)には道路すらろくになかった。というのも、漢城の土地はすべて国有地であり、平民が許可を得て土地を借り、建物を建設するには長い年月を必要とした。そのため、路上の不法占拠が当たり前となり、無許可の建物が林立して道幅はどんどん狭くなったのだ。
日本が近代国家に生まれ変わる以前の江戸と比較しても、いかに都市計画が存在しなかったかがわかる。

●鼻が曲がりそうな糞尿の悪臭は、朝鮮半島諸都市の悪しき名物になっていた。家々から出た汚物は路地の穴や溝に流れ込んだ。朝鮮版朝日新聞に「平壌の臭気一掃 いよいよ糞尿地下タンク新設」の記事か掲載されたのは1938年12月11日だった。それ以前の様子をイザベラはこう記している。

〈城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどい臭いだと考えていたのであるから!〉

●三審制の近代司法制度が整備されたえのは、朝鮮総督府時代になってからだ。イザベラも李朝時代の司法の未整備について記している。

〈朝鮮人には独特の処罰方法があって、役所の雑卒が容赦のない笞打ちを行い、罪人を死ぬほど打ちすえる。罪人が苦痛に叫ぶ声は近くのイギリス伝道館の中にまで聞こえてくる〉
     《水間政憲 SAPIO 2013/10月号》



●儒教に凝り固まった大官たちは、新しいものの価値を一切認めようとしない。中華思想に凝り固まり、西洋の優れた技術、道具あるいは思想を頭から軽蔑し、学ばないどころか『野蛮なもの』として排斥しようとする。
儒教世界では『改革=父祖のやり方を改めること』は最大の罪悪になりかねない。だからわたしはこう思っています。儒教国は絶対に独力では近代化できない、と。

●日本は、少なくとも儒教においては、大した国ではなかった。むしろ三流の劣等生だった。だからこそ独力で近代化できたのです。  
         《井沢元彦 「恨の法廷」》
       (他著書「『誤解』の日本史」)


●閔妃殺害の容疑で裁判にかけられた三浦は、証拠不十分のため罪には問われなかった。

日清・日露戦争とも韓国の不安定から起こったもので、もう二度と戦争を起こさないように(高宗などがまたロシアなどと結びつかないように)、不安定要素を根絶するため外交権を取り上げた。
   《NHK 「日本と朝鮮半島」2010/4/18》


●当時の清国の外務大臣は李鴻章である。その李と渡り合ったのが、若き森有礼だった。
「朝鮮はインドと同じくアジアの一国で、清の属国とはいえない」と森は主張した。

●すると李いわく「いや、朝鮮はわが清国の政策を奉じているのだから明らかに属国である」。
森は「いやいや、属国といわれるならば証拠を見せていただきたい。清国は朝鮮半島から税金を取り立てていますか。そんなことはできないでしょう? また朝鮮の内部に干渉する権利ももっていないはずです。したがって朝鮮半島は日本と同様な独立国なのです」と反論した。
    《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封3」》






●韓国の新聞、中央日報(2010/8/4付)のコラムにこんなことが書かれていた。

<貧窮する暮らし。百年前、外国人の目に映ったソウルの風景がそうだった。まだ西洋文明が伝わっていなかったソウルの様子を、英国の女流作家イザベラ・バードはこう表現した。『泥壁の掘っ立て小屋が軒をつらねるみすぼらしい路地、厚くおおいかぶさった褐色の屋根、汚物と腐ったゴミで悪臭のするミゾ…』といった描写は、日本の植民地に転落する“力なき朝鮮”を対象にしたものだが、次のような表現は心に刻み込んでおくに値する>

●<ソウルはすなわち韓国だ。…しかしソウルにはいかなる芸術品もなく、古代の遺物もほとんどなく、公衆の広場もなく、きわめてまれに見られる王家の行列以外にいかなる行事も、劇場もない。ソウルには他の(国)都市にある文化的魅力に欠けている>

●イザベラ・バードは1894年から97年にかけ韓国を旅行し、長編の紀行文を書いた。日本では『朝鮮紀行---英国婦人の見た李朝末期』(講談社学術文庫)と題し翻訳されている。時代はちょうど日清戦争(1894~95年)からその後にかけてで、「日韓併合」(1910年)より10年ほど前だ。彼女の『朝鮮紀行』は、コラムが言うように、日本の保護・支配を受ける直前の韓国の事情を、第三者の目で克明に記したものだ。

●この本の序で、彼女のことを紹介している駐韓イギリス総領事ウォルター・ヒリアーは、当時の韓国事情をこう書いている。
<現在、朝鮮が国として存続するには、大なり小なり保護状態におかれることが絶対的に必要であることは明白であろう。日本の武力でもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶対的に腐敗しきった行政という重荷に朝鮮はあえぎ続けている>
<最も顕著な悪弊を改革する日本の努力は、いくぶん乱暴に行われはしたものの、真摯であったことはまちがいない>
 
     《黒田勝弘 SAPIO 2010/9/8》


日本人の猿まねについては、最初にはげしく軽蔑したのはヨーロッパ人でなく、隣国の韓国であった。日本が維新によって大変革を遂げ、開国するとともに髷を切り、洋服を着、鉄道を敷き、ヨーロッパで勃興した産業文明に追っつこうとした。「人にして人にあらず」と、韓国の公文書ではいう。

●日本は、より切実であった。切実というのは、朝鮮への想いである。朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の強国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。

●日本は、その過剰ともいうべき被害者意識から明治維新をおこした。統一国家をつくりいちはやく近代化することによって列強のアジア侵略から自国をまもろうとした。その強烈な被害者意識は当然ながら帝国主義の裏がえしであるにしても、ともかくも、この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。

●「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ」というのが、日本の清国そのほか関係諸国に対するいいぶんであり、これを多年、ひとつ念仏のようにいいつづけてきた。

●李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった。
そこへ東学党ノ乱がはびこっている。東学とは西学(キリスト教)に対することばである。儒・仏・道という三教をあわせ、これに現世利益をくわえた新興宗教で、これがわがくにの幕末ごろから朝鮮の全羅道、忠清道のあいだにひろがり、やがてそれが農民一揆の色彩をおびてきた。

●韓国政府は大いにおどろいた。韓国が直面したおそるべき不幸はみずからの政府の手で国内の治安を維持できなくなったところにあるであろう。「清国に要請して大軍を急派してもらおう」という議が、もちあがった。---日本に要請して、とは、ほとんどの者がおもわなかった。日本を小国とかろんじていたし、在来、清国を宗主国としていたから当然ながら宗主国にたよるという考えかたになった。      
     《司馬遼太郎 「坂の上の雲(1)」》


●朝鮮が、対中外交では属国としてあれほどの屈辱と忍従の関係を延々と、そしてあれほど嬉々として続けたのはいったいなぜなのか。それは国内においては「両班」と呼ばれる地主エリートによる特権階級制度を維持し、それに基づく国内の社会・政治秩序を守り抜くためであった。

●この制度は、社会全体に強固な儒教イデオロギーに基づく上下関係を作り出し、その上に国内で地主官僚のエリートが支配する「上下関係」を維持するため、対外的な中国との「上下関係」を利用し、その支えとして朝鮮民衆に対する圧制への忍従を受容させるうえで不可欠のシステムとなっていたからである。
中国を至上の存在と位置付け、国内に序列に基づいた両班体制を設けて統治の維持を図るという政策を朝鮮が選んだ瞬間から、この国の半永久的な貧困は宿命づけられていた、といわなければならない。   
     《中西輝政 Voice2013/12月号》


●明治の日本に感嘆したイザベラ・バードは朝鮮にも行っている。家は掘立小屋、悪臭を放つドブ、女に名はなく、子を産むとおっぱいをむき出しにする風習はニューギニアにだってない。

●奴隷制も生きていて、民の4割を占めた。彼らに人権はなく、両班は懲らしめに縛った小作人の足の間に棒を入れて足の骨を折る拷問をやる。汚職は日常化していた。バードは「内部からの改革は不可能」と匙を投げている。

●セオドア・ルーズベルトも実態を知って20世紀早々、朝鮮にあった米国公館を閉じた。前代未聞の「国交断絶」だった。朝鮮が文句を言うと、統治能力もない、国じゃあないと答えた。そんな朝鮮を「日本だけは思いやりをもって接した」と米公使シルが書いている。

●福沢諭吉もその一人だ。彼は平仮名を真似た諺文を歴史の中から掘り出し、普及させた。ハングルのことだ。朝鮮の青年を日本に留学もさせた。
しかし彼らは慶応義塾の金庫を壊して金を盗み、遊興にふけった。諭吉は「支那朝鮮に特別の会釈に及ばず」(脱亜論)と、失望感を隠さなかったが、平気で恩をあだで返す彼らの習性に多くの日本人は気づかなかった。
        《折節の記 正論2012/9月号》


中国の属国だった朝鮮が自主独立国家になったのは、日清戦争で日本が勝ち、清に対して朝鮮の独立を認めさせた時からである。その時に大韓民国が成立し、首長が「皇帝」を名乗るようになった。中国の属国である限りは「王」であり、決して「皇帝」にはなれない。

●韓国人は自分たちがかつて属国だった事実を認めず、「ずっと自主独立の国だった。それを日本だけが侵略した」と言っている。    
《井沢元彦 「日本史集中講義 点と点が線になる」》


●韓国の知識人は李朝時代を基礎に近代化があったと主張するが、古田博司氏によると、李朝はインカ帝国のような停滞した時代に過ぎなかった。李朝には車がない。輪っかがないのである。なぜかというと曲げ物を作る技術がない。木を曲げることができないから樽もない。焼き物の顔料もなかった。結局、日本の統治によってしか近代化し得なかった。
        《八木秀次 正論2009/6月号》


●李王朝は1910年の日韓併合で滅んだ。李王朝は500年もの歴史を持っていたが、不幸にも日本支配によって滅亡した。民族としては痛恨の極みだろう。

●しかし1945年、日本支配から解放された韓国で、王家復興や立憲君主制による再出発の議論はなかった。このことも“強制史観”からは説明できない。…韓国は歴史観で混乱している。
        《黒田勝弘 正論2010/11月号》


●朝鮮史の基礎史料とされる『朝鮮王朝実録』の世宗王の巻には、通信使として1429年に日本に渡った重臣、朴瑞生の報告が載っている。これが本当に面白い。

●朴瑞生が特に力を入れた報告は、室町時代の日本の農村で見た揚水水車だった。配下の学生に作り方を学ばせ、王には模型まで提出し、「願わくは、わが村々でも、この模型に沿って水車を製作し、灌漑に利用されんことを…」と進言する。

●言は容れられた。が、どう頑張っても揚水水車を作れない。次の王、その次の王の時代にも水車を作ろうとするができない。「曲げ木」の技術もなかったとされるが、水が漏れない桶や樽も作れないから、『古今笑叢』(高麗から李王朝初期にかけての艶笑話を集めた漢文の本)には、女たちが重たい甕(かめ)を頭の上に載せて水運びをしている様子が頻繁に出てくる。

●朴瑞生の報告から334年、第11次の朝鮮通信使に随行する書記として日本に行った金仁謙が、旅行中の感想などを書きまとめたのが『日東壮遊歌』だ。その中で、金仁謙は淀川にあった水車の見事さに感服し、「見習ってつくりたい」と述べている。つまり、最初の挑戦から334年経っても、朝鮮半島の木工技術では揚水水車を作れなかったのだ。

●朴瑞生の報告は広範にわたる。朴瑞生は、「日本は貨幣経済が行き渡っており、大変に便利だ」と述べるとともに次のように進言した。

①日本には銭湯というものがたくさんあり、人々は清潔だ。わが国も銭湯を設けるべきだ。

②わが国の市場では、魚も肉も土の上に並べているが、日本には屋根のある商店があり、棚の上に品物を置いている。わが都の一部に同じようなものをつくるべきだ。

③日本の川には橋が架かり、通行料を取っている。わが国も川に橋を架け通行料を取ることで、貨幣経済を広げるべきだ。

…李王朝時代の文化水準を知ることができよう。韓国人はいま、「日帝の侵略がなかったら、わが民族は自律的発展を遂げ…」などと言っている。

         《室谷克実 「悪韓論」》


【2017年9月14日更新】



●上の写真は1880年代の京城(現ソウル)一番の大通り。下の写真は昭和初期の京城の繁華街。韓国が発展したのは一目瞭然である。
           《WiLL2017年9月号》

…こんな写真を見せられても、韓国側は「日本支配時代はそれ以前よりも悲惨な生活だった」と主張している。

別に「感謝せよ」とは日本人は誰も言っていない。
けれども
「せめて嘘だけはつかないでくれ」というのが最低限のお願いなのですよ。韓国さん、そして朝日新聞さん。(管理者)



YouTubeにもダイジェスト版
「日韓併合への道」
をアップしました。見てね!


 


 【日韓併合】
併合前の朝鮮/韓国が絶対に認めたがらないその悲惨な実態
日韓併合へ/反対した独裁官僚、歓迎した民衆
朝鮮半島での日本の統治/評価する当時の人々
韓国の発展/戦前も戦後も日本の援助
朝鮮での教育/欧米では愚民化政策が当たり前
日本による土地の収奪/それは民の権利を公正にしたもの
創氏改名/それは民衆が求めたもの
在日の人々/タブーと恐怖と嘘八百