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【自虐年表】
~ついでに歴史も勉強してみよう!~

左派と右派の歴史認識を年表で比較してみました。
わかりやすいように3つの年表を作りました。

おおまかな年表…概略。時間のない人向き。

詳しい年表…全体の流れが分かります。

日本悪玉論のパターンも必見!

 

《もっと詳しい年表》
まだ未完成ですが、興味のある人は読んでください。

出来事 左派の年表 右派の年表
明治維新
前後
当時の
アジアの様子
左派は言及せず。 明治維新の10年前のイギリスによるインド侵略から始まった列強のアジア植民地支配は、その後、フランス、オランダ、アメリカが、それぞれベトナム、インドネシア、フィリピンの侵略へと続いていく。
明治の日本人は、どんなにか心細かっただろう。このような時に、頼りになるべき中国(清)が自国の領土保全もままならない官僚的老廃国で、朝鮮はその属国にすぎなかった。そのまま放置しておけば、半島はロシアのものになるか欧米の草刈り場になり、その先には日本の植民地というレールは必至であった。中国・韓国ともこれほど無力にもかかわらず、日本に対しては「小癪な東夷・日本」という侮日感情を最初から抱いていた。(欧米の進出には比較的寛大に振る舞いながら)
…この前提を踏まえて戦争を考えなければ、話の辻褄が合わなくなってしまう。 《西尾幹二》
-
朝鮮半島からの
脅威
左派は言及せず。 朝鮮半島が日本の防衛の要となった理由…
●7世紀に唐と新羅が共同して日本に攻め入ろうとした。(白村江の戦い)
●元寇のときも、朝鮮半島を通ってやってきた。(元の軍の半分は朝鮮人)
…歴史的にみても、日本が独立を守るためには、朝鮮半島が大国の支配下にあるということは、とても危険だった。
-
当時の
朝鮮の状態
左派は絶対に言及せず。 当時の朝鮮は、「両班」と呼ばれる貴族が人口の半分近くを占めた。彼らは体を動かして働くことを卑しいと考え、庶民を奴隷のように酷使していた。
よってインフラ整備など全くされておらず、経済状況は欧米や日本に比べて100年以上遅れていた。
-
日本と朝鮮の関係 左派は言及せず。 明治維新後、日本はいち早く朝鮮との国交を求めて外交官を派遣したが、当時の李王朝はこの申し出を冷たく扱った。朝鮮の人々は、中国を世界の中心とみる「中華思想」と、そこから隔たるほど野蛮な国であるとする「華夷秩序」にどっぷりと浸かっていた。 
その朝鮮からみると、日本が列強の圧力から独立を守るため必死の思いで明治維新を成し遂げ、近代化の道を歩みだしたことの意味がまるでわかっていなかった。
そのため、西洋のマネをした日本人を、自国の伝統を捨てた唾棄すべき行いとして軽蔑し、日本の使節を追い返した。 《藤岡信勝》     
明治初期
征韓論 日本の利益のために、朝鮮(韓国)を武力によって開国させようという明治政府の主張。
西郷の「征韓論」は、正確には「遺韓論」である。日本が列強に対抗するためには、朝鮮を開国させ日韓強調することが不可欠だった。そのために武力行使も辞さず、という意見が多かったが、西郷はそれを認めず直談判(道義外交)を重んじた。 《小林よしのり》
1875
江華島事件 欧米の帝国主義に倣いたい日本は、まず朝鮮の植民地化を目論む。
1875年、日本の砲艦・雲揚号が朝鮮の江華島を砲撃。この挑発に乗ってしまった朝鮮は雲揚号に発砲。これで日朝は交戦状態に突入。日本軍は江華島に上陸し、占領してしまった。(この日本の行動は、ペリーによる黒船砲艦外交を真似たものである)
対馬海域の測量をしていた雲揚号は、その後、予定していた清国に向かう。その途中、不足した水を補給するために江華島に立ち寄った。
そして給水を願うために江華島へ向けてボートを出したのだが、
朝鮮側がそのボートに対して発砲したのである。対抗して雲揚号も発砲。交戦状態となった。
1876
日朝修好条規
締結
日本は江華島事件を口実に朝鮮に対して開国を迫った。そして事件の翌年、日本に有利な不平等条約・日朝修好条規を締結する。(関税の免除、3つの港の開港、日本の領事裁判権を認めるなど)
以後、日本は武力を背景に朝鮮に対して政治的影響力を強めて言った。
この条約の第一款には、「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」とある。つまり、今まで清国の属国であった朝鮮を独立国として認めるということ。日本は老大国・清の影響力を排除し、一国も早く朝鮮を近代化したいと考えての項目であった。
また、関税の免除は両国に課したもので、要は自由貿易にしましょうということ。

1882
壬午事変 これら日本の動きに清は反発する。韓国内でも守旧派と改革派の対立が起こった。
そして1882年、韓国内で兵の反乱が起こり、守旧派で清の支援を受けた政権が誕生した。
朝鮮の中にも若手官僚等の間に開化派が生まれ、日本にならって近代化を目指そうとして守旧派と激しく対立するようになる。
そうした開化派の若者たちを支援した1人が福沢諭吉だ。福沢は慶應義塾に朝鮮の留学生を受け入れただけではなく、彼らを中心とした朝鮮の宮廷革命にもかなり関与した。 《屋山太郎》
1884
甲申事変 日本の支援で改革派が反乱を起こすが、清軍に鎮圧された。 1884年のクーデター(甲申事変)が失敗し、翌85年、福沢が発表したのが「脱亜論」だ。要するに、これ以上中国や韓国に付き合っていられないというのが、率直な気持ちだったのだろう。 《屋山太郎》
1885
天津条約
締結
甲申事変によって朝鮮での影響力を失った日本は、清と天津条約を結び、互いに兵を朝鮮からひいた。 これ以上の対立を回避するために、日清は朝鮮からの撤兵と、再度出兵する場合はお互いに通告することを約束した天津条約を結んだ。
1886
清の艦隊が来襲
(長崎事件)
左派は言及せず。
1886年、清の北洋艦隊が突如長崎に来襲して、水兵の大集団(500人以上)が商店に押し入って金品を強奪したり、酒を探して飲んだり、女性を追いかけるなどして、さんざんに暴れ狂った。急報により巡査の一隊が抜刀して市街戦になり、双方とも80数人の死傷者を出した。       …この背景には、朝鮮問題をめぐる日清両国の紛争があり、清国は日本を脅すために長崎に殴り込みをかけた。この事件で、支那に対する日本人の敵愾心が燃え上がった。 《益井康一》
1894
2月
東学党の乱 朝鮮で農民の内乱が起こると、これを解決するために朝鮮政府は清の出兵を要請した。日本も居留民保護を名目に大軍を派遣。
この朝鮮の内乱を鎮圧した後も
日本軍は居座り続け、朝鮮の内政改革を迫った。朝鮮や清はこれに反発し認めなかった。日本は開戦の口実がほしかったのである。
内乱が鎮圧されても、日清の両国とも撤兵しなかった。日本は不安定な朝鮮の内政を清と共同で改革し、自立可能な国家に導こうと提案したのに対し、清はそれを拒否した。
1894
7月
日清戦争 日本は、武力で朝鮮王朝を占拠し、親日政権を樹立させる。そして朝鮮半島をめぐって勢力争いをしていた清の艦隊を急襲(豊島沖海戦)し、日清戦争が始まった。

※日本共産党の見解=
    「日清戦争は日本の侵略戦争である」


この時、清は朝鮮の港町・牙山に兵を送っていた。朝鮮半島で兵を動かす際には互いに事前通知をすることを定めた天津条約に違反している。ソウルの南にある成歓にも清国軍がいるから、ソウルの日本軍を挟み撃ちにしようとしたわけである。
さらに清国が牙山に船で増援部隊を送ろうとしたのに対し、日本は最後通牒を出して、これを阻止しようとした。
そして日本の連合艦隊が牙山湾に到着すると、向かってきた清国の軍艦との間で海戦が始まる。したがって、日清戦争は清国の仕掛けた戦争なのである。《別宮暖朗》

豊島沖海戦は、日本海軍が「清軍の輸送船を襲撃」したのではなく、
清国の軍艦済遠の発砲から始まっている。 《勝岡寛次》
1895
三国干渉 軍備増強に努めてきた日本軍は清軍を撃破し、日本勝利のうちに下関条約が結ばれた。これにより日本は莫大な賠償金を得、中国の遼東半島(満州の一部)や台湾、澎湖諸島を手に入れた。
しかし、満州を狙うロシアは、ドイツ、フランスと結んで遼東半島の中国への返還を迫った。国力不足の日本はやむなく要求を飲んだ。
日本は日清戦争で多大な犠牲を払って遼東半島を手に入れる。ところが、三国干渉の圧力で涙をのんで中国に返還せざるをえなかった。返還の理由は「アジアの平和のため」ということだった。
これにより、日本人のロシアに対する反感が強まった。
1898
三国干渉後の
ロシアの行動
ロシアは中国から遼東半島の旅順、大連を租借。
また東清鉄道敷権も獲得した。
なんとロシアは、日本が返した旅順と大連の港を自分のものにしてしまう。満州の実権を握り、軍事的な意味をもつ港をつくったり、砲台を築いたり、鉄道を敷いたりした。これは侵略の最たるものであった。《西尾幹二》
1899
~1900
義和団の乱 欧米列強は、日清戦争の敗戦で弱体化した清に群がった。彼らは清国各地を租借したり、鉄道や鉱山などの権益を獲得していく。
この列強の進出に反発した清の排外主義団体「義和団」が立ち上がり、北京の外国公使館を襲った。
義和団事件は、義和団という狂信的秘密結社が宣教師を殺害したことに触発され、中国政府の守旧派が義和団に加勢(あろうことか同盟を結んだ)して、外国人排斥を企てたのである。(現在の官製反日暴動と一緒=管理者注)
こうした
外国人虐殺は、れっきとした政府高官によって何度も繰り返された。決してゴロツキ連中だけの仕業ではない。 《ラルフ・タウンゼント》
1900 義和団の乱
への対処
義和団に対して列強諸国は連合軍を組織して出兵した。
日本も連合軍の主力として2万2千人の大軍を送り、「極東の憲兵」としての地位を得た。
当時北京には日本を含め11ヵ国の在留民がいたが、それを10万人以上の義和団と清国軍が包囲し、皆殺しを行おうとしていた。
対抗して英仏米露独伊奥日の8ヵ国は連合軍を結成して、籠城していた人たちを救出した。
この時の日本軍の規律の良さと勇敢さ、さらに他国の軍隊と違って勝った後も全く略奪しない姿に、総指揮を担当したイギリス公使が驚嘆し感銘を受けた。
北京解放後も、日本の分担した地域だけは略奪がないものだから、支那人までが逃げ込んできて日章旗を立てるほどだった。他国はイギリス人でさえも略奪をやっている。《渡部昇一》

1900 ロシアの満州占領 ロシアは義和団の乱に乗じて、満州を軍事占領。清に独占的な権益を認めさせた。ロシアはここに満州の占領を完成させた。
アジアでの権益を拡大したい日本は、ロシアのこれらの行動にますます脅威を感じた。
ロシアは義和団鎮圧を口実に、満州に大軍を派遣して、事件後も撤兵しないばかりか、韓国への圧力を強めていった。ロシアには朝鮮半島を支配することで、北東アジア全てを自国の勢力下に入れて、イギリスと対抗しようという大きな野望があったのである。 《福田和也》
1902 日英同盟調印 日本は日英同盟に調印する。これは、同盟国の一方が展開する戦争に第三国が参戦した際には、他方の同盟国も「共同戦闘」にあたるという軍事規定をもつ取り決めだった。 事態を憂慮したのは日本だけではない。それまでどことも同盟を結ばず“栄光ある孤立”を誇っていた英国が、ロシアの南下政策に抗するため日英同盟を結ぶほど、ロシアの東アジア進出は脅威だった。 《別宮暖朗》
1903 ロシアの軍事行動 ロシアは韓国の鴨緑江河口の龍厳浦に軍事基地建設を開始した。 コリアは長年の間、事大主義(大に事える)の国であり、日本よりロシアを「大」とみて尊露侮日の態度をとった。
そしてロシアは満州を事実上占領し、
さらに鴨緑江河口の竜岩浦を韓国から借り、これを要塞化するなど南下の意図はますます露骨で、対馬海峡に面した朝鮮半島沿岸にもロシアの艦隊が出没する有様であった。 《渡部昇一》
1903 朝鮮とロシア
の関係
左派は言及せず。 強い者に寄り従う事大主義の国王・高宗は、頼みの中国が日清戦争に敗れて力を失うと、次はロシアの保護下に入ろうと考え、一時はロシア公使館に逃げ込んで執務するという常軌を逸した行動を取った。
頼る相手が日本ではなくロシアだったのは、国王が恣意的に振る舞える絶対的な権力を手放したくなかったからだ。当時のロシアは朝鮮を被保護国とし、その利権を漁ることしか考えていなかった。日本と違い朝鮮の内政改革を求めていなかったので、ロシアの保護下に入ればそれまでと同じように国を私物化し、専制体制の甘い汁を吸い続けることができる、と高宗は考えたのである。 《崔基鎬》
1903 日露協商の
決裂
日本の韓国での優越権、ロシアの満州での権益を相互に認め合う日露協商を日本が提案したが、日英同盟を後ろ盾にして迫る日本にロシア側は拒否。ロシアとの協調交渉は決裂した。 ロシアのような強国が朝鮮半島をとってしまったら、日本はとても独立を守りきれない。そこでロシアとの妥協により極東の平和を維持しようとする日露協商論をロシア提示するが、ロシア側の強硬姿勢の前に交渉は決裂。
「日本側最終案」がロシア側に伝えられたが、ロシアはこれに何の回答もしてこなかったため、御前会議で戦争状態突入の決定がなされた。 《福田和也》

1904 日露戦争 1904年2月8日、日本の連合艦隊は仁川・旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃。10日に宣戦布告し日露戦争が始まった。

※日本共産党の見解=
    「日露戦争は日本の侵略戦争である」
日露戦争の具体的な戦闘は、日本海軍が仁川・旅順にいるロシア艦隊に奇襲攻撃をかけることで開始された。
では、日本が仕掛けたのかといえばそうではない。先にロシアが朝鮮半島に軍事的進出を行っている。決定的なのは、龍厳浦事件(1903年)である。中立地帯であった朝鮮領内の龍厳浦にロシアが軍事基地を築いてしまった。

日英同盟が発動するためには、日英いずれかの国がアグレッシブ・アクション(侵略的行動)を受けることが条件になっている。小村寿太郎外相はただちにイギリスに通報し、イギリスも龍厳浦の現地視察を行っている。つまり、ロシアの軍事基地建設がアグレッシブ・アクションにあたることを日英で確認した上で、旅順に奇襲攻撃をかけている。

これに関して注目すべきは、露仏同盟である。もしロシアが日本から攻められたのなら、フランスも協調して日本と敵対しなくてはならない。しかし、日露戦争でフランスは局外中立を保っている。
すなわち、日露戦争はロシアの侵略である、というのが当時の国際常識だったことの証拠といえるだろう。 《別宮暖朗》
1905
日露講和条約
(ポーツマス条約)
日本は講和条約で、韓国や遼東半島(満州の一部)での権益を獲得したが、賠償金をとることはできなかった。
この内容に、莫大な戦費を支えてきた日本国民は激怒。講和反対の国民大会が日比谷公園で開かれ、内相官邸や交番などを襲う暴動に発展した。(日比谷焼討ち事件)
この条約により、日本は下記のような権利を得た。
●遼東半島の南端部(関東州)の租借(中国から借り受ける。イギリスが借りた香港のようなもの)
●そこでの鉄道や炭鉱などの建設・経営権
●朝鮮半島での日本の優越権・支配圏を承認 …など

ここにおいて、日本は合法的に満州の一部を統治することになる。(もちろん清の承認のもとに)
1904
~05
日韓協約締結で
朝鮮は日本の
保護国に
日露戦争中に日本は、武力を背景とした第一次日韓協約を締結。日本人顧問を韓国に送り込み、財政や外交などの発言権を得た。
そして日露戦争に勝利した後は、列強に韓国の支配を認めさせたうえで、第二次日韓協約を締結。韓国の外交権を奪い、統監府を設置した。
日清・日露とも韓国の不安定から起こったもので、もう二度と戦争を起こさないように(皇帝・高宗などがまたロシアなどと結びつかないように)、不安定要素を根絶するため外交権を取り上げた。 《NHK》

日露戦争後、日本は朝鮮をまず保護国とした。ルーズベルト大統領は、もう朝鮮は日本のものと、公使館の閉鎖を決めた。アメリカが公館を閉めて、朝鮮はびっくりする。ルーズベルトに再考を促すが、
大統領は「朝鮮は自主統治も自衛能力もまったく無能だったことがはっきりした」と訴えを退けた。 《ヘレン・ミアーズ》
1904
~10
韓国への
日本の支援
左派は言及せず。 伊藤博文統督の文化政策…
①韓国が富強を早く実現できるよう1千万円(現在の約332億円)の起業資金を借款として貸付けた。
②教育の振興/病院の建設
③農業の改良/道路の修繕・灌漑・植林 等
自治育成政策…
①司法制度の整備  ②銀行設置
③教育振興   ④殖産興業
…日本の利益のためではなく、韓国の育成のため懸命に努力した。 《田原総一朗》
1907

韓国の抵抗 この日本の保護国化に対して、1907年、韓国皇帝・高宗はオランダで行われていた万国平和会議に密使を送り、独立回復を訴えようとするが、日本の根回しで失敗に終わる。
高宗は退位させられて第三次日韓協定が結ばれ、内政までも日本が握ったうえ、韓国軍も解散させた。
これに反発し、韓国各地で反日闘争が激化したが、日本はこれを徹底的に弾圧した。
当時韓国政府はロシアと通じており、ロシアの南下をひそかに支援し、それを防ぐ気も力もなかった。
このような状況において
アメリカもイギリスも、韓国を日本の保護国にすることを積極的に主張した。他の列国にも反対意見はなかった。  《渡部昇一》

この反日闘争の主導者は、支配階級の両班がほとんどだった。彼らは改革を目指す日本に支配されると、自分たちの今までの地位と特権が危うくなるため、必死に抵抗したのは当然だった。
1909
伊藤博文暗殺 初代韓国統督・伊藤博文が満州のハルビンで反日の英雄・安重根に暗殺される。
伊藤博文の信念…
●「日韓は兄弟であり、韓国を決して他国に蹂躙させない。独立はしっかり守る」
●「韓国を統治するのではなく、保護して育てる。やがて自立させる」

伊藤は併合をすすめる欧米に対して、韓国を植民地にする意図は毛頭ないことを宣明している。
ところが伊藤博文が暗殺され、日本国内では怒りが爆発し、「併合やむなし」との意見も急速に強くなっていった。(米英露独仏などに打診しているが、1国も反対していない)
1910 日韓併合 1910年、日本はついに韓国併合条約を結ばせた。そして朝鮮総督府の軍政のもと、植民地支配が進められた。
当時の一族支配の腐敗政治に危惧した改革・文明開化派は百万人を超える「一進会」となり、日本と連帯して併合を進めた。
1910~
日本の朝鮮統治 韓国の人々は日本人への同化を強要されるとともに、土地を奪われるなど、36年にわたって亡国の苦しみを味わうことになる。(左派は韓国の発展には決して言及しない)
併合後、日本は奴隷扱いされていた民衆を両班から解放し、土地も王朝が独占していたものを農民に公平に分け与えたり、インフラ整備や経済発展を積極的に推進していったため、人々の暮らしは飛躍的に向上した。
1914
第一次世界大戦
に参戦
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まった。
日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦。中国におけるドイツの根拠地・青島を占領し、ドイツ領南洋諸島にまで支配を広げた。
イギリスは、中国・山東半島の青島を根拠地とするドイツ艦隊が自国の商船を脅かすので、これを駆逐するために日本に出兵を要請した。これは日英同盟に適うものである。

ドイツはが中国から青島を割譲させていた。日本は当時の国際法の取り決めに従って戦争をした結果なのであり、その取り決めを侵犯していない限り、「割譲した」と中国がいう限り、それは侵略ではないのである。
国際法においては、条約に従って割譲したものは侵略ではない。 《松本健一》
山東半島地図
- 中国の条約破り 左派は言及せず。 第一次大戦で日本が山東半島のドイツ権益を合法的に継承することになった。そのためには中華民国の承認を必要とする。
それに対して中華民国は、ドイツの権益は清国から得たものであって中華民国から得たものではない、といって権益の移譲を完全否定した。
また、日露戦争以来満州に持っていた権益は、中国側が約束を破ることもあり不安定なものだった。
日本に限らず欧米列強全てに対して、中華民国は一方的に既往の権利義務関係を否定し、なおかつそれが正義であると主張した。 《江藤淳》
1915 21ヵ条の要求 第一次大戦で欧米列強の目がアジアからそれている隙に、日本は中国での利権拡大を図るため、21ヵ条の要求を中国政府に突きつけた。
これは「中国政府や警察内に日本人を入れろ」、「借りている土地の期限を99年間に延長しろ」など中国にとって過酷なものだった。
これを呑まないと戦争するぞと最後通牒を発してまで迫ったため、世界から「火事場泥棒」と批難されるこの日本の行為は、中国民衆の反感を買い、今日の反日の原点ともいわれている。この理不尽な要求が、日本の中国侵略の足がかりとなった。
中国における日本の合法的な権益を、中国政府は不法に奪いとろうとしたため、日本政府が「約束はちゃんと守ってくれ」という意味で出した要求。

中国政府への日本人の招聘は、中国が条約履行の要求を呑めない場合の取引材料として、わざと過大に付け加えたものである。この要求はのちに日本は撤回している。
にも拘わらず、中国が21ヵ条全部を呑まされたように全世界に誤伝されているのは、
中国側の宣伝戦が巧妙だった。

「21ヵ条要求」は、内容が公になるずっと前に、中国代表団は調印に同意していた。
ところが中国側はこう持ち出してきた。「内容はこれで結構だが、『要求』ということにしてはくれまいか。そうした方が見栄えがする。
やむなく調印したのだという風にしたいのだが」と。 《ラルフ・タウンゼント》
1917 ロシア革命 1917年、民衆によるロシア革命が起こり、帝政ロシアは崩壊した。
そしてソビエト連邦という、平和と平等を目指す世界史上初の共産主義国家が誕生した。
ロシア革命はロシアの歴史においてのみならず、全人類の歴史における最大の惨事であった。 《レオニード・イリン》

●「10月の事件は革命ではなくクーデター」
●「ロシアの国民に内戦・粛清・集団化による6千6百万人の死をもたらし」
●「ロシアの正常な発展を妨げた歴史的惨事」
…へとロシア革命の評価は現在180度変わってしまった。 《兵本達吉》

世界史上、単に民衆の蜂起だけで革命に成功した例はない。軍が反乱の側に加担しなければ事は運ばない。レーニンは暴動が大きくなるように煽っただけでなく、軍を革命陣営へ引き入れることに成功した。 《谷沢永一》 
- 共産主義の脅威 左派は言及せず。 ソ連共産党はロマノフ王朝の一族全部を殺害したほか、共産主義に賛成の意思表示をしない人民を数年間にわたって7百万人も殺害したとされている。日本にもそうした情報は入っていたため、治安維持法が制定された。 《渡部昇一》

ロシア革命が勃発した段階において、この動きが孕んでいる世界的な危険性に対して、最も敏感に反応し、かつその認識に相応しい警戒の態勢をとった国家はおそらく日本だっただろう…
●それはかつて帝政ロシアの帝国主義が南下してくるのが、日本にとって生存の脅威であったのと全く同様に、それに代わる赤化思想の波が押し寄せてくることを恐れるという地政学的な動機が第一。
●しかもその赤化思想なるものは、およそ民族としての固有の歴史が意識されるようになって以来、常に一貫した皇統を天子として推戴し、その系譜には未だかつて一度も禅譲放伐といった革命的事例の生じたことのない日本にとって、これ以上異質なものはありえないというほどに異質なものだった。《小堀桂一郎》
1918
8月
日本軍の
シベリア出兵
第一次大戦中だった当時、米英仏などの連合国は、戦争がら離れていたソ連とドイツを戦わせることと同時に、共産革命を阻止するという2つの目的のため、シベリアで戦争状態を作り出した。
日本軍も1万2千の兵力をウラジオストックへ派遣した。

シベリア出兵は、ロシア革命軍がチェコ軍の移動を妨害しようとしたため、連合国がチェコ兵がスムーズにウラジオストックまで行けるように日本に派兵を求めてきたものだった。

1918
11月

第一次大戦
終結


11月11日、連合国とドイツの間で、休戦協定が調印された。
1919
パリ講和会議
(ベルサイユ条約調印)
パリで第一次大戦の後始末のための講和会議が開催された。そこでは、敗戦国ドイツに対して植民地の没収、巨額の賠償金の支払いなどが課された。

戦勝国となって会議に臨んだ日本は、中国・山東省のドイツ権益とドイツ領南洋諸島の獲得を主張し、承認された。

それに対して中国は…
●山東省の権益は21ヵ条要求で強要されたもの
●中国もドイツへ宣戦したため、ドイツとの約束は破棄され、権益は中国に復帰した。
…と主張した。中国本土でも猛烈な反日デモが起こったため、北京政府は講和条約の調印を拒否した。これで山東問題は未解決ということになってしまう。

日本は大きな犠牲と戦費を使って、山東省からドイツを追い払った。よってドイツの旧権益は日本の手に渡るということで、ベルサイユ条約で承認された。
日本が1914年にドイツに宣戦布告したのに対し、中国は1917年にやっと宣戦したうえ、ドイツ戦には何の犠牲も払っていないにもかかわらず、権益を返せと主張するとは、いかにも虫のいい話である。     

1920 日本の
シベリアへの野心
連合国は、シベリアでの戦いが無益だと判断し撤兵したが、日本だけがシベリアに対する領土的野心で出兵を継続した。「日本人居留民を保護する」という口実で。
この日本の行動は、欧米に警戒心を与えた。
1920年初頭には、チェコ軍救出という出兵目的も達成されつつあり、日本の満鮮の直接防衛以外は守備戦を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明した。

ところがここに尼港事件が発生した。ニコライエフスクには、日本人居留民・陸軍守備隊ら7百数十名がいたが、連合国が撤兵するや、ロシア人・朝鮮人・中国人からなる4千人の共産パルチザン(ゲリラ)が同市を支配し、ついに3月12日本に日本軍と交戦状態に入った。日本守備隊は大半が戦死、居留民も投獄された。
日本は救援隊を派遣したが、共産パルチザンは日本軍到着に先だって5月下旬、収監中の日本人を惨殺、さらに尼港市民1万2千人中、共産主義に同調せぬ者約6千人を虐殺、市中に火を放って遁走した。日本人は居留民384名・軍人351名の計735名が惨殺された。この尼港事件で当然ながら対ソ強硬論が高まり、日本軍は事件解決まで北樺太を保障占領することになり、シベリア撤兵は大幅に遅れる結果となった。 《中村粲》
1920
~21
ワシントン会議 日本の中国への進出やシベリア出兵の長期化で警戒感を強めたアメリカは、ワシントン会議を開催。
ここでは、中国の主権・独立、領土の保全を尊重するという九ヵ国条約が結ばれた。
その結果、日本は山東省の権益を中国へ返還し、シベリアからも撤兵することになった。
…これにより日本は、日清・日露戦争以来の東アジア侵略行為にストップをかけられた。

第一次大戦後の講和会議においては「植民地の存在」は全く否認されていない。その後のワシントン会議でも「植民地政策の是非」などは議題にも上がっていない。
九ヵ国条約も、
列国の中国における権益の現状維持が条約締結の前提となっており、日本の満州権益そのものも否定されていない。つまり、列国の既得権益には触れずに、新たな「排他的権益」取得を禁じた条約である。 《高市早苗》

また、日本は青島から撤兵したが、商業上の権益はそのまま継続されることになった。

1923 関東大震災時
の朝鮮人虐殺
1923年9月1日、関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生した。首都圏は大打撃を受け、死者・行方不明者は10万人以上にのぼった。

この震災直後から「朝鮮人が暴動を起こした」というデマが飛び交った。そのため武装した民間の自警団や警察らが、多数の朝鮮人や中国人を虐殺した。
虐殺された朝鮮人は約6,600人というのがこれまでの説だが、1万~2万人に上るという統計もある。
当時、内務省が殺害を認定した朝鮮人の数は233人。さらに、私の試算では、震災の混乱に乗じて活動を行っていた一部の朝鮮人およそ800人が、自警団によって殺害されている。痛ましい事実があったことは事実だが、震災による犠牲者も考慮すると、6千人、ましてや1万人規模の虐殺など空想上の数字であることは明らか。 《工藤美代子》

1917年のロシア革命、そして2年後の3・1独立運動の嵐にまぎれて、朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指す一部の朝鮮人が日本国内へ大量に流入した。
以来、朝鮮人による危険な犯罪やテロの温床となる事件が新聞各紙に溢れ始める。過激な運動家の蛮行は、一般の朝鮮人生活者を貶める、まさに「民族独立の冒涜」である。
関東大震災発生までに、朝鮮人に対する緊張が国民の間で共有されていた。 《工藤美代子》

震災中に朝鮮人その他の犠牲があったのは事実であろうけれども、それは混乱に促された『偶発事件』と呼ぶべき。南京事件やナチスのジェノサイドと同類に扱おうというのは、飛躍した議論である。
もし、彼らが伝えるような『大虐殺』が生じていれば、関東大震災当時のことは米英仏独などの在日外交官が報告書を本国に送り、あるいは在日特派員が報じているはずなので、結果として日本は猛烈な批判にさらされていただろう。 《櫻田淳》
1924 アメリカで
排日移民法成立
米カリフォルニア州など西海岸で日本移民に対する排斥運動が起こった。これを受けてアメリカ議会は排日移民法を成立させ、日本人の移民を全面的に禁止した。(他のアジア人移民もすでに禁止されていた。
排日運動の原因は、真面目に働く日本人移民の成功である。これがアメリカ人のねたみの的になった。
その背景には、日本人、ひいてはアジア人に対する人種差別があった。「白人より遺伝的に劣る人種が成功することは許されない」という感情が当時たしかにあったのである。
この差別的な法律に日本人は反発し、日本でも反米運動が起こった。

大局的に見れば、これは日米開戦の遠因となった出来事だった。
1924 中国大陸
での内乱
中国では、1919年に中国国民党、1921年に中国共産党が結成され、欧米や日本に対する民族解放運動が広がっていった。
しかし、中国各地の割拠する軍閥(軍事力をもつ政治集団)が、中国統一の大きな妨げとなっていた。
太古から中国大陸には内乱・内戦が絶えなかった。この時期も各地で軍閥同士の戦争が相次ぎ、そのたびに中国の民衆は戦火に巻き込まれ苦悩していた。
各軍閥には何ら大義はなく、ただ自らの集団の利益のみを追及し、民のことなど頭にはなく、あろうことか搾取の対象にまでしていた。
それは中国国民党や中国共産党も同様で、彼らも単なる軍閥のひとつでしかなかった。ただ、他の軍閥と違っていたのは、中国を統一して天下を取る、より大きな利益を獲得するという意思が強かったということである。

1926 北伐開始
蒋介石が率いる中国国民党は、北方(北京周辺)の軍閥の打倒を目指して「北伐」を開始した。

1927
3月
第一次南京事件
(南京大虐殺とは別)
左派は言及せず。 1927年3月、国民軍が、軍閥を破って南京入城を果たすやいなや、共産軍と一緒になって一般居留民に対して大掠奪を行い、外国領事館を襲撃した。
この時、日本領事館に避難していた陸軍武官や警察署長は重傷を負って無抵抗を余儀なくされ、その他館内に避難していた者は男女の別なく衣服をはぎ取られ、財布・指輪を奪われ、館内にあったあらゆるもの、寝具・家具・調度品・オモチャまでもが運び去られた。これは日本領事館のみならず、英米なども同様だった。

そこで、長江に碇泊していた米英の砲艦が一斉に艦砲射撃を開始することによってようやく鎮まったが、日本は隠忍自重して艦砲射撃をしていない。 《渡部昇一》

4月には同様の事件が漢口でも起きている。

1927
7月
日本軍の
山東出兵
国民党軍の北伐に対して日本政府は、日本人居留民の生命と財産の保護を名目に、「山東出兵」を実施した。 被害を受けた5ヵ国は、会議を開いて兵力の増強を提議したが、日本は最後まで派兵に反対だった。
しかし国民軍が当時約2万人の日本人居留民がいた山東省に近づいてきたため、内閣は派兵を決定した。南京事件、漢口事件のことを考えれば、日本政府が日本人の生命と財産を守ることは当然すぎるほどの責務である。

日本は約2千名を山東省に派兵したが、蒋介石が党の内紛から北伐を中止したため、8月には撤兵している。

1928
4月
第二次
山東出兵
どうしても山東省を押さえたい日本政府は、再び山東省へ派兵を決定し、約5千人の軍隊を送った。 蒋介石は再び国民軍を率いて北伐を再開した。
そのため日本政府は、前年の南京・漢口事件の再来を恐れ、またしても軍隊を山東省へ派遣することになった。
1928
5月
済南事件 日本軍は国民軍と戦闘を起こし、山東省を占領してしまった。 案の定、国民軍は山東省の済南市でまたもや約百人の日本人居留民に対して虐殺・暴行・略奪を行った。
対抗した日本軍は、激戦の末、山東省を押さえた。

その時の外国メディアの報道…
●京津タイムス…「日本軍がいなければ、外国人はことごとく殺戮されただろう」
●ディリー・テレグラフ…「支那人は略奪と殺人をあたかも天賦の権利であるごとく、暴行を繰り返している」・「日本人の忍耐にも限度がある」
- 満州とは 当然、満州は中国の一部である。 もともと清朝とは満州族が漢民族の中国本土を征服して成立した国家だった。
その後、中国では1911年に「辛亥革命」が起こり、漢民族が満州族である清から独立して「中華民国」を建国したもの。
革命の指導者・孫文も、万里の長城までが漢民族の領土だと考えていた。
よって満州族の故郷である満州は、当時は中国の領土とはいえない。
例えれば、戦後日本から独立した韓国が、日本も韓国領土だと主張するようなものである。

それに、当時の満州は長い間ロシアに占領されており、日露戦争後には日本が開発を進めていた。
それまでの荒野の状態の満州は、中国人にとっては「野蛮人の住む土地」ということで蔑んでいたにもかかわらず、外国が開発し発展し始めてから、自分たちの土地だと主張し始めたのである。
1928 張作霖暗殺 条約によって獲得した権益だけでなく、満州全域の支配を画策する関東軍は、満州の支配者・張作霖を爆殺した。すると、満州では反日民族運動が高まっていった。 満州の人々は、数年先の税金をむしり取ったり、治安を悪化させたりする張政府の統治に苦しめられていた。(満州の状態参照)
そんな張が邪魔になったために関東軍が暗殺したとされてきたが、最近になって「日本冤罪説」も頻繁に出てきている。これはロシア側から出てきた説で、
日本には張作霖を殺して徳することは何ひとつないが、ロシアにはその動機があるというものである。
当時 満州での排日活動 左派は言及せず。 張作霖の息子・張作霖は、中国国民党の配下に入った。
中国政府は「革命外交」という、条約で結ばれた外国の権益を力ずくで奪い返す政策を推進していた。日本に当てはめれば、満州の関東州と満鉄(南満州鉄道株式会社)という合法的な権益が狙われた。

これにより張作霖の反日政策を受け継いだ張学良と中国政府は、以前にも増して徹底的な反日テロ行為を行った。
満州の中心地・奉天近辺だけでも暴行や器物・施設の破壊などの日本人や日本企業に対するテロ被害が、1年間で30万件を超える有様だった。 《福田和也》

日中間で満鉄と並行する鉄道は作らないという取り決めになっていたのに、中国側は約束も日本の抗議も無視して2本の平行鉄道を作った。そのため満鉄は経営不振に陥り、社員は4千人も解雇された。

また、中村震太郎・陸軍大尉が中国側に射殺されるという事件も起こった。

これらのテロ行為は日本人に対するほどではないにしても、欧米の居留民に対しても少なからず行われていた。 
1931 満州事変
(柳条湖事件)


※「事変」=国際間の宣戦布告なき戦争(広辞苑)
関東軍(満州駐在の日本陸軍)は石原莞爾・作戦参謀らが中心となって、奉天郊外の柳条湖で満鉄を爆破。これを中国軍の仕業として、全満州を支配下に置くべく軍事行動を開始した。

また、日本のこの武力行為は、1928年に国際連盟で結ばれた「不戦条約」(今後侵略戦争は一切禁止)に明確に違反するものだった。


満州事変時の外国の反応…
●在中米英の官民の大勢…「我々が何年もやるべきだと言っていたことを、日本がやってくれた」
●ジョンソン米公使に入った意見…「長年営業妨害をされてきたビジネスマンが晴らせなかった恨みを、ついに日本軍が晴らしてくれた」
●満州事変で日本を非難した米・スチムソン国務長官は、笑い者となった。

宣教師は別にして、中国にいる外国人で中国人に同情する者はまずいない。「自業自得だ」というのである。考えてもみよ。商品略奪事件が何年も続くのに、政府は何の策も打たない。我々アメリカ人は、国際法に則ってあくまで公平に商品の売買をしているにすぎないが、国民党政府は中国人の生き血を吸う「帝国主義吸血鬼」と罵倒している。上海と天津以外のアメリカの役人は、詐欺・反米運動に忙殺されていた。日本は「やるべきこと」をやったのである。 《ラルフ・タウンゼント》

当時満州にいた軍閥の張学良軍は33万3千人、それに対して関東軍は1万1千人だった。何と33倍にも及ぶ敵に勝利を収めたということで、石原の名は世界に知られた。 《藤岡信勝》

満州事変進行の過程において、満州人の有力者は軍閥打倒への激しい気持ちから、日本軍に積極的に協力した。 《福田和也》

満州事変が15年戦争の原因という人がいるが、満州事変はそれに先立つ四半世紀の支那の排日侮日政策の結果だった。
原因ではなく結果だったのだ。 《中村粲》

「不戦条約」違反との主張もあるが、この条約では自国の国益を守る「自衛戦争」は認められており、しかも自衛か侵略かの判断は当事国が決められるという実に曖昧なものだった。(自衛範囲は国外の権益であっても対象)
いずれにせよ上記のように、日本の合法的な国益は中国側のテロにより完全に危機に瀕していた。これは明らかに自衛のための軍事行動ということになる。
中国側の仕業に見せかけたことはいただけないが、本来なら中国に対して正々堂々と宣戦布告してから行うべきだった。日本に非があるとしたらその一点だけである。
1932
1月
第一次上海事変 満州事変以来、激高する中国人の抗日運動の中心地・上海で日本人5人が襲われた。
そのため日中両軍の市街戦が発生した。これを口実に日本政府は2度にわたる上海への派兵を行い、中国軍を退却させた。
上海で日本人の僧侶ら5人が中国人に襲撃され、1人が死亡した。
これにより日本海軍の陸戦隊と中国軍が戦闘。苦戦する日本軍の応援として、日本政府は陸軍の出動を決めた。
この戦闘により日本軍は約800人の戦死者を出したが、なんとか中国軍を退却させることができた。
この戦闘は同じく上海で1937年に発生した事変と区別するために、「第一次上海事変」と呼ばれている。


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