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張作霖暗殺

関東軍は満州侵略の邪魔になるということで、
満州の支配者であった張作霖を
乗っていた列車もろとも爆破して
暗殺してしまったというが



●日本政府は北京の各国公使団からも「日本の力で北京を戦禍から守ってほしい」と強い要請を受けていた。張作霖の奉天軍が北京にいると、南軍と激戦になり、在留外国人や中国市民が巻き添えを食うことは目に見えていたからだ。

●南軍迫るの報に、済南事件の惨状を知った北京城内では、外国人・中国人を問わず恐怖に怯えきっていた。
 《益井康一 「なぜ日本は戦争を始めたのか」》


●虎の子の満州の経営を維持するのに、張作霖はマイナスだという空気が関東軍に強くなった。というのは張は満州族じゃなく漢民族で、満州は単なる根拠地にしているだけで、どうしても北京に出て中国本土の覇権を握りたい。そのためしばしば国民党軍と戦う。その軍費調達のために重い税金をかける。それだけでは足りなくて、なんの裏付けもない紙幣を乱発する。そうすると満州はインフレになる。このまま張にまかせておいたら、満州は経済的に破綻しかねない。

●そこで軍は息子の張学良への政権交替を企んだ。学良は重い阿片中毒で統治能力はない。張作霖の側近には、幸い日本の陸士を出た優秀な幕僚がいる。彼らに実権を握らせれば、日本には好都合だと考えた。

 《長谷川慶太郎 「歴史頭脳を持っているか」》
     (他著書「日本の難題」)


●張作霖爆殺まで日本は、一貫して軍閥内戦に不干渉の姿勢を取り続け、特殊権益を持っている満州への波及を防ぐことを第一としていた。だが張の民衆に対する苛斂誅求は凄まじく、そのため民衆の不満は高まっていた。

●また張が北京政権争奪戦に参入したことで、満州に戦火が延焼する危険性もいっそう高まっていった。これらのことが関東軍と張作霖の対立を生むことになった。  
     《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》
  (他著書「『日中戦争』は侵略ではなかった」)
 


●ユン・チアンの著作「マオ」…「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連の情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちのトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。
        
《中西輝政 諸君!2006/3月号》


●日本政府は張作霖を支援して、満州支配の支柱にしようとしていた。当時北京に勢力を張っていた張作霖を満州に引き揚げさせたのも、蒋介石の北伐軍から張を守り温存するためだった。爆殺はその帰満の途上で起こったのだ。日本にとって彼を殺害して得られる利益は、何もない。
        《藤岡信勝 正論2006/4月号》



●張作霖爆殺事件は、東京裁判の敷いた基本線に忠実に解釈されてきた。田中隆吉や田中啓介・森島守人らの検察側証人の伝聞に基づく大筋(河本の命令を尾崎大尉・富田大尉が忠実に実行したという)を守って、「一件落着」とされてきたきらいがある。

●日本側史料からは、
この事件はパル判事が言うように、今に至るも「神秘の幕に被われたまま」というのが正確なところのように思われる。
      
 《中西輝政 諸君!2006/4月号》


●張爆殺の「日本犯行説」の根拠としてよく引用されているのが、河本大佐の「手記」と作家立野信之の小説「昭和軍閥」である。なぜ中国の歴史家たちが学術論文の傍証に小説を引用するのか、理解に苦しむ。

●立野はプロレタリア作家として出発し、あの党員作家・小林多喜二は立野宅に隠れているところを逮捕連行された。こういう人物が「自虐史観」に囚われる可能性は高いと見るべきだろう。

●河本大佐は1953年に中国の太原収容所で悲惨な獄死をとげた。翌年「文芸春秋」(昭和29年12月号)に、「私が張作霖を殺した」という「手記」が出た。
ところがこれは河本の自筆ではなく、義弟で作家の平野零児氏は「私が河本の口述を基にして筆録したもの」であると言っている。(「特集文芸春秋」昭和31年12月)
…そもそも口述録音もなく、直筆でもなく、本人の死後現れたものが手記などと言えるのだろうか。

●平野氏は著書「人間改造」を見ればわかるように、中共の収容所で強烈に洗脳され、1956年に帰国した人である。彼が中共で受けた「マインド・コントロール」の解けないまま、特殊目的をもった文章を書き綴ったとしても何の不思議もない。

●東京裁判では、検察側の証人として出廷した田中隆吉少将は、当時の中央政府の対張作霖政策に不満を持っていた河本以下十数名の計画に基づいて決行されたものであったと証言した。

●田中は米軍に保護され、都内の豪邸を転々とし、一般人が食うや食わずの頃に米軍から高級食品をたっぷり支給されていた。代々木八幡の今井五介邸では本人の要望が容れられて、柳橋の芸妓から落籍せた愛人と同居していた。そこから米軍差し向けの車で法廷に日参していたのだ。
        《瀧澤一郎 正論2006/5月号》
 


●張作霖がソ連にかなり恨まれていたのは事実。彼は北京を支配していたが、1927年4月に北京のソ連大使館に踏み込み、国民党とソ連が組んでいることを示す証拠を押収したうえ、中国語に翻訳して大部の冊子として公表していたから、命を狙われる可能性はあった。
        《北村稔 諸君!2006/6月号》


●もともと日本犯行説は、動機が薄弱だと指摘されていた。日本では田中義一首相をはじめ、多くの政治家・軍人が張作霖との友好関係の維持を重視していたから。
       《瀧澤一郎 諸君!2006/6月号》

 
●当時の中華民国は、北京に軍政府を組織していた張が代表しており、日本の満州での租借権益も張を通じて維持されてきた。その頃の日本の方針は、満州の張政権を育成・援助し、日本の満州権益を守らせることだった。関東軍の暴走では説明しづらいものがあるのだ。どう考えても、日本が張作霖暗殺に手を染める理由は、ソ連以上にはない。
  《ドミトリー・プロホロフ 正論2006/4月号》






●私の検証では、河本が事件に関わり、配下の東宮鉄男大尉たちを使って爆薬爆破を実行した事実は動かない。河本自身の中国共産党に対する供述調書をはじめ、爆破にかかわったグループメンバーの証言などからも、その点は揺るがないと思う。しかし、張作霖を実際に死に至らしめたのは、河本たちの仕掛けた爆発物ではないのではないかという疑問を抱いた。

●現場は、張作霖の列車が走っていた京奉線を、満鉄線の高架がクロスする形でまたいでいる。
河本の部下が仕掛けた爆薬は200~250キロ、線路脇に積まれた土嚢に入れられていたという証言もある。

●これだけの爆薬が爆発すれば、普通なら大きな穴が空くはずだが、爆発の瞬間を撮影した写真を見ると、全く空いていない。レールも無傷。その他の現場写真を見てもそうである。列車も少なくとも一両は転覆しないとおかしいのに、それもない。車体は確かに側面が崩れているが、爆発に伴う火災で崩れ落ちたものだと考えられる。

●そこで、車両の内部に爆発物が仕掛けられていて、これが張作霖を死に至らしめたのではないかという推論に導かれた。河本グループが実際に爆破したのは、恐らく数十キロ程度の少量の爆薬に過ぎず、列車と張に致命傷を与えた第二の実行犯がいたということである。

●列車内に爆発物が仕掛けられていた可能性は、実は当時のさまざまな現場調査で指摘されていて、あろうことか関東軍の記録にまで書かれていた。当時、関東軍参謀長だった斎藤恒が、参謀本部に提出した『張作霖列車爆破事件に関する所見』という文書には、次のように書かれている。

●爆薬が仕掛けられた位置についてはいろいろな意見があると前置きしつつ、「破壊せし車輌及び鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚(満鉄線の高架〔鉄橋〕の橋脚=筆者注)上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること、略推測に難しとせず」としている。

●同じ事が、内田五郎という日本外務省の奉天領事が作成した調査報告書にも書かれている。内田は支那側との共同チームで調べた結果を、1928年6月21日付で爆薬の装置場所について概略次のようにまとめている。

①爆薬は(高架)橋の上、橋の下、または地面に装置したものとは思われない。

②側面や橋上から投げつけたものでもない。

③張作霖が爆発当時にいた展望車後方部か後続の食堂車前部付近の車内上部、または高架橋脚の鉄桁と石崖との間の隙間に装置したと認められる。

…そのうえで、「電気仕掛にて爆発せしめたるもの」としている。

●これらの報告書は、恐らく表に出したくなかったので握り潰されたのだろうと思う。河本が爆破をやったことは間違いないわけだから、第三国による別の爆破があって、その謀略に関東軍が加担した、あるいは乗せられたことを認めることになる。陸軍の主権、さらには統帥権の問題にも発展しかねない。国家として認められないわけである。

●爆発の瞬間を撮影した現場写真は、爆殺が行われるのを予め知っていた河本グループの誰かが撮ったものである。敢えて自分たちの関与を示す証拠として残したのは、自分たちの行動を非常に誇りに思っていた、という心理が読み取れる。
        《加藤康男 正論2011/7月号》

●河本自身は事件の約1ヶ月半前、満蒙問題解決のため「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。止めても、ドーシテモ、やってみる」という手紙を参謀本部の友人に送っている。手柄として誇示したいとすら思っていたのであって、本来なら隠すべきところを、隠すような犯罪では決してないと考えていた。これが前提である。
            《西尾幹二 〃 》

●軍中央の河本の同志たち、エリート幕僚集団の「二葉会」のメンバーも喝采を送っていた。河本はこの事件で予備役とされるが、その後は満鉄や中国の炭鉱会社の役員になったりする。彼を支援・支持する軍内部の声が後々まで続いたということである。
            《加藤康男 〃 》






  
 
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