賢者の説得力ホーム満州事変日本統治時代

 

日本統治時代

日本は偽満州国を植民地化し、搾取し、
住民を苦しめたとされているが…


産業の面では、それまで鍋釜しか製造できなかった満州が、自動車や飛行機まで製造する一大近代産業国家・一大重工業国家となったことは、特筆に価する。

●中国と同様、満州ももともとは不衛生な土地であり、各種の風土病・伝染病が蔓延していたが、日本人の指導でそれらの撲滅が図られた。
      《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》


●実際、満州国の寿命は10年余りしかなかったけれども、驚異的な成長を遂げた。
◇新京(長春)をはじめとする大都市が次々に建設され、重工業が発達した。
◇映画や音楽の文化など、内地では考えられないような豊かな市民生活がごく短期間に実現された。
…第一次大戦から大不況の波を受け、息苦しい思いを味わっていた昭和の人たちに、満州国の独立は大きな希望を与えた。(世の中が、パッと明るくなる事件だった) 
        《福田和也 「魂の昭和史」》


●20世紀初頭の満州の人口は約1千万人だが、満州国成立時(1932年)には3千万、終戦の1945年には4千5百万人にも達した。現代の深圸も近代都市に発展してから、一般人の流入は禁止されているにもかかわらず、当初3万人だった人口がわずか20年間で3百万人に膨れ上がっている。

《黄文雄 「日中戦争知られざる真実」 他の著書「中国人が死んでも認めない捏造だらけの中国史」》



●満州での試みは、戦後日本において官民共同の産業育成や高速鉄道のネットワークなど、さまざまな形で実を結んだ。大陸での経験がなければ、戦後の繁栄はなかっと言っても良い。
       《福田和也 諸君!2002/4月号》


●扶余・高句麗以来2千年間、民族争覇の地であった満州に、初めて秩序と法治と民族協和の国家が建設されたことに歴史的意義はないのか。この大事業は日本の政治・軍事力があったからこそ可能だった。

英紙タイムズは「日本は支那の悪政という荒寥たる砂漠の中に、青々としたオアシスを造り出した」と書いて、日本の軍事行動を絶賛している。

●斉藤博駐米大使は、事変の2年後熱河を旅行中、行きずりのアメリカ人宣教師から「日本は満州を米国に劣らぬ秩序ある安全な国にしてくれた」と感謝され、新約聖書を贈られた話を著書に書いている。
         《中村粲 正論2002/2月号》


●日本は、日露戦争で満州をロシアの手中から救い出し、この無蕪の地に鉄道を敷き産業を興して繁栄の基を築き、かつ関東軍によって治安を確保したため、満州には中国内乱の惨禍及ばず平和な別天地として発展した。

中国の戦乱を逃れんとする多くの漢民族が満州に流入し、その数は毎年100万人といわれた。よって辛亥革命当時の1千8百万だった人口は、事変のころには3千万人に達していた。

●貿易も増加し、大連海関が開かれた1907年の貿易額を100とすれば、20年後の1927年には中国本部264に対して、満州655という著しい発展を示した。満州の発展が日本の活動によることは、リットン報告書も認めざるを得なかった。
       《中村粲 「大東亜戦争への道」》



●満州国務総理の張景恵談…「日本人が満州でやった良いことは3つある。それは、治安が良くなり、交通が開け、幣制が統一された。…しかし、日本人は法律・法律でうるさいなあ」

●それ以前の満州では、軍閥が勝手に紙幣(軍票)を発行し、農民から力づくで農作物を買い取った。奥地は治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。それが…
◇紙幣は中央銀行券に統一されて各地で流通し、その信用は絶大。
◇道路や鉄道ができて、奥地まで交通が通じ治安が良くなると、奥地の農民も農作物を町の市場に出して、金にすることができた。
◇通信網も張り巡らし、地方にも学校・病院・工場を作った。
       《榛葉英治 「満州国崩壊の日」》


●内地はくみ取り式トイレだったのに、満州は水洗トイレだった。
             《諸君!2003/5月号》


中国人は、ただ働けて束縛されずに生きられれば、どんな旗がはためこうと全く気にしない。懐具合が良くて家族が無事でいれば、後はどうでもいいのである。満州で数百万人の人間が幸せに暮らしているのに、損をする人がいるだろうか。
        
《ラルフ・タウンゼント
           「暗黒大陸中国の真実」》


●東洋最大級の豊満ダムを視察に訪れたフィリピン外相は、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年を経過している。だが住民の生活向上に役立つものは1つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語ったと、案内役の満州電業理事長だった松井仁夫は述べている。

●満鉄は、最高時速130キロという世界最高水準の「あじあ号」を作った。また地方道路も網の目のように建設され、さらにはアジア初のアウトバーンも建設されている。

●満州は当時の中国人にとって戦乱も飢饉もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育・医療を受けられた桃源郷だった。「王道楽土」は決して政治的宣伝ではなかった。
            《黄文雄 産経新聞》


●本来的に権力を伴わない統治はありえない。工業化や通貨の統一は、一定の強制がなければ実行できなかった。反満抗日ゲリラ(匪賊)に対しては徹底した弾圧が加えられた。しばしば日本的慣行が押し付けられた。しかしこれも、軍閥時代や同時期の中国と比較した場合、満州国の統治がそれほど過酷であったとは思われない。

●日本人と他の満州国民との格差は広まった。漢人たちは、自分の境遇を事変前や同時期の中国と比較するのではなく、身近に見る日本人と比べただろう。そこに不満や反発が芽生えることは避けられない。
       《戸部良一 諸君!2003/7月号》


●大連というのは日本人にとっては美しい豊かな町だった。大連の女学校の生徒が内地へ修学旅行に来て、門司に着くと日本人がクーリー(苦力)していると言って驚いたという。それからどうして日本の汽車はこう小さいのって。満鉄の「特急あじあ号」の威容に比べたら、確かにそう見えたかもしれない。それだけ内地というものがみすぼらしく見えたのだろう。
    《阿川弘之 「
二十世紀日本の戦争」》


●私は57年、旧満州の遼寧省瀋陽で生まれたんですが、少女時代、祖父からよく「満州時代は良かった」という話を聞きました。日本人は親切で礼儀正しく、約束を守り、治安が非常に良かったと。家に鍵を掛けたことなどなく、寒冷地なので、冬の夜、食料をベランダに置いて冷蔵庫代わりにしていたと言うんです。今は治安が悪く、ドアは二重にしないと危ないし、食料を家の外に置いておけば、すぐに盗まれてしまう。
     《鳴霞(元中国共産主義青年団)
            SAPIO 2005/8/24・9/7》


●当時、毎年100万人以上の中国人が満州国に流入していたことが全てを物語る。
中国がいうようなひどい国で、日本人に虐げられているようなら、誰も入ってこない。
       
《藤原正彦 歴史街道2006/4月号》


●私は何回も満州でフィールドワークをしているが、満州国時代を経験した老人たちは「日本があのままずっと統治しつづけていたら、満州は日本並みの近代国家になっただろう。その後、共産党に支配されたことが不幸だった」と言っていた。

●当時満州がどれほど発展していたかということは、毛沢東の言葉にも表れている。毛は「俺は満州があるから蒋介石と戦うのは怖くない」と言っていた。つまり毛は日本の遺産を利用したのである。

●日露戦争までは中国は満州の命運にはまるで無関心だった。ところが日本が満州に進出すると、今度は侵略された、侵略されたと大騒ぎする。でもこれは日本の統治によって満州が魅力的な土地になったからなのだ。だから中国は、満州がそれ以前にロシアによって占領されていたことには言及しない。
     《金文学 「逆検定中国国定教科書」》


●満州の荒土の開墾は難儀を極め、開発支援のために一時期、日本のGDPの43%を持ち出した(草柳大蔵「実録満鉄調査部」朝日文庫)ほどである。

《宮崎正弘 「
出身地でわかる中国人」他の著書「出身地を知らなければ、中国人は分らない
 


●満州国総理・張景恵は「傀儡」に甘んじてきた。政務にはめったに口を出さず、「閑さえあれば、百坪近くある総理室で、ひとり正座か写経にふけっていた。般若多心経、のちには金剛経は、全文を暗記していた」(「目撃者が語る昭和史・3 満州事変」)

●満州の役人が「日本人が実権を握っていて、何もできない」と張総理にこぼすと「日本人ほど便利な民族はいないではないか。権威さえ与えておけば、安月給で夜中まで働く」と諫めたという。(黄田多喜夫・談)  日本人の「内面指導」を平然と受容し、日本人をおおいに働かせ、自分は「写経」に励んでいた張の方が役者は一枚上かもしれない。
         《深田祐介 「
黎明の世紀」》 


●1938年9月4日 『ジャパン・タイムズ』 エダ・バーラック…
「次の文の著者はワシントンDCの学校の教師であり、観光業協会の招きで昨年の夏来日した、アメリカ・カナダ教師訪問団のメンバーの一人であった。

私は満州国を旅して、まさに目から鱗が落ちるような思いであった。それまで私は未開の田舎の荒野、発展の遅れた国を頭の中に思い描いていた。(略)私が目にしたのは、無法や泥棒行為のまったくない、静かで平和な国であった。人々は丈夫に作られた家に住み、深い肥沃な土壌を勤勉に耕し、この国の未来を十分に保証する善意の精神に満ちあふれて、様々の産業分野で働いている。シナ人・朝鮮人・蒙古人・ソ連人・白系ロシア人・日本人たちは(様々の少数民族も含めて)、私が目にしたかぎりでは、安定したよくまとまった政府の下で、平和と調和に満ちて暮らしている。

《福井雄三 「
司馬遼太郎と東京裁判―司馬歴史に潜む「あるイデオロギー」 他の著書「歴史小説の罠」》



●私は1987~88年の1年間、大連で暮らしていた。瀋陽・長春・ハルピンなどへの何度か足を伸ばしたが、老人から「戦争の記憶」をぶつけられた覚えはない。
「中国共産党より日本時代の方が良かった」と呟かれたことならある。

●街でドラ焼きを買っていて「あんたは日本人?」と日本語で話しかけられ、「懐かしい」と微笑まれたこともあった。日本やロシアがつくった建築巡りでは、住人や管理人から親切に案内してもらった。大連賓館(旧大和ホテル)で「日本人コックから教わった刺身の技術があるから」と、メニューにはないヒラメの刺身を食べさせてもらったことも一度や二度ではない。
        《河添恵子 正論2008/11月号》
 


●全ユーラシア大陸が戦乱と飢饉の生き地獄と化していた1945年という年の前半では、むしろ満州は唯一の楽土であり、空襲で家を焼かれ食糧に窮した日本人の中には、まだそのころでも日本から満州に移住して避難する人もいた。
      《岡崎久彦 「
吉田茂とその時代」》
 


●日本が満州を支配したとき、中国人は日本人の官吏を指して「法匪」といった。「とにかく法を持ち出してきて、法を盾にさまざまな無道なことを要求する」と見ていた。
法というものは便宜的に持ち出すべきものだ、というのが、しばしば中国人に限らず大陸文明に共通する法律観である。(解決済みの歴史カードにも通じる)
     《中西輝政 「
国民の文明史」 
       他の著書「帝国としての中国


  ※関連ページ : 日韓併合時の「発展」の類似性も参考に)
 
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