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満州の状態

満州とは、中国の農民がのんびりと暮らす
平和で豊かな大地だったのか。


●そもそも満州は、法治はおろか人治すらないという、軍閥・匪賊が支配・跋扈する無法地帯だった。

●G.B.レーは著書で、「蓋し満州こそもっとも掠奪物に富み、現に張作霖一家が3千万民衆から搾取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも、之に匹敵するものであった」と書いている。

     《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》
 (他著書「『日中戦争』は侵略ではなかった」)


馬賊は、昔から豊村が豊になる時を狙って、部落を襲い掠奪をほしいままにしてきた。農村では自衛隊を作り小銃で防いだり、少ない警察や正規軍に頼ったが、ますます大きくなっていく馬賊を防ぎきれなくなっていく。

●そこで民衆は、馬賊に税金を払い、その頭目を正規軍の隊長にして、他の馬賊の襲撃を防ぐようになった。これが満州の軍閥・中国軍隊の成り立ちである。(張作霖・馬占山など)
        《榛葉英治 「満州国崩壊の日」》
 


   馬賊の活動
(馬賊に身を投じた日本人・根本市郎の供述書より…

●移動時は人家を徴発して宿泊し、被害を恐れた住民が差し出す食糧を食べた。

●根城の山塞は人里離れた奥地にあり、人質は拉致すればここに監禁した。山塞には120人前後の人質が監禁されており、山中の倉庫には人質と交換に得た現金が約80万ドルあった。(拉致が主な収入源。日本人の中にも人質になった人がいた)

●人質は金を払えばすぐに釈放したが、払わない時には耳や指を切り取り、その家族に送った。

●アヘンを不法栽培する農民から、保護を名目に上納金を受け取った。不法栽培を取り締まる官憲側に対抗するため、アヘン栽培農家は馬賊と話をつけ、自分たちを守っていた。(もっとも官憲側も賄賂を送れば黙認してくれることが多く、アヘン栽培農家は馬賊と官憲を天秤にかけ、自分にとって有利だと判断した側に上納金を払っていた)

●満鉄では、線路のボルトや枕木などが抜き取られる事件や、列車が急カーブや上り坂にさしかかり減速した時を狙って貨車に飛び乗り、積み荷を盗む事件などが頻繁に起きていた。

●1923年4月、関東州北端で、約40名の馬賊が日本人派出所を襲い、日本人巡査1名が死亡するという事件も起きていた。
        《塚瀬進 「満洲の日本人」》
(他著書「溥儀 変転する政治に翻弄された生涯」)


●当時の満州では、鉄道をめぐる事件が頻発していた。数年間の間に百件以上も鉄道爆破事件があったといわれている。「満州国史」によれば、匪賊と呼ばれるテロリストたちは推定100~300万人いたといわれる。

      
《渡部昇一 「渡部昇一の昭和史」》
         (他著書「決定版人物日本史」)


●1920年代、満州の民は張作霖親子二代にわたる暴政によって、失意のどん底だった。彼ら奉天軍閥は兵を養い戦争を起こすために、不換紙幣を乱発し、税金は数年先まで前払いさせるなどのことをしていた

●満州事変当時、張学良の軍事費たるや実に国家予算の85%にまで上っていたことは、リットン報告書も承認するところだった。

●彼らが満州人の怨磋の的になったのも当然だった。(満州文治派の知識人たちが運動していた)満州を独立国とすることは、満州人の念願だった。(柳条湖事件の混乱をむしろ利用した運動だった)
       《中村粲 「大東亜戦争への道 」》


●辛亥革命が起き中国全土がますます混乱すると、この混乱に乗じて満州に張作霖が現れ、中国政府に逆らい満州を支配した。張は中国兵を放逐するため、中国人とは思えないほどの強力な兵力を整い始めた。

●1923年には何と5億ドルもかけ、大兵器工場(2万人が働いていた)を奉天に完成させた。加えて20万とも30万とも言われる私兵を蓄えていたのである。
       《ラルフ・タウンゼント
           「暗黒大陸中国の真実」》


●本来、馬賊は村の自警団である。治安のすこぶる悪い満州では、壮丁が武装をして村を守り、あるいは有力者の雇った壮士がその任務につくという風習があった。

●しかし武器を持った彼らは、自分の村を守るが、時に他の村を襲って略奪をこととした。そして長い歴史の間に、馬賊は自警団の本義から離れて、略奪と復讐と縄張り争いばかりをくり返す無頼の集団と化した。
        《浅田次郎 「中原の虹」》



        



●「白人対有色人種」「キリスト教徒対イスラム教徒」など、人類にはさまざまなライバル関係があるが、その中でも最も古いライバル関係の一つが「遊牧民族対農耕民族」である。

●農耕民族は食料調達手段として田畑を耕す。土地を耕し食糧を得るためには、その土地に定住することが必要となる。そんな定住生活のメリットは、蓄積が可能になることである。

●定住による蓄積が豊かさを生み出した農耕民族に対し、遊牧民族は厳しい生活を送っていた。彼等は牛や馬や羊などの家畜を飼い、生活の全てを家畜に依存する。食糧は家畜の肉を食べ、服も家畜の毛皮から作った。

●家畜はいずれも草食動物だから、飼料となる草を調達しなければならない。遊牧民族は水と草を求めて広大な草原を移動して暮らしていた。人間の方が動物の都合に合わせて転々と移動する生活では、農耕民族のような蓄積はできない。また、自然に生えている草を飼料にするので、自然の影響をもろに受けることになる。

●豊かな農耕民族と、厳しい生活を送る遊牧民族。彼らの間にライバル関係が生まれるのは、ある意味仕方のないことでもあった。なぜなら、厳しい生活をする遊牧民族からみれば、農耕民族のいる場所には必ず食糧があり、物資があり、奴隷として連れ去ることのできるきれいな女性や子供がいることがわかっていたからである。しかも、農耕民族は定住しているのだから、彼らの居場所を知るのは簡単である。

●こうして両者の間に生まれた貧富の差を埋めようとするかのように、遊牧民族は農耕民族に対する侵略を定期的に繰り返し、農耕民族はそれに悩まされ続けるようになっていったのである。

 《井沢元彦 「新・井沢式 日本史集中講座」》
      (他著書「『誤解』の日本史」)


●日露戦争で日本が勝てなければ、満州は確実にロシア領になった。しかし清帝国は王朝発祥の地での戦争であるにもかかわらず、局外中立を宣言し何ひとつ貢献しなかった。にもかかわらず「対支21ヵ条要求」で火がついた中国の民族主義の高揚を背に、張学良政権は国権回復を唱えた。 
         《稲垣武 正論2006/5月号》







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