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華北分離

満州事変は塘沽停戦協定で
一応の解決を見た。
 満州侵略を完成させた日本は、
今度は万里の長城を越えて
中国本土である華北に侵入していった。
そして着々と中国全土の侵略に
乗り出していったというのだが…


 満州からなぜ長城を越えたのか…

●満州の1省である熱河省に湯玉麟というのがいて、これが張学良にそそのかされた。しかも張学良のあと押しをしたのは蒋介石。蒋が「熱河に入れ、断じて日本に取られるな」といって熱河に侵入してきた。(約10万の軍で)
        
●当然日本はこれを撃つ。(1933年頃) それでも天皇は「熱河は満州国領だからいいが、長城から南へは絶対に行くな」と言っていた。
        
中国軍は日本が長城を越えないことを知っているものだから、追撃すれば逃げる、引き返せばまた来る、の繰り返しで熱河へ入ってきた。
        
●そしてとうとう日本軍は関内作戦で長城を越えてしまった。 
《中村粲 「日本はなぜ負ける戦争をしたのか。 朝まで生テレビ!」》 


●熱河作戦時、関東軍もさすがに北平(北京)までの進撃は考えていなかった。そこを攻撃すれば、それこそ中国との全面戦争は避けられず、陸軍中央部もそこまでの準備は整えていなかった。

日本の「熱河作戦」は簡単にいえば、張の軍隊を長城の南に追い出す作戦だったが、もう1つは華北と呼ばれる長城南方一帯を日本が事実上支配するか、あるいは親日的な傀儡政権を樹立させるという戦略も含まれていた。

●塘沽停戦協定によって、東西200キロ・南北100キロという、ほぼ九州に匹敵する地域を非武装化し、満州国の南側国境の安全を確保した。そして日本軍は自主的に長城の線に帰還した。
    《太平洋戦争研究会 「図説満州帝国」》
 


●日本は何ゆえに、中国本土である関内に緩衝地帯を必要としたのか…
1933年5月の塘沽協定後、知日派の汪兆銘が行政院長に就任したこともあり、日中関係は改善に向かう。日本軍が長城線を越えて華北に進出しない限り、両国関係はさらに発展するものと考えられていた。

●そして両国間で親善工作は着々と進んで行った。34年末から35年にかけて中国は、満州両国相互間の列車の乗り入れ・郵便・通電・通航などの問題を解決しており、実質的には満州国を承認していたと見なすことができる。この間蒋介石は、中断していた共産党への包囲殲滅作戦に全力を傾け、その結果が共産党の長征という大迷走になった。

●しかし日本軍は華北工作に着手して、そこに勢力を伸張させようとした。それはなぜかといえば、中国の反蒋勢力が日本を挑発したからだ。(排日反日勢力は殆ど反蒋勢力=中共) 蒋介石は1934年、「日本軍が長城線を越えない時機に局面を転換することは可能だったが、日本軍が中共分子の策動に乗って華北に進出したため、収拾できない状態となった」と嘆いた。

   《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》
  (他著書「『日中戦争』は侵略ではなかった」) 


中国は「青シャツ隊」(蒋の秘密組織、テロリスト)・「義勇軍」・匪賊、時には正規軍さえもけしかけることによって、満州国の国境地帯で紛争を起こすやり方をとった。そのため、保護者である日本軍が武力を使わざるを得ない。

●その結果、東河北自治区域として知られる、狭い帯状の緩衝地帯が設立された。しかし協定は守られず、「青シャツ隊」は北支に入ってきてその数をどんどん増やしていった。(親日派の中国人を次々に殺していった)
    《K・カール・カワカミ
       「シナ大陸の真相―1931‐1938」》


●あるとき、満州にいた関東軍の二個連帯が共産ゲリラを追って長城を越えてきたことがあった。撃っては逃げ、撃っては逃げるゲリラを深追いしているうちに、関東軍は敵の術中に落ち、気づいたら周り中、敵に囲まれてしまった。共産軍は戦さ上手だった。
       《伊藤桂一 諸君!2007/8月号》



●1936年、政府は華北を日本の勢力下に置くことを決定し、経済的地盤を固めるため合弁会社を育成し、積極的な資本投資を行っていった。(第二の満州化)

     《八木秀次 「一目でわかる現代史」》
         (他著書「国家再生の哲学」)   


●1937年1月の衆議院で、近衛首相は「今後は支那民衆の心を把握することでなければ、東洋平和の確立、ひいては日支両国の提携はできない。支那は農業国であるから、支那農民と結び農業の発展を我国が手伝うことは極めて必要だ」と言っている。

●日本は華北における増産計画を立て、生産の指導・支援・そして治安維持を行い、また食糧の需給秩序の回復に努めたものの、抗日ゲリラの勢力下にあった農村は、食糧確保政策に協力しなかったばかりでなく、需給秩序のかく乱に狂奔した。そもそも抗日側は、華北の食糧不足を拡大させ、人心を日本や親日政権から引き離すことを目標としていたのである。

●それでも日本は、北京・天津の食糧不足を解決すべく、その食糧供給源だった蒙彊地方の農業振興を指導し、生産力向上に成功した。このため華北への食糧移出は順調に進んだ。

●漢人が移住するところ、山野から樹木が消えていく。(燃料の確保・耕地を開くため・狩りの獲物を追い立てるため山を丸ごと焼く・戦乱の戦術など)いずれにせよ、数千年にわたって乱伐・盗伐を繰り返し、植林を行わなかった。森林は治水の要である。

●日本は華北を占領した後、直ちに森林造成計画に着手した。これにより森林それ自体が恵みある水源となり、洪水や旱魃の禍根を絶ち、鳥類を繁殖させて蝗害を防ぎ、年々飛来しては都市を埋没させてきた黄砂を防ぎ、それが社会衛生につながった。つまり中国社会の宿弊の殆ど多くは、森林の造成で解決できるものだった。つまり農民を救済するのも、まず第一に森を作ることだった。
  
  《黄文雄 「近代中国は日本がつくった」》



    



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