朝日の
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●新聞も商品で、商品であるうえは、女子供のご機嫌を損ねることが出来ないわけだ。
《石堂淑朗 「辛口気分」》 ●朝日新聞は「昔は間違っていた。しかし深く反省して今は正しい考えに至った」と言っても、日本がまた軍国主義になったら「昔の平和主義は間違っていた」と言い出しかねない。戦争中から相も変わらず大衆迎合すぎる。
《岸田秀 「日本人はなぜかくも卑屈になったのか」》 ●恐ろしく幅の広い読者を一様に満足させようとすれば、感情に訴えるしかなかろう。 【例】消費税反対騒ぎ…子供に百円持たせて菓子を買いに行かせたら、消費税の3円分が足りなくて泣きながら帰ってきたとか、老人や貧しい人がかわいそうだという話ばかりが先行し、著しく直接税に偏重したいまの税制がこのままでいいのかという議論はほとんど登場しなかった。
《稲垣武 「朝日新聞血風録 」》 ●平成6年6月30日、自社さ連立政権が生まれた。村山首相は日の丸=国旗、君が代=国歌も容認すると表明した。するとどうだ。7月2日付の朝日社説はこれを「現時点での国民的合意に近い線ではないか」と評価し、たまげたことに日の丸・君が代も「素直に受け入れていい時だろう」と、いともたやすく同調したのである。これまでの主張を翻す理由を、天下に向かって明示すべきである。 《片岡正巳 「朝日新聞の『戦後』責任」》 ●大衆迎合が当然になってしまったマスコミほど恐ろしいものはない。ジャーナリストとして鋭い指摘をするどころが、多くのマスコミは衆愚をつくり出す装置と化している。
《前野徹 「戦後歴史の真実」》 ●朝日もここまで濃厚な左翼色がついてしまうと、下手に論調や報道姿勢を豹変させれば、熱心な読者である左翼市民運動のメンバーや同調者、また永い間朝日にマインド・コントロールされた「朝日真理教信者」の反発を買い、朝日離れを起こす危険がある。かといって現実路線を取っても、新しい読者が増える可能性は低い。現実路線の新聞を購読するなら、何も朝日でなくてもいいからだ。 《稲垣武 「北朝鮮に憑かれた人々」》 ●世論が真っ二つに割れているテーマでも、靖国神社参拝問題のように朝日の古い読者の関心のあるテーマだと厄介だ。編み出されたのが両方に配慮しているふりをして、他人褌で相撲をとる手口だ。 その典型が06年元旦の社説である「『武士道』をどう生かす」。新渡戸稲造の「武士道」や藤原正彦のベストセラー「国家の品格」引き合いに出して首相の靖国参拝を批判し、参拝を支持する勢力を揶揄している。
●「わたしたちは靖国参拝を支持する人たちの信奉している『武士道』を大事にしなければならないと思っていますし、『武士道精神の復活こそ日本の将来のカギを握る』という藤原氏の指摘もわかります。でも、その『武士道』の精神に照らしても靖国の参拝はよくないのではないでしょうか」 ●こんなことが言いたいのではないかと推測できる。 確かに、新渡戸は「武士道」の中で「『いつでも失わぬ他社への哀れみ心』こそサムライに似つかわしい」と書いた。朝日に明確な理念があれば、こんな回りくどい社説を書く必要はない。「勝ち組」「負け組」を生み出した小泉首相の改革路線を徹底的に批判するのもいいし、参拝を真正面から叩くのもいいだろう。
●それをしないのは、小泉政権が世論の圧倒的な支持を集めているうえ、靖国参拝の是非は世論が二分に、若年層にはどちらかといえば支持するムードが強いからにほかならない。 …東西対立時代のオールド左翼を読者層に持つ朝日の主張は絶対反対であるが、それを前面に押し出せば、若年層が朝日から離れていく懸念がある。そんな風にでも考えたのだろうか。
●朝日の首脳は、まだ古い読者像にとらわれている人がいる。大衆は依然として知的水準が低く、冷静な判断力を欠き、ムードに流されやすい存在だとする認識があるのではないか。だからこそデータと論理に基づく冷徹な分析を避けて、情緒過多の紙面作りに傾きやすいのだろう。 ●私はしばしば、なぜ新聞がそういう紙面作りをするのか、先輩や上司に問い糺したことがある。そのときの答えは、「新聞とは所詮そういうものだ。総合雑誌ではないのだから、難しい議論を載せても売れない」というのが平均的だった。中には「新聞は中学生からおばあちゃんにまで読ませるのだから、そんなインテリ臭い記事など載せられるか」と言ったものまであった。 《稲垣武 「朝日新聞血風録」》 ●私が朝日に入社した1960年頃は、時の首相の靖国参拝を問題にするような空気は社内に全くなかった。まだ戦後間もない頃で、身内を戦争で亡くした方々の思いが生々しく残っている時代だった。仮に政治家の靖国参拝を問題だと思った記者がいたとしても、そんなことを書いたりしたらすぐに不買運動が起きかねない状況だった。 《稲垣武 週刊新潮2006/8/31》 ●朝日に若宮啓文と筑紫哲也の対談(10月12日)が載った。その中で2人は口を揃えて、安倍降ろしをやれたのはワイドショーのコメテーターにインプットする作業に成功したからだと認める。「自分がみんなと同じことを恥じない、むしろそれを喜ぶ」のが、オルテガの書く「馬鹿な大衆」だが、そういう大衆をどう踊らせるか、ということを2人は堂々と語り合っている。 ●私も1年、TVでコメンテーターをやった。それでどこのTV局も朝日新聞を教則本に使っているのを知った。今のワイドショーは、写真家や音楽家、漫画家から居酒屋のおやじが政治を語る。当然、無理があるから、最低限これは読んで下さいとディレクターが事前に渡すのが、朝日の記事や社説なのだ。 《高山正之 Voice2007/12月号》
【以下 12月17日更新分】
●しかし大事なのは、朝日病の元凶は読者だということです。新聞は読者が作るのですから。朝日の読者は空疎で立派で、もっともらしくて堂々とているものが大好きなんです。事大主義でしかも無難なもの。それは、無内容なものになる。 《丸谷才一 「VS.朝日新聞」》 ●「この情報になら対価を支払ってもいい」という情報消費者が一定数確保できなければ、マスメディアは存立できない。その厳しい条件がマスメディアの発信する情報の質を保証している。 原理的にはそうだ。けれども、実際にはそうではない。むしろ「この情報になら対価を支払ってもいい」という情報消費者のニーズに配慮することで、マスメディアの発信する情報の質は一貫して低下し続けている。読者を増やそうとすれば、宿命的にメディアは「よりリテラシーの低い読者」に向かうしかないからである。 ●「市場の淘汰」が必ずしも発信する情報の質を保証しないことは、歴史が教えてくれる。 1905年の日比谷焼き打ち事件は日本のポピュリズムの原点であるが、ポーツマス条約破棄と戦争継続を呼号したのは万朝報と大阪朝日であった。 ●「市場の淘汰」にさらされるということは、言い換えれば読者が「興奮する素材」を絶えず提供し続けなければ生き残れないということである。マスメディアの悲劇的宿命はここにある。「読者の鎮静」を求める情報をマスメディアは提供することができない。メディアは「読者を怒らせる」情報だけを選択的に提供する。だから、メディアには「正義の名における怒り」を煽る文章が氾濫することになるのである。 《内田樹 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」》 |
【朝日新聞の体質】 ★虚報体質/日本を貶めるための捏造記事の数々 ★二枚舌/ご都合主義の言論機関 注目!★卑怯な手口/国民を騙せると考える浅はかさ ★朝日の品格/大上段からものを言うが、自らは… ★偽善/世論からかけ離れるその主張 ★大衆迎合・変節/その節操のなさ ★反日的言動/過激派左翼とすべて一致する主張 ★中国様の朝日新聞/まるで中国共産党の機関紙 ★偏向報道/反権力なのではなく反自民・反日本 ★朝日の怪しい安全保障論/日本の弱体化で喜ぶのは中国 ★朝日新聞の戦争責任/最大のA級戦犯は朝日自身だ ★他の反日メディア/NHK・TBS・毎日新聞など ★ぼくの継父/反日メディアへ贈るフィクション |