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【自虐年表】
~ついでに歴史も勉強してみよう!~

左派と右派の歴史認識を年表で比較してみました。わかりやすいように3つの年表を作りました。

おおまかな年表…概略。時間のない人向き。
詳しい年表…全体の流れが分かります。
もっと詳しい年表…細かい事象を詰め込みました。
                  (まだ未完成)

日本悪玉論のパターンも必見!




《おおまかな年表》

出来事 左派の年表 右派の年表
19世紀
後半
日清・日露戦争 明治維新後、近代化した日本は、欧米のマネをして領土を拡張することが一等国だと勘違い。大陸に侵略の目を向けた。そのスタートが日清・日露戦争であった。 アジアで唯一近代化できた日本は、他のアジア諸国が欧米の植民地にされている現状に危惧を覚えていた。
とくにロシアの南下が最も日本には脅威であった。それを阻止するために日本は立ち上がったのである。
1910 日韓併合 何とか大陸に進出したい日本は、武力で韓国を脅し、植民地にしてしまう。日本の統治は韓国人に大変な恐怖と苦痛を与えた。 日本は、かろうじて日露戦争に勝ったものの、ロシアの脅威は消えなかった。そこで日本は韓国と協力して対ロシアに備えたかったが、韓国はまったく聞く耳をもたなかった。
そこで日本はやむなく韓国の併合に踏みきった。
1931 満州事変 韓国だけでは足りない日本は、朝鮮半島の先で中国の一部である満州を侵略、勝手に傀儡国家をつくってしまった。 現在、日本人をはじめ外国人が中国で経済活動をしているように、当時の満州でも日本人は合法的でまじめに仕事をしていた。そんな日本人に中国人がしばしば危害を加えた(これも現在と同じ)ため、耐え忍んでいた日本は反撃したのである。

それに満州は中国領土ではない。独立国家の建設は満州民族の悲願だった。それを日本が手助けしたのである。
1937 日中戦争 日本は満州を越え、とうとう中国本土まで侵略。各地で多数の中国人を虐殺した。 当時の中国は、国民党と中国共産党の血みどろの内戦状態。この戦いに日本は巻き込まれた形になってしまった。ほとんどの戦闘は中国側からの挑発である。
また、「虐殺」などは中国側のプロパガンダ(宣伝)で、欧米を味方につけるためのウソだった。
1941 太平洋戦争 中国のみならず、今度は東南アジアまで侵略しようとした日本を、英米などの列強がなんとか食い止めようとした戦争。 中国の宣伝に乗ってしまった欧米が中国を支援し、日本に対して石油や鉄などの資源を輸出しないという措置をとった。国家がたちゆかなくなる日本は、足りない資源をもとめて東南アジアへ進出したのである。
その結果、そこを植民地にしている欧米諸国との戦争になった。
1945 敗戦 英米や中国などの連合国は、アジア征服を目指す日本をやっつけた。そして、日本の行った数々の残虐行為が東京裁判で裁かれた。 国の存亡のために立ち上がった日本は、圧倒的な物量の連合国に敗れた。
しかし、その結果、数百年にわたって欧米列強に苦しめられていたアジア諸国は、後にその植民地支配から解放された。いまでもそれらの国は、日本に感謝している。


 
出来事 左派の年表 右派の年表
-
基本的な
考え方
明治維新で開国した日本は、その後、世界の一流国を目指し富国強兵に励む。そして、欧米列強の帝国主義に倣い、アジアに覇権を打ち立てるべく武力による植民地支配を展開していった。 大東亜戦争を可能にした主役が「近代」であったことは紛れもない。日本はアジアの中で唯一近代を獲得したがゆえに、「近代戦争」に突入することが可能になったのである。そしてそれが可能であったからこそ、アジアの植民地一掃という義務も生じた。また可能であったがゆえに、戦後経済大国になることにも成功した。歴史は連続している。 《西尾幹二》
1894
日清戦争 日本は、武力で朝鮮王朝を占拠し、親日政権を樹立させる。そして朝鮮半島をめぐって勢力争いをしていた清の艦隊を急襲(豊島沖海戦)し、日清戦争が始まった。 日本は、南下してくるロシアへの防衛のため、朝鮮の清国からの完全独立と日本と同様の近代化を望んでいた。
しかしそこに中国が立ちはだかった。中国は朝鮮に対する理不尽な宗主権と統治権さえも要求しつつ、日本の提唱した行政上・政治上の改革計画を、全てつぶしてしまった。
豊島沖海戦は、日本海軍が「清軍の輸送船を襲撃」したのではなく、
清国の軍艦済遠の発砲から始まっている。
1895
三国干渉 軍備増強に努めてきた日本軍は清軍を撃破し、日本勝利のうちに下関条約が結ばれた。これにより日本は莫大な賠償金を得、中国の遼東半島や台湾、澎湖諸島を手に入れた。
しかし、満州を狙うロシアは、ドイツ、フランスと結んで遼東半島の返還を迫った。国力不足の日本はやむなく要求を飲んだ。
日本は日清戦争で多大な犠牲を払って遼東半島を手に入れる。ところが、三国干渉の圧力で涙をのんで中国に返還せざるをえなかった。
するとロシアは、
日本が返した旅順と大連の港を自分のものにしてしまう。満州の実権を握り、軍事的な意味をもつ港をつくったり、砲台を築いたり、鉄道を敷いたりした。これは侵略の最たるものであった。
1904
日露戦争 不凍港を求めて南下するロシアに対し、アジアでの権益を拡大したい日本は脅威を感じていた。
そして1904年、日本の連合艦隊は仁川、旅順のロシア艦隊を奇襲し、日露戦争が始まった。
三国干渉以来、日本ではロシアへの反感が強まっていた。
当時ロシアは、朝鮮半島の沿岸に軍港を設置しようと試みていた。それより先立って、義和団事変が起こると、ロシアは満州に侵攻し、完全に占領してしまう。日英米がこれに抗議してもいっこうに撤兵しない。
日本は結局、自衛のために日露戦争に踏み切る。多大な犠牲を払って満州の南半分を確保してロシアの勢力を北半分に押し返し、とにかく大陸からの脅威を一応食い止めることに成功した。
1905
日露講和条約
(ポーツマス条約)
日本は講和条約で、韓国や遼東半島(満州の一部)での権益を獲得したが、賠償金をとることはできなかった。
この内容に、莫大な戦費を支えてきた日本国民は激怒。講和反対の国民大会が日比谷公園で開かれ、内相官邸や交番などを襲う暴動に発展した。(日比谷焼討ち事件)
この条約により、日本は下記のような権利を得た。
●遼東半島の南端部(関東州)の租借(中国から借り受ける。イギリスが借りた香港のようなもの)
●そこでの鉄道や炭鉱などの建設・経営権
●朝鮮半島での日本の優越権・支配圏を承認 …など

ここにおいて、日本は合法的に満州の一部を統治することになる。(もちろん中国の承認のもとに)
1910 日韓併合 日本による韓国の植民地支配が進められた。
韓国の人々は日本人への同化を強要されるとともに、土地を奪われるなど、36年にわたって亡国の苦しみを味わうことになる。
日本が列強に対抗するためには、朝鮮を開国・近代化させ日韓強調することが不可欠だった。しかし韓国にはその意思はない。日韓併合はやむを得ないものであり、韓国にも将来を憂う改革派は少なからずいたのである。
両班といわれた韓国の支配階層は、人々を奴隷扱いしていた。併合後、日本はその状態を解放し、土地も王朝が独占していたものを農民に分け与え、
人々の暮らしは飛躍的に向上した。
1915 21ヵ条の要求 第一次大戦で欧米列強の目がアジアからそれている隙に、日本は中国での利権拡大を図るため、21ヵ条の要求を中国政府に突きつけた。 中国における日本の合法的な権益を、中国政府は不法に奪いとろうとしたため、日本政府が「約束はちゃんと守ってくれ」という意味で出した要求。
1928 張作霖暗殺 満州の領有を画策する関東軍は、満州の支配者・張作霖を爆殺した。すると、満州では反日民族運動が高まっていった。 満州の人々は、数年先の税金をむしり取ったり、治安を悪化させたりする張政府の統治に苦しめられていた。(満州の状態参照)
そんな張が邪魔になったために関東軍が暗殺したとされてきたが、最近になって「日本冤罪説」も頻繁に出てきている。
1931 満州事変 関東軍は、南満州鉄道を爆破。これを中国軍の仕業として満州を支配下に置くべく軍事行動を開始した。
関東軍は日本政府の不拡大方針を無視して、占領地を広げていった。
張作霖の息子・張学良は、徹底的な反日政策をとり、合法的に経済活動をしている日本の民間人に危害を加えたり、満鉄を破壊したりとやりたい放題。(満州での排日活動参照)
それでも忍従している日本政府に業を煮やした関東軍が軍事行動に出たものである。中国軍の仕業に見せかけたことはいただけないが、正々堂々と張に対して宣戦布告していれば、十分に認められる
自衛行動だった。
1932 満州国建国 満州全土を占領した関東軍は、清朝最後の皇帝・溥儀を迎え、満州国の建国を宣言させた。
しかし、満州国政府は事実上、日本の傀儡政権であった。
張政権の圧政に苦しめられていた満州の民衆は、自分たちで独立した国をつくりたいという願望があった。
そこへ同じ満州族である溥儀が戻ってくるということで大歓迎。
日本の支援による建国を積極的に支持した。
溥儀自身も、満州に帰りたいという思いは常に持っていたため、決して日本の強制による建国ではない。
1932 リットン調査団 イギリスのリットンを団長とする国際連盟調査団が、日本の一連の行動を調査するため満州各地に赴いた。
その結果報告書は、満州事変を日本の正当な自衛措置とは認められないとするものだった。
リットン報告書をちゃんと読めば、満州事変までの中国側の約束破り、反日政策を批判し、その結果としての日本の立場も認めている。
その上での妥協案として、満州の独立は認めないが、一種の特殊地域にして日本の影響下におこうというのがリットン報告書の骨子である。
1933 国際連盟脱退 リットン報告書にある満州からの日本の撤兵案を、国際連盟が可決。日本はそれを不服として連盟を脱退した。
これにより、日本は国際的孤立への道を歩んでいった。
外交文書は、様々に技巧を凝らして本音を洩らさないのが通常である。お菓子を遣るにも、まず説教をしてからというわけだ。報告書は結果として満州国を認めているのに、馬鹿正直な日本の政府はそれを読み取れなかった。 
1932
 ~35
軍部主導の政治
が始まる
1932年の5・15事件(右翼や海軍青年将校による首相射殺)、1935年の2・26事件(陸軍青年将校による大臣の殺害)などのテロが頻発し、政党政治が終わりを告げた。
そして海軍大将・斎藤実を首相とする内閣が誕生(1932年)し、軍部は政治的発言力を高めていった。
決して軍の力だけによって日本の政治を動かしたことは一度もない。ドイツはファシズム国家によって議会を停止した。日本の場合は議会はずっと機能しつづけて、昭和20年5月のときでさえ帝国議会は正常に開催されていて、何らの抵抗・妨害はなく粛然として行われていた。だから終始一貫して日本は議会主義政治を守っていたのである。
1935 華北分離工作 関東軍は、満州の隣にある中国の華北地方に傀儡政権を樹立させて、第2の満州国にしようとした。
中国はテロリスト・義勇軍・匪賊、時には正規軍さえもけしかけることによって、満州国の国境地帯で紛争を起こすやり方をとった。
そのため、保護者である日本軍が武力を使わざるを得ない。その結果、東河北自治区域として知られる、狭い帯状の緩衝地帯が設立されたのである。
1937 盧溝橋事件 北京郊外の盧溝橋での小競り合いがもとで、日中戦争が始まった。ここから日本の侵略は中国全土に及ぶことになる。
蘆溝橋事件は、現在の学会では中国側が挑発的な発砲をしたという定説になっている。中国共産党の劉少奇が率いる工作隊がしかけた。
当時の中共は青息吐息の状況で、生きる道は日本と国民党が血みどろの死闘となり、国共とで抗日統一戦線を作る以外なかった。日本と国民党が停戦し、国民党が中共をつぶしにかかるのを恐れた。
1937 日中全面戦争
への拡大
盧溝橋事件は7月11日、停戦協定が成立し一応の終結をみた。しかし日本の軍部では「これを好機に華北を制圧しよう」という戦争拡大派の意見が優勢となり、本格的な戦争へと発展していく。
停戦協定が結ばれたにもかかわらず、中国側は日本軍に対する攻撃を続けたり、一般国民を虐殺(通州事件)したりしたため、ついに日本国民の怒りが爆発した。そのため政府も反撃を開始せざるを得なくなった。
1937 上海事変 日本軍は、上海で海軍中尉が射殺されたことを口実に、上海に攻撃を仕掛けた。これによって戦火は華北から華中にまで飛び火した。
蘆溝橋事件から通州事件にいたる一連の事件をめぐる和平交渉が、8月9日上海で予定されていた。
ところがその直前、大山勇夫海軍中尉と斎藤嶼蔵一等水兵が、支那の保安隊により虐殺された。
これは和平交渉を棚上げし日本を戦争に引き込むための挑発であった。
1937
 ~38
南京大虐殺 日本軍は中国の首都・南京に総攻撃を行い、占領した。
その前後、日本軍によって30万人の市民が虐殺された。
南京戦の過程で、戦争のため巻き込まれた市民や捕虜に対する処刑はあったが、30万人もの市民を虐殺したなどという証拠はどこにもない。
1940
北部仏印進駐 日本は膠着する日中戦争打開と資源確保のため、北部仏印(フランス領インドシナ)への侵攻を開始した。
本来、中立国であるはずの米英が中国へ軍事物資の支援を行っていた。その支援ルートが北部仏印にあるため、そのルートを断つために日本は進駐した。
なお、
この行動は仏印政府との協定によるもので合法だった。
1940
日独伊三国同盟
締結

この三国同盟は、自由主義大国アメリカの参戦を抑止するためのものであった。
アメリカは、日本の北部仏印進駐とこの三国同盟締結に対抗して、航空用燃料、くず鉄、鉄鋼の対日輸出禁止という経済制裁措置に出る。
三国同盟を結んだ時点で対米戦争は決定づけられた。
三国同盟を結んだのは、その前に防共協定があったから。共産国家に対する危惧、国を守ろうということで日本もドイツも一致したから結んだ。
また、日独連携によって英米に対する日本の地歩を強化することは、日中戦争を解決し、対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。
国際的な政治力学上、三国同盟に対抗しうる力はなかったのである。
今批判している者は、ドイツの敗退を見て後からつけた理屈である。
1941
7月
南部仏印進駐 さらに日本は、石油、ゴム、アルミなどの資源を求めて南部仏印進駐を開始する。 米国の貿易制限が強化される中、石油輸出禁止が予想され、南方資源(特に蘭印の石油)確保が緊急の課題となった。日米交渉で妥協を見せないアメリカへのいらだちの高まりもあって、南部仏印進駐を決めてしまったのである。
1941
8月

日本への
経済制裁強化
日本の南部仏印進駐に態度を硬化させたアメリカは、対日石油輸出の禁止、在米日本人の資産凍結などのさらなる制裁措置に出た。 こうした経済制裁自体、すでに戦争行為である。
それでも日本は何とか戦争回避のために、必死の日米交渉を続ける。
1941
11月
ハルノート アメリカ国務長官のハルは、日本政府に対しての最後提案として「ハルノート」を示した。
中国・仏印からの撤兵、三国同盟の廃棄、中国を満州事変以前に戻すことなどが主旨であった。
「ハルノート」は、要するに明治以降の日本の大陸における一切の権益を全部放棄して、4つの島に引っ込めということだった。これまで日本が譲歩を重ねてきた日米交渉を全て無視してまで。
これではとても日本が呑めない条件であることを知りながら、ハルはこれを提示した。事実上の宣戦布告である。
1941
12月
真珠湾攻撃
太平洋戦争開戦
12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾を宣戦布告なしの奇襲攻撃を行った。陸軍はイギリス領マレー半島に上陸する。
ここに太平洋戦争の幕が切って落とされたのである。
日本の真珠湾攻撃は、戦争の原因ではなく、アメリカと日本がすでに始めていた戦争の、一行動にすぎない。
1941
12月
アジアへの侵略 日本軍は開戦とともに怒涛の快進撃で南下を進め、シンガポール、グアム、ニューギニアなどを次々に占領。
半年後には、ほぼ南太平洋全域を侵略した。
日本は東南アジアを植民地にして搾取していてた欧米列強と戦争したのであって、現地の人々と戦争したわけではない。
それに長年、欧米に痛めつけれられてきた植民地の人々は、白人をやっつけて植民地解放を実現してくれた日本軍に対し、歓迎の意を示したのである。
1942
 ~44
戦局の悪化 92年6月のミッドウェー海戦で日本海軍がアメリカ軍に大敗すると、戦局は一変。圧倒的な物資をほこる米軍は猛反撃に転じた。
日本軍の快進撃はわずか半年だけだった。物資に乏しい日本は、もともと短期決戦以外に米英に勝てる見込みはなかったのである。
大東亜戦争は絶対的に勝てるはずのない無謀な戦争であった、と思い込んでいる人が多い。しかしながら、例えば日米戦力の差といったものも、開戦時で見ると日本の方がかなり優位にあったのが事実である。
しかし1943年以降、アメリカの戦争はがらりとその様相を変えた。酷薄で無慈悲になった。大量の弾薬を乱費するようになった。銃弾を前方にばら撒く作戦に変わった。集中砲火、絨毯爆撃というようなことが行われるようになった。
1944
沖縄戦 沖縄戦は唯一の本土決戦。沖縄守備軍の目的は県民を守ることではなく、米軍の本土上陸を遅らせることだった。
その過程で日本軍は、足手まといになる沖縄県民に集団自決を命令したり、直接殺害したりした。
集団自決命令などなかったという証言も多く、その結論は出ていない。沖縄県民は軍とともに日本国のために必死に戦い、誇り高く散っていったのである。
1945
原爆投下・終戦 もはや日本にアメリカ軍を迎え撃つ力はなく、敗北は明らかだった。
ところが、国体護持にこだわる政府は陸軍強硬派を抑えることができず、8月6日に広島、9日に長崎への原子爆弾投下をまねいた。
いったいあの場合、アメリカは原爆を投下すべき何の理由があったであろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができていた。広島に原爆が投下される2ヵ月前から、ソビエトを通じて降伏の交渉を進める用意をしていたのである。

※左側の年表は「図解日本史 [成美堂出版](野島博之氏監修)などを参考にさせていただきました。



            
 


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